蜜と腕(片腕/川端康成)
大切なものを他人に預ける行為は、何を指すのだろう。あなたを信用している証なのか。それとも、あなたになら壊されてもいい、その願いなのか。
「片腕を一晩お貸ししてもいいわ。」と娘は言った。そして右腕を肩からはずすと、それを右手に持って私の膝に置いた。
――p119より引用
娘は、自身の右腕を男に預ける。右腕は着脱式で、肩から外しても、腕にはちゃんと血が通っている。だから、自身の一部をそっくりそのまま男に委ねることになる。
娘と別れた男は、娘の腕を懐に忍ばせ、自宅まで持ち帰る。時々、腕の様子を窺う。男は、本体から切り離されたそれと、仲睦まじく会話に興じる。(腕を通して、娘本人と会話しているのではない。腕そのものが口をきいているのだ。)
娘の腕は、男の懐では慎ましく、男の部屋では無邪気にふるまう。男は翻弄されながらも、腕を慈しみ愛でる。
『片腕』に、直接的な性描写は一切ない。それにも関わらず、そこに漂っているのは、むせ返るほどの性の香り。
男が腕に触れる様が、「どこをどのように」と執拗に書かれているためなのか。あるいは、その芳香は腕そのものが発しているのか。どうにもわからない。
身をまかせるのはどんなことと、女は思っているのだろうか。自分からそれを望み、あるいは自分から進んで身をまかせるのは、なぜなのだろうか。
――p135より引用
自分の腕と男の腕を取り替えてみてもいい。娘は、男にそう言い伝えていた。(男の腕もまた、着脱式なのだ。)腕を預けるのは、たった一晩だけ。それが、彼らが交わした約束だった。
けれど、娘は本当に腕が戻ってくると思っているんだろうか。男は、その約束を守り切れるとどこまで自信があったのだろうか。
男はさておき、娘に代わりの腕はない。片腕は、不便だろう。それに、生まれたときから付いていた、他にはない腕だ。愛着もあるだろう。そんな腕をわざわざ他人に――いや、ただの他人ではなく、この男じゃないとだめだったんだろう。
娘は、男を信頼していたのかもしれない。けれどそれは、腕が必ず戻ってくることに対してではない。腕を愛してくれるのかもしれない。取り替えてくれるのかもしれない。壊してくれることもあるのかも――。
腕を預ける。腕を取り替える。もしかすると、これらは何かの隠喩かもしれない。けれど、きっと何物にも例えられない。男と腕の蜜月は、いつまでも明けることはない。
片腕(『眠れる美女』収録) - 川端康成(1976年)
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