「『言葉』にする」ことで”価値”をつかまえる。
毎朝の「お参り」をするようになって数年になります。続ければ続けるほど、この「お参り」の効果を感じるようになっていて、もうそれは日々体感できるほどの感じです。このことを友人に伝えると、多くの友人が「お参り」をスタートさせていて、「『お参り』ってすごくいい!」って感想を伝えてくれるようになりました。ちょっとその広がっていく感じがすごい…ってことに自分自身も驚いています。
友人の1人、原っぱ大学の塚越さんがその思いを「つれづれ通信」の中「そうだ、役割をまっとうしたいんだ!」という記事で綴ってくれています。素敵な文章なので、ぜひ読んでいただきたいです。
そして、小学校5年生のうちの長男も「お参り」の効果を感じている1人。彼は、4年生の時の大きな怪我をきっかけに「朝参り」を続けています。これは、ボクが彼を見ていて感じていることですが、ずっと「お参り」を続けている姿を見ていると、カウンセラーだったり、メンターだったり…そんな、子どもたちを支える大きな存在になり得る…と本気で感じています。
本人にも「お参り」をしていることについて、どんな感じがしているかを聞いてみると、「『お参り』をすると、ご先祖様が近くに来てくれて応援してくれる気がするから、できるだけ行ける時は『お参り』に行きたい。」と言います。
息子の姿を見ていて、控えめに言ったとしても「『お参り』は子どもたちの最強のサポーター!」って心の底から思っています。もし、お子さんが近くにおられるなら「お参り」を習慣にしてあげることを心からオススメします。
「『お参り』がすごい!」って話が新鮮だと感じるのはなぜか?
この「『お参り』がすごい!」ってことについて、いろんな方に伝えているのですが、そんな中、ふと気づいたことがありました。それは「自分たちは何か新しいものに出会ったような気持ちでいたけど、昔の人にとったら別に特に取り上げるものではなく「お参り」は”当たり前”だっただろうな…」ってこと。
「お参り」のことを伝えていたら、小さい頃に長崎のおばあちゃんが毎日お参りをしていた姿を思い出しました。毎日毎日、神棚や仏壇にお参りをして、”お墓さん”にもお参りに行って…。おばあちゃんが「お参り」している風景は、ただただ”当たり前”の風景でした。
そんなおばあちゃんの姿は、ボクらの一世代前のみなさんにとったら、たぶん普通の風景だったはず…です。でも、ボクらは、新しく「お参り」の良さを発見したような気持ちになっている…。これは、ボクらが過ごしてきた環境が「お参り」から離れてしまっていた…ってことが影響していただけ…かも知れないなと思ったのです。
そんなことを思っていたら、また1つ疑問が生まれました。
「お参り」について、自分自身も友人も「『お参り』には間違いなく効果がある!」って断言できるくらいなんだけど、そんなにいいものなら、もっともっと話題になって、もっともっと盛り上がってもいいのに…と思うのに、逆にあまり話題に触れる機会もなかったし、「お参り」から離れてしまっている現状が生まれているのはなぜなんだろう?…と。
昔の人も「お参り」の効果を享受していたはず…
そんな疑問を持つようになってからいろいろ考えながら「お参り」を続けてきて、ボクの中でさらに1つ気づいたことがありました。それは、当然、昔の人も「お参り」を続けていたら、当然その良さを享受していたはず…ということ。
ただ、おそらく、あまりにも”当たり前”だったから、その良さを「『言葉」にする」ってことをすることもなかったし、あえて「『言葉」にする」って必要がなかった…ってことなんじゃないかな…と思います。その良さについて、感覚ではみんなが分かっていたと思うし、みんなの中で共通認識もできていた感じだったと思います。
だけど、あえて「言葉」にしていなかった…。「言葉」になっていなかった…。「言葉」になっていなかったから、家族の形が変わってしまった時に、そのことを伝える「言葉」がなかったり、あえて話題にして伝えるたりすることをしてこなかったことで、ボクら世代は「お参り」の良さについての話に、これまであまり触れることがなかったのかも知れないな…と思っています。
そんなことを思いながら、近くで暮らしている義母の姿が頭に浮かびました。義母も、毎日毎日、”当たり前”に仏壇に「お参り」をし、ご近所のお地蔵さんに「お参り」をしています。おそらく、それは”当たり前”で、そのことをわざわざ取り上げて話をすることはありません。だけど、ボクらは、毎日の義母の姿を見て「背中で感じること」ができますが…。
最近は、家族の形が変わってしまって、一緒にお参りにいくこともなくなってしまっていたり、祖父母の動きを「背中で感じること」ができなくなってしまっていたり…で、その良さを感じる機会がなくなってしまっています。そして、それがあまりに”当たり前”のことだった…ってことで、その良さが「言葉」になっていなくて、その「価値」に気づくことができなくなっていたんだろうな…と思うんです。
必要なのはいい!と思う「価値」を”「言葉」にする”こと!
いろいろ考えてきたことで、今、思っているのが「『言葉』にすること」が大切!ってこと。ボクが考えている「お参り」のように、いいものでも”当たり前”の中に埋もれてしまって感じたことを「言葉」にしていなかったら、その「価値」を捉えられない…ってことが起こり得ます。そして「言葉」がなければ、もしかしたら今後語られることがなくなってしまって、最悪は失っていることにも気づけない…なんてことも考えられます。
だからこそ、ボクは自分自身が感じている「お参り」のことをできるだけ「言葉」にしていきたいと思っています。そして、その「言葉」をできるだけ伝えて、できるだけ堂々と「言葉」にして語り合いたいと思っています。おそらく、それは、もしかしたら昔から”当たり前”に(もしかしたら、そのことに気づかずに…)享受していたことを「言葉」にして、その「価値」を捉え直すことにつながっていく…はず…と思っています。
「お参り」についていろいろ考えてきたけれど、この話は「お参り」に限った話ではないはずです。他のことも同じように「大切だと思ったこと」や「いいと思ったこと」はできるだけ「言葉」にしておかないと、その「価値」に気づけず、そして捉えられずに、ボクらの手からすり抜けてしまうかも知れないな…と感じています。
今年はもうすぐ終わってしまいますが、このことをまとめられたのが今年の一番の収穫かも…と思っています。2025年は、自分の日々の暮らしの中で、大切だって感じたことをできるだけ「『言葉』にする」ってことをがんばっていきたいです。そして、日常にあふれているだろうたくさんの大切な「価値」をつかまえておきたいです。
庵治石細目「松原等石材店」3代目 森重裕二