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楽しいときは楽しいと思ってないんだね

ひとりのときは。

 ずっと追っている漫画で「おっ」と思ったことがあったので推して参る。

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 主人公:小村くんは無趣味で、特技もなくて、自信もなくて。気にしい。

 ヒロイン:三重さんはぼんやり天然不思議タイプ。

 挟まれるメガネあるあるネタとそうはならんやろネタを肴に、「付き合え……付き合え……(いやでも実質付き合ってるな?)」とニチャニチャするのが大変乙な漫画である。ところでヒロインの名前「三重あい」なの、メガネ忘れまくって見えない~~って言ってる「見えない」ちゃんだから「三重あい」なのかなって思ってクスッとなったぞ。斜に見られると困るあだ名っぽさは丁重に脇に置いといて。

 それにしても「メガネを忘れた」で7巻も引っ張れてえらい。

 そもそも昨今この手のパターンは量産されているわけだが――

 すぐれた量産型こそ戦力である。色んな意味で10巻前後が一区切りになっている模様だが、少年漫画よりのも少女漫画よりのもあってどっちもよい。最近は雑食になったなあとしみじみする。

 通底しているのが主人公側は「なにももたない」ことが多い。だけど、そのなにももたなさが巡り巡っていく――というご都合主義と言えばそれまでだが、「なにもないことはないんだ」という祈りのようなものを感じる。一昔前に起きた、何者かになりたいムーブメントが背景にあって昇華されたようにも思う。

 持つ者になってもよいが、持たざる者になってもよいのでは? と。

 それを思い出すのが冒頭の「好きな子がめがねを忘れた」7巻のエピソードである。小村くんも三重さんも能力的には一見すると「無」というか、プラスにもマイナスにも触れてなさ過ぎてゼロだという認識を持っているのが、そのあたり実は二人とも共通の価値観を持っていて……ニチャアという展開である。

 その「無」であり「なにももたない」ときがお互いにとっては大変魅力的に映り、また心地よいものだった。でも、それはこれまでお互い接点のないひとりの時は自覚できていなくて「無」だった。という。

 ただ漫画内で言及はないが、「無」の時の彼らはいわゆるゾーンに入ったときの様相を呈している。本気で集中しているとき、人は無になるのだなと。そういえばそうだったなと思わされた次第。

 ものすごく熱中していることを他人は「楽しそうだね」と言うときがある。でも本人は「楽しくないよ」と言う。だけどその楽しくないという人が二人合わさってなんやかんやしてるときは楽しくしている。笑っている。楽しいという自覚が芽生えている。

 つまり楽しいの根源には例外を除き他者が――おっといけない、この話はここまでだ。はやくルビふりいっぱいしたいなぁ(虚無顔)

 みんな足るを知っててえらい。

われわれが深淵を覗くとき、深淵もまたわれわれを覗いているのだ……