己咲きの花を見つけた時、とといて、法人としての契約締結とかける、そのこころは

私の住む浅草も、4月も終わると随分と暖かくなったからか草木が元気になり、隅田公園をはじめどこでもツツジが綺麗に咲くようになりました。我が家の青梗菜も2週間前の前回の記事から花芽が顔を出して、気づいたらとうとう咲いてしまいました。この数日で一気に育った感じもあり、やっぱり植物が育つには気温や気候というのが大事なんだな、と思わずにはいられません。

さて、この青梗菜、気づいたらタネから育っていたのですが、このタネを私たち家族が率先して蒔いたわけではなく、多分昨年の秋頃に咲いた花から出来たタネだったのではないのでしょうか。最初は全然意図しない他の草木を育てている鉢から顔を出したのです。そういえば随分前の記事でご紹介した、我が家の中興の祖ともいえる、もと亀戸の芸者だった私の自慢の祖母が生前我が家に遊びにきた時に、近所を歩いていた時に、道端にスッと咲いていた花を見つけた時のことです。浅草のハズレの裏路上とはいえ、当然花壇があるわけではないようなところに一輪だけ咲いていたのをみて、「こういうのは己咲きっていうのよ。己咲きの花はもらっていいのよ」と言って頂いていたのをふと思い出しました。我が家の青梗菜もある意味我が家のベランダの中、とはいえ己咲きだったわけですが、まぁ、我が家の中に留まってくれたので所有権的になんの問題もないのですが、この話、ふと、私がいつかは取らねばならない資格の問題の基礎編に出てきそうな話、なのです。

宅建とか民法でよく出る問題

よく、家と家の境界を超えて伸びてきた隣の家の木の枝については、所有者である隣の家の人に切ってもらう請求権があり、でも土の下で伸びてきた根っこについては気にせず切ってもいい、という所有権の説明があります。この話の前提として、その庭の所有者の草木もその所有権は庭の所有者にある、というのがあるのを思うと、己咲きの花は所有権がその土地の人にあるんじゃないのか、とふと思ったのです。ある意味、己咲きではなく意図して植えていたら、という話でもありますし、飛んできたタネが対価なく土地の所有者のものになるのか?という反論もありそうでなかなか興味深い話になりそうなのですが、今日話したいのはそのような所有権と処分権の話、ではなく、我が尊敬して愛すべき、納骨堂の中にいる祖母が、その生活習慣や風習などに基づいて、法治国家にもかかわらず、所有権がないからもらっていい、という判断をして行動に移した、というところにちょっと注目したいと思います。

Eat, sleep, (work-like) rape, repeat 再び

さて、個人がこんな風に判断して行動する、というのは、花を摘む(某所では別の意味のある言葉ですね、そういえば)に限らず、物を買う、食べる、飲む、山のようなワインボトルを空にする寝る、働く、投資する、投資のために買ったものを売却する、など、個人としてできることならば、なんでも、です。それこそ、朝起きてベッドから降りる足を右か左か決めるのもあなただし、おろした先に昨夜飲みすぎて転がしていたワインボトルがあってその後転んでベッドの上にひっくり返るのも、あなた、なのです。いわば、行動するのに、まずする・しないの判断をして、そのまま行動できるのが個人だということになりそうです。

え?何の話をしているのかって?相続のようなちょっとした特殊なケースを除くと、わたしたち個人というのは、自分の行動のための判断を自分で行なって、時と場合によっては書面に書き残すものの、通常はそんなことをせずに行動を取る、というのが一般的です。当然、特殊なケースということで、心身的な病気により判断力が欠落したことで、その人の資産保全をする能力が乏しいと判断された人は、被後見人として、後見人による承諾なくば保有する土地や建物を売却できなかったり、最近では18歳になった成人のルールとはいえ、17歳の子供さんが親の承諾なく通信販売で買い物を割賦販売で買うなんてことができなかったり、という資産処分に対する判断能力の有無を問う場合に限定されていますので、基本的には成人な私もあなたも、家族にこっそり外車や別荘を趣味で買ってみたり、昔なら小麦の先物を、今ならビットコインあたりを投機目的で買っても、家族から火のように怒られるものの、法的にはその支払いに充当できる資金さえあれば買って支払いを行えばその売買は成立してしまうことになっています。そういえば、反対売買を入れるにもその支払いに困る程度に買って、というか交わされた結果として、家の前に小麦が山のように運ばれた、なんて話も昔はそこそこ聞いた記憶がありますが。。。

私たち自然人は自ら考えて、判断し行動する。あたりまえだけど

なぜ、こんなまどろっこしいことを話しているか、というと、自然人の私たちにとっては判断して行動する、というのに書面で何かを記録したり、自分の脳内で「はーい、スイーツ購入委員会を始めますよ。私の体がどうもコンビニの冷蔵スイーツ売り場の前に立ってモジモジしているようですが、目の前にある一切れ700kcalもする超クリームまみれでイチゴをふんだんに使ったショートケーキを買おうか、ダイエットに踏みとどまろうか、悩んでます。委員会の皆さん、多数決で買って幸せになるか、買わずにダイエットして減った体重に喜びを感じるか、どちらがいいですか?」なんて、要は自問自答のプロセスを「自分だけ参加型スイーツ購入委員会」を行うことが、まぁ、あまりないし、必要ないのです。その上、万が一、その議事録をきっちり残しても、ただ単に葛藤した記録として後から読み直したら恥ずかしいだけの日記が一ページ増えるだけ、にすぎません。その葛藤した議事録なんて買う判断をちゃんとし(て、体重が増えても仕方ないって判断し)たんですよ、なんてコンビニのレジのお兄さんはみせられたところで、よくて面白がるだけで普通は気にもされずにさらに恥ずかしいだけで、買い物には特に必要ないですよね。そこには、資産を処分する能力があり、それを単純に行使して、要はお金と物を交換しているにすぎないから、です。仮にそれが、スイーツくらい甘いリターンを出してくれるセカンダリーファンドに個人として投資するのであったとしても、ですが、この場合は、資力や投資経験などをお伺いせねばならない、のですが、それでもという方、いらっしゃいましたらこちらまでどうぞ(って購入申し込みページのリンク先がそもそもないのですが。。。)

ところが、です。同じ人、でも、法律に基づいて存在する法人の場合はどうでしょう。

ファンドも会社も、誰かがその名義で行動するために、考えて、判断する。それは誰?

法人は影も形もなく、歩き回ることもなければ腹を空かせては飲み食いすることもなければ、当然ワインボトルを一本たりとも空にしません。いわんや、なにかの意思を持って投資判断もしなければ、契約書にサインするためのペンを