どもるぼくと、時々どもる川(ぼくは川のように話す/ジョーダン・スコット,シドニー・スミス)
朝、目をさますと、
口のなかにはもう、
そんなやっかいな音が
つまっている。
――本文より引用
「その話し方って、わざと?」
と、言われたことがある。
「なんだか、甘えた感じの話し方ですね」
とも、言われたことがある。
自覚はない。ぼくは、ただ普通に話しているだけだ。それなのに、言いがかりをつける人がいる。しかも、一人や二人じゃなくて。
ぼくは、親しい人であればあるほど、滑舌がゆるくなるらしい。(それで、甘ったれた印象になるんだろうか。)逆に、見知らぬ人を前にすると、舌がもつれて、どもることはしょっちゅうだ。だから、バカにする人はめずらしくなかった。幸い、今はそういう人は周りにいないけど。
むねのなかに嵐がおこり、
ぼくの目は雨でいっぱいになる。
――本文より引用
もともと、喋るのは得意じゃない。むしろ、苦手だ。他人と関わろうとしてこなかったから。喋るのをおろそかにしていたから、下手なんだろうか。でも下手なのは、子どものころからだったような。「もっとはっきり喋れ」って、親には、さんざん怒鳴られて……これは、まあいいや。
親にしろ他人にしろ、話し方をつつかれると、なにも話したくなくなる。どうせ、バカにされるから。それなら、口をつぐんでいた方がましだから。
どうして、流暢に話さないといけないんだろう。どうして、バカにされないように気を付けないといけないんだろう。どうして、どうでもいい他人のために。ぼくは、ますます口を閉ざした。
「ほら、川の水を見てみろ。
あれが、おまえの話し方だ」
――本文より引用
「川のように話す」
それは、流暢な話し方を比喩するものだ。そう思っていた。でも、『ぼくは川のように話す』は、そうじゃないみたいだ。川は、マナーのお手本のように、とどこおることなく流れる。わけじゃない。
考えてみれば、わかることなのに。どうして、気付かなかったんだろう。荒れることもあれば、凪ぐこともある。どこかで堰き止められては、また流れ出すこともある。
川だってどもってる。
ぼくとおなじように。
――本文より引用
本当に、その通りだ。ぼくをバカにした人達も、いつもアナウンサーのようによどみなく話しているわけじゃない。それぞれの人に、それぞれの話し方がある。正解はない。じゃあ、ぼくはこのままでいいんだ。バカにされても、これがぼくの話し方なんだ。そう思えた。
『ぼくは川のように話す』
また、バカにされたときは思い出そう。
川のように話す。それがぼくで、ぼくにしかできない話し方であることを。
ぼくは川のように話す - ジョーダン・スコット,シドニー・スミス(訳:原田勝)(2021年)