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物にも親がいる
こんにちは。藍澤誠/Jの先生です。
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先日、仲良くしているズッコロッカのミズノッチ(水P)とおしゃべりしました。
水Pは最近『cica-cica』(シカーシカ)というブランドを作って活動しているのですが、
「創作物って目をかけないとしゅんとしてしまう」よね
というような話になりました。ミズノッチによると、カフェAに置いた商品たちは目をかけてもらえていて元気なんだけど、カフェBに置かせてもらっている子たちはなんだか元気がなかった……みたいな。
これは感覚的な話、気のせいの類と思う人もいるかもしれないけれど、自分も似たようなことは常々思っています。物から何らかのメッセージを感じられる力は、とても大事なセンス。ほかの人からは気のせいと思われていてもぜんぜん構わなくて、問題は「感じた自分がこのあと何をするか」です。
たとえば先日仕事場に6歳の男の子が遊びに来てくれたのですが、誰も見向きもしなかった(見ていたかもしれないけれど言及しなかった)中央線のペーパークラフトを、仕事場に来るなり発見してくれました。
その子の目には、きっと中央線がくっきり光り輝いて見えたのだと思うし、「いっしょに帰りたい」という電車の声が聞こえたのだと思います。もちろん私はその子に電車を持って帰ってもらいました。あっちでたくさん遊んでもらってね、と思いながら。
ロマンチックに書くとこんな表現になりますが、あえて構造だけ書くと、自分が関心を寄せているものは、意味ある情報として遮断されずキャッチできる、そして瞬間的に、次に自分がとるであろう行動を正当化しようとするメカニズムが働く、という流れなのかもしれません。
自分が作った作品が「しゅんとしてみえる」ということはすなわち、自分がその作品に対してできることがあると思えているわけで、次のアクションをとることで「元気よくなる」のであれば、目をかけ続ける、すなわち愛情を注ぎ続けたいと思ってしまう。それが創作者であり、生みの親なんだと思います。そして自分が生みの親ではない場合、つまり作品や商品を仕入れた、あるいは買った場合、親代わりとして、作品の表情を見たり、作品の声を聴いてあげるべきだと思いました。
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そんなわけで、冒頭と同じ写真に戻りますが、一輪挿しも、お菓子も、マグカップもコースターも、みんな親がいる。デザインした人、作った人、それをプレゼントしてくれた人、それを仕入れて売ってくれた人がいるわけで、そんな人たちの思いを引き受けていると思うと、物を雑に扱ったり、想いを寄せないでしょんぼりさせたり、物の可能性が引き出されていない状態にしてはいけないよな、と改めて思う藍澤誠/Jの先生でした。
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