I am(,was)sad.(悲しい本/マイケル・ローゼン)
いろいろなことが、前と同じではなくなったせいで
私の心のどこかに、悲しみがすみついてしまったということなのだ。
――本文より引用
明日。
明日だ。
3月11日14時46分。
『もう』10年なのか、『まだ』10年なのか。
あの日、自分は東日本にいなかった。気付いたときには、世界は一変していた。翌日の新聞の番組表がまっ白だったことが、事の重大さを訴えていた。
関東には兄がいた。「ここで死ぬんだと思った」と兄は言っていた。
実感がないまま、10年が経った。3月11日になれば思い出す。大切な人を失った。大切な場所を失った。そんな人達を。そんな事実を。
でも、震災の記憶が年々薄れていることは自覚している。被災者じゃないから? 現実に起こったことだと、未だに受け止められないから? それでも、明日14時46分に黙祷する。祈りと、どこへ向ければいいのかわからない憎しみを抱えて。
あの日、大切なものを失った人がいる。この10年で、大切なものをまた一から築いた人もいる。けれど、それらを足蹴にする人もいる。自分の未来を奪われた人と、他人の未来を踏みにじる人。どうして前者が亡くなって、後者が生きているんだ。あいつらの方が死ねばよかったのに。
僕は嫌悪する。『死んでしまった人』に祈り、『死ねばいい人』が生きていることを呪っている自分に。「死んでもいい人なんて、一人もいない」と思えない自分に。
誰にも、なにも話したくないときもある。
誰にも。どんな人にも。誰ひとり。
ひとりで考えたい。
私の悲しみだから。ほかの誰のものでもないのだから。
――本文より引用
自分は、どうなんだろう。『死んでほしくない人』だろうか。『死ねばいい人』だろうか。どちらでもいい。生きている自分は、生きていたい。「亡くなった人の分まで」とは思えない。被災していない自分には。「被災者=かわいそうな人」と思いたくない自分には。生きているから、生きていたい。それだけなんだ。
誰のものでもない。僕の悲しみも、喜びも。もちろん、この記事を読んでくれたあなたも。でも、それを奪われた人達がいることは、忘れずにいたい。それが、僕にもできる唯一のことだから。
悲しい本/マイケル・ローゼン、クェンティン・ブレイク(2004年)