「機(気)を見るに敏」だと安心します、と1月24日の日記
最近、神社を見かけるとお参りするようになりました。
ただただ、ふと街を歩いていた時に鳥居が見えると、自然とそちらの方に吸い寄せられていく感じがします。まぁ、自分で意志を持って歩いていくだけなんですけど。
で、そういう時に、やっぱり同じように散歩のついでにフラっと寄っている人がいて、「ああ、同じなんだなぁ」と安心するんです。
オバケはいない
いや、霊的なものとかも含めて長い間ぼくはちょっぴり臆病だったんですよね。怖いものは敢えて見ないし、間違って「怖い話」を見てしまった夜なんかは、何よりお風呂で頭が洗えなくなる子供だったんです。目をつぶると怖くて、もう。
漫画の「地獄先生ぬ〜ベ〜」とかでも、結構キテたの思い出します。「口裂け女」の回とか、友人宅で読んで、夕方の帰り道は本気でチャリ漕いだり。
まぁ、それくらい臆病者だったわけなんですが。
それがどうしてか、大人になってからは「オバケはいない」ということに落ち着いた。なんでそう言えるかというと、20年、30年生きてても“会えてないから”なんですよね。
そりゃ、そうだ。いないものには会えない。
仏はいる。
でもでも、だからと言って、全部の“見えない何か”を否定するつもりは毛頭ないのです。心の中に存在するものは、必ずある。
若くして死んだ父親は、いつも一番そばで見守っていてくれていると信じているし、大好きだったおじいちゃん、おばあちゃん、ぼくの小さい頃からの“心の育て親”である伯父さん、好きなことにとても一途だった叔母さんも含めて、死んだ人は永遠の「心の支え」でもあると思ってる。
だから、御墓参りも欠かしたことはないし、仏壇にも手を合わせる。
神事的なものはものすごく大事にしているし、会社や事務所を訪問して「盛り塩」がしてあったりすると、「ああ、一緒だ」とちょっとホッとしたりする自分がいる。(かと言って、盛り塩しているわけではないけど。)
なんというか、「その辺の感覚が一緒」っていうのは妙な安心感がある。
「何かを大事に信じる心根」が一緒ってこと。
そういう相手とは、人間関係もビジネスもうまくいくような気がします。もちろん、へんてこりんな啓発セミナーとかは話が別。
タイトル的には順序が逆になってしまうけど、「機」というものについてm考えることが多い。
どうやっても合わない人は、いる
タイミング、ご縁って難しい。本当に難しいです。
予定をどれだけ丁寧にすり合わせても、当日にダメになることもあるし、「ああ、もうそういうご縁だよね」となることもそれなりにある。
逆に、パっと連絡したら10分後に会っていることだってあると思うし、邪魔な予定が急になくなって、計画されていたように会えることだってある。
なんかこう、運命の不思議さを思わざるを得ない展開。
「機を見るに敏」という言葉が大元にあります。
ぼくは、同じようなスピード感で、同じようなタイミングを持っている人を見るとこの言葉を思い出す。
なんかそれは、いいとかわるいとかの話ではなくて、合うべくして合っているものなのかなと。
言葉で言おうとするとどうしても胡散臭くなるけど、そういうものってありますよね。
こうした「機会」とか「気運」を同じ目線、似たような心根で迎えられる人だと、ぼくはとても安心してお付き合いができるよな、と思ったのでした。
もちろん、それだけが理由ではないけどね。
*
1月24日(日)
7時半に起床。土日の朝はわりとゆっくり。平日ガツンと早起きしているからちょうどいいのかも。
白湯をゆっくりと飲んでから、朝の散歩。この日は少し作業の日。
朝ごはんは、美味しい食パンとコーヒー、お豆腐屋さんのがんも。
今週、本業以外のところから少しプロジェクトのお誘いがあって、面白そうだからつい覗いてしまう。そして、関わる。今後に繋がるし、どこかで自分の好きと通じるといいな、と思っている。
そのための資料作りを。
お昼は、家族でいつものラーメン屋にいき、胡麻味噌ラーメンと餃子。妻も娘も大好きな街中華。
お昼ご飯を食べ終わってからは出かける準備。なのでこの日はちょっと家族サービスできなかったのが心残り。
目の前の仕事とかやりたいことは確かに情熱を持ってやりたい。だけど、その大元の生活とか家族、大事なものはそこにあると思うから、おざなりにしない。順序を間違えない。気を付ける。
夕方、少しうとうとしたのち、暗くなってきたので郡山のホテルを予約して、出かける。日曜〜水曜の4日間だけど、いい出張にしたい。
郡山に着く。特段食べたいものもなかったので、エビスビールを買ってホテルで「麒麟が来る」をみる。あとは、温泉とサウナをしっかりとキメて、よく寝ることにした。
このホテル、すごく快適でいいです。
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