「外国語におけるコミュニケーション教育」を再考する❸
コミュニケーション教育なのに文法中心に偏っている現状について見てきました。コミュニケーション教育なのに言葉の学びが文法中心に偏るのには、言葉を情報・機械的な記号として捉える考え方に依拠しているからのようです。
この理論によると、コミュニケーションとは、送り手Aと受け手Bが、メッセージを解釈するコード(文法)を共有することによってメッセージを授受していると考えます。だから、発信し解釈するための共通ルールであるコード(文法)を学べば、ネイティブ同様のコミュニケーションができるようになるというのです。
一方で、言語人類学では、コミュニケーションを違った視点から捉えています。コミュニケーションを「AとBの言葉のやり取り」という側面にだけ目を向けず、「AやBの関係性やシチュエーション」に注意を向けるべきだという考え方です。
綾部保志先生と小山亘先生は、言語人類学のコミュニケーションを次のように定義しています。
このように言語人類学では、文法コード以上に、シチュエーションや社会文化的な文脈を重視します。なぜなら、誰かと実際にコミュニケーションをするときには、私と相手が誰なのか(社会階層)、年齢構成がどうなっているのか(文化的規範)、学校なのか職場なのか(文化的制度)といった状況に応じた対応が、必ず求められるのです。文法コードだけを学んでも、コミュニケーションはできないのです。
ステップアップハングル講座でも使用した次のスキットを例に見てみましょう。
형아という言葉からAとBが男性であることがわかり、Aが年上、Bが年下であることがわかります。Aがため口、Bが敬語であることも、その理解を補います。Aがため口であることから、二人が子供であるか、大人ならオフィシャルではなくプライベートでの会話のようです。형아は幼児語ですので、AはBがかわいくて仕方ないのか赤ちゃん扱いし、実際にはそれほど子供っぽくないのであろうBが少しうざがっている、そんな感情も読み取れます。単なるAとBの情報伝達であることを超えて、両者の関係性や文化的規範、人物像までにじみ出ているのです。
高コンテキスト文化と低コンテキスト文化
「異文化コミュニケーション」という学問分野では、「高コンテキスト文化の社会」と「低コンテキスト文化の社会」があると述べています。日本や韓国は、高コンテキスト文化の社会に位置づけられます。歴史や文化の文脈(コンテキスト)の共有度合いが高い単一民族などの社会では、言葉よりも状況や文化的な文脈で判断する部分が多くなります。一方、多様な文化的背景を持つ人々が暮らす移民国家などの社会では、状況や文化的な文脈といった曖昧なものではなく言葉で表現することが多くなるといわれています。
高コンテキストに属する韓国語や日本語は、英語やドイツ語よりも社会文化的コンテキスト、つまり状況に応じた言葉選びを学ばなければ、実際にコミュニケーションできません。
ちょっと難しいので日本語を例に出していきましょう。日本語特に関西弁に「行けたら行く」という言葉があります。これを今までの言葉の学習で学ぶと、「行く」という用言に仮定の語尾「〜たら」付いて、「行くことが可能であれば行きます」という意味になると説明されるでしょう。可能性としては文法的な意味だけから考えると2・30%の可能性を残している感じでしょうか。
よく考えてください。日本語の意味としてあっていますか?「行けたら行く」の意味は「行かない」ですよね。可能性0%です(少なくても関西の若者の中では)。「行かない」けれども完全な拒絶は角が立つので、相手への配慮をしめす日本社会独特の本音と建て前の世界です。言葉にはこういった文化文脈が入るものがあるわけで、文法だけやっていてもそのニュアンスが伝わりません。これが高コンテキスト社会の言葉の一例です。
