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『鳥の種類は書くべきか? 小学生への文章指導で注意すること(1)』学ビ舎いろはに001

こんにちは。藍澤誠/Jの先生です。
東京府中市で小中高を対象とした塾を2000年からやっています。
生徒と共に20年以上学んできた中で得た経験を綴っていきます。よろしくお願いします。

書きたいテーマはたくさんありますが、まずは「小学生への文章指導」についてシリーズで書いてみます。

うちの子の日記、壊滅的です!
もう文章下手すぎて・・・どうにもならないです。
入試に作文があるんですけど・・・

上記のような悩み、私の元に幾度寄せられたことでしょう。本当は「文章指導」なんて言葉使いたくないのですが、使いたくない言葉を使った方が通りがいいので、使ってみます。

第1回目の本日は、私が受けた「文章指導」について書きます。
私が小学校5年生の頃の話です(かわいい男の子を想像してください)。

私は宿題の日記に「朝の驚き」を書きました。当時の日記帳が手元に残っていれば良いのですが、残念ながらないので記憶に基づいて書きます。

※小学生の親御さんは、将来のために子どもの日記をぜひ取っておくとよいと思います!

起きた瞬間に外が明るかったのでたしか夏、いつもは早起きなんてしない私でしたが、その日はなんと早朝5時に、鳥の声で目が覚めたのです。

鳥の言葉は文字に起こしにくいのですが、あえて書くと、

ギャー ギャー
ガァガァ
ヒィピィヒィピィ
チチチチチチチチ

「なんだ? 鳥の戦争でも起きたのか?」

嵐のような鳥の声!
寝ていた部屋は、アパートの1階の、北側の部屋。私は急いで寝床を抜け出し、カーテンを開けて外の様子をうかがいました。

北側のベランダの先にはちょっとした広さの畑が広がり、その畑の向こうには背の高い木が並んでいます。その木々に鳥たちがとまっていて、朝早くから騒々しく鳴いていたのです。あまりにカオスな鳴き方とその声の混ざり具合に驚き、感動したので日記に書くことにしました

どんな文章を書いたのかよく覚えていないのですが――自分なりに感動を書いたつもりでした。鳥がすごく鳴いていて驚いた、あんなの初めて見た、という「そのまんまのこと」を書いたのだと思います。

今思い出しても、あの朝はすごかった。あんな光景、その後一度も見たことないです。ムクドリが駅前の木に大量に集まってうるさく鳴いているみたいな光景は何度も目撃していますが、複数種類の鳥が大合唱しているなんて後にも先にもあのときだけです。

ところが――先生は赤字でこんなコメントを返してきました。
私は「指摘されたミスは直す真面目なタイプ」だったので、よく覚えています。

「鳥が鳴いていたではわからない。何の種類の鳥か書きなさい」

え?

当時5年生だった私は、言われた通り、具体的に書き直しました。

カラス科であるオナガたちは、まるで自分たちが主役だぞと主張するかのように無遠慮な声でギャーギャー鳴いていた。それとは対照的に、小型のセグロセキレイたちはチチチチチと軽快な音色を端正に奏でている。かみ合っているのか反発し合っているのかわからないこのかけ合いにアクセントをつけていたのはヒヨドリ。彼らが放つヒィピィという存在感のある伸びやかな声は……

冗談です。
そんなはずはありませんね。

担任にダメだしされた日記はちゃんと書き直して再提出するルールだったのですが、当時の私はたいして書き直すこともできずにやり過ごした記憶があります。

実際問題、声はすれども鳥の姿なんて見えませんでした。聞こえていた鳴き声は日記を書いている途中に頭から消えちゃったし、もし残っていたとしてもその響きから鳥の種類を当てられるはずもありません。もしかしたら、その先生が顧問の野鳥観察クラブに私が所属していたから、ハイレベルの記述が期待されていたのでしょうか。

いずれにせよ「感動したこと」ではなく、「書き方」や「具体的描写」を求められたのだと思います。たしかに

今朝、裏庭で鳥が鳴いていました。すごい鳴き声でした。びっくりしました。あんなこと初めてです。

という文章に対し、「どのくらいすごかったのかを言葉にしてみよう」とか、「どんな鳥が鳴いていたのかを書くと、読み手の頭に絵が浮かぶよ」みたいなアドバイスをしたくなる気持ちはわかります。5年生だったらもう少し書けるだろうとかもどかしくなる親がいることも理解します。

でも――それは「読み手ファースト」読者に配慮した書きかたです。相手に配慮することで、文体や表現の精緻さが変わることはあるし、それが筆力アップにつながるのはわかるのですが(こうしている今も、一応私は読み手のことを少しは考えている)、小学生の作文指導で私が大切にしたいのは「感動したその気持ち」の方です。

「びっくりしました」「あんなこと初めて」

ここに心を寄せてあげたい。

先生や親が「その文章からどういう印象を受けたか」ではなく、「子供の心が動いた」という事態の方に響いてあげたいです。

「先生が登山している高尾山にも鳥たちがいっぱいいます。いつか大きくなったら見に行ってみてね。高尾山だからね。要チェック!」

とか

「そうなんだ。それはびっくりだね! 先生もそんな鳴き声、味わってみたかったな。今日は誠くんのお布団でいっしょに寝ようかなw」

というような感想を添えてあげたい。

先生側もリラックスしたスタンス、子どもの将来を見据えたスタンスが前提にあるといいなと私は思います。

日記についていえば、指導的なものは後でもいい、なんなら指導はなくてもいい(先生の感想はあった方がいい)と思います

子どもの文章なんて練られていないし隙だらけ、とくに日記は、めんどうくさくて急いで書いたものも多数なので、こう書けとか、こうすれば臨場感が出るとか、それじゃ伝わらないから、みたいな文章が苦手な先生や親でも、指摘はいくらでもできる。

しかしそもそも子どもたちは特異な例を除けば、日記をちゃんと書こうとすら思っていないので、先生が改善点を挙げたわりに、子どもには響かない。両者にとって負担。日記自体が誰得?って思える課題になっている

書くテクニック、伝えるテクニックは日記に持ち込みたくない。

それらは「感動を保存する」という「日記」の役割から外れているように感じます。「日記」に「執筆テクニック」を求めるから、意義がもつれて、ややこしい話になるのだと思います。

「いやいや、書くテクニックをアップさせるために日記を書かせているのだよ」という反論があるとしたら、日記を素材にするのはやめた方がいいように思えます「文章力」を高めたいなら、特定のテーマを決めて、拙い文章で書かれた課題文を与えて、それをよりよく編集するような授業をやった方が効率も気分もよいと思います。文章を磨くためのトレーニングをするのに、自分の文章を(素敵な体験や感動を)素材として用いる必要はないと思います。

日記については「心の写真」のように、写真には表れない心の部分を書くことに集中させてあげた方が、子どもにとって幸せだと思います。

鳥の鳴き声がしたあの朝は、文章にするというプロセスを経たことで、体験としてくっきり残って、私の大切な記憶になっています。当時の担任は「文章力向上」のために書かせたのかもしれませんが・・・私はあの記憶が頭に残っているというシンプルな現象に感謝しています。

子どもが楽しく日記を書ける環境。文章力なんて気にしない。素直に、偽りや忖度なく、感動や喜怒哀楽を文章にする。そしてそれを保存できるシステムがあるといいなと強く思います。

今を生きることで精いっぱいの子どもたちは、自分が書いている日記の価値なんてぜんぜん感じていないので親や先生がそうしたシステムをつくるべきだと思うのです。

002につづく。

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