憶測でも意見を述べたがる「私」〜擁護することは、攻撃の可能性を秘めている〜
2024年始まってメンタルが崩壊しかけている。
なぜ、こんなにも心を揺さぶられてしまうのか。
嘆いていても仕方がない。
現在の私は、『君の名は』で三葉の記憶がなくなったタキくんが、糸森町について調べていた時のようなのだ。
怒涛の勢いで連日のニュースの背景を調べている私。
そして、性加害報道やセクシー田中さんの件について、憶測でしかないのに自分の考えを表明したくなることが恐ろしかった。
本当なら本屋大賞ノミネート作品をじっくりと読みたかった。けれど、そんな気分にもなれず、たまたま手に取った本は『ステータス・ゲームの心理学: なぜ人は他者より優位に立ちたいのか』。
本書の一部を私なりに解釈すると、どうやら現在の私は自分の道徳感を社会的に誇示するゲームをしているようだ。
わかりやすく言えば、社会的に道徳的な存在であることを証明するために躍起になっているということだ。
この道徳感を誇示したい欲求の正体を探るべく、AIに質問を投げかけてみた。
Q.どうして人は憶測でしかないのに、自分の道徳感に基づいてSNSで発信したがるのでしょうか?
AIの返答
(1) SNSの「いいね」は怒りを増幅させるフィードバックループを生む──イェール大学が論文発表
(2) SNS は人間関係を変えた - Kyoto Women's University
(3) 大学生における SNS 利用と自己表出傾向との関連
(4) 子どもたちはなぜSNSにハマるのか - 2010 年代のSNS利用とトラブルの動向 - 国立情報学研究所
かなりグサリと刺さる内容だった。
何に刺さったかはここでは記さない。
しかし、憶測でしかないのに物事を語りすぎる理由の一端については知ることができたように思う。
最後に
・自分の道徳感に基づく擁護は、異なる道徳観をもつ方々への攻撃になりかねないということ。
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