韓国語なら、長幼の序を意識し、年配には敬語を、逆に自分が先輩であれば後輩にぞんざいな言葉を使うという選択が必要です。人間関係と言葉が密接に絡まり、ある言語を選ぶことが、ある人間関係を規定してしまうのです。韓国社会では、自由気ままに好きな言葉を選んで発することは許されません。何かしらの人間関係の型にはまらないと、コミュニケーションできないのです。私はこれを「ポジションに入る」と呼んでいます。このポジションが、会話での言葉を大きく規定しているのです。
男性アイドルグループ内の年長者は、弟たちからヒョンと呼ばれ、敬語で話しかけられます。一方の年長者は、弟たちを呼び捨てにし、敬語を用いません。これは、日本でも学校や部活で見られる先輩後輩関係の話し方です。少し違うのは、その関係性と言語の選び方が、学校や部活を超えて、より広いシーンで用いられていることです。
これは基本形ですが、出会ったばかりなのか親しくなって久しいのか、フォーマルなシーンかプライベートなシーンかによって、選ばれる言葉は変わります。性や世代が違えば、またさらに違ったフォーメーションを見せます。なので、文化社会的コンテクストを、文法ほど固定化したルールで捉えることはできません。年上相手でも、敬語で話さないこともあり得ます。「ルールと違うじゃないか! 先生は間違ったことを教えた!」と思うかもしれません。言葉の選択は、相手との関係だけでは決まりません。誰がこの会話を聞いているのか、家の中なのかスタジオなのか、同じ仕事でもオフィシャルのトークショーなのか私的な空間で行っているVLIVEなのか、あらゆる状況に目配りしながらその場に合った言葉選びをしているのです。こうした言葉の選び方は、日本人も普段からしていることです。文化的な文脈は複雑で文法の様に正解が決まっていない世界でもあります。
ところが、実際の語学学習では、敬語の文法に偏重します。 (으)시という語尾の付け方中心に習うことになるのです。日本と違って親や上司にも絶対敬語を使って話します、くらいのことは教わるかもしれません。でも、この敬語学習の神髄は本来、いつ敬語を使い、いつ敬語を使わないかにあります。なのに、語尾の作り方しか習っていないのです。実際に韓国語で会話をすることになっても、言葉選びができるはずがないのです。
ここまで、3回にわたって「外国語におけるコミュニケーション教育」について見てきました。
英会話が例でしたが、日本でのコミュニケーション教育は、文法事項を習得するためのスキット練習を相手不在・自己開示不在の中で行うからなのか、「コミュニケーション」の本質とはかけ離れてしまっていました。そのため学習を積み重ねるほどに、「いつか現地に行って、自分の覚えた言葉が通じるのか試したい」という欲望に駆り立てられるようになってしまうのではないかと思います。これは、コミュニケーションなどでは全くありません。
AとBのスキット練習から抜け出さない限り、コミュニケーションにはならないのです。何より学習者がこれをありがたがってはいけません笑。リアル会話はA、Bから抜け出すことの方が多く、暗記しても想定からはずれます。
さらに、流暢な発音やこなれた言い回しが「かっこいい」というイメージが先行し、ベタベタな発音やこなれていない言い回しが「恥ずかしい」と思い込まされているようにも思います。実際のコミュニケーションでは、「流暢な発音」が「ベタベタな発音」に勝るわけでは決してありません。「相手に伝えたい、相手を知りたい」という意志や思いがまず先なのです。推し活をされている方は、その思いは人一倍だと思いますので、ペラペラ韓国語の人を前に、怖じ気づく必要など全くありません。(←ここが一番伝えたいことです)
また、高コンテクストな韓国語のコミュニケーションは、文法という情報伝達コードを学ぶだけでは不十分であることを見てきました。人間関係、周囲の状況といったことが、言葉選びを大きく左右するからです。絶妙なバランス感覚で言葉を選択しているため、ルール化するのが難しい側面もあります。韓国語は高コンテクストな言語であるからこそ、文法に特化しない学びをしていただきたいなと思います。
最後にこれだけは、文法だけを理解しても推しの人となりは全く分かりません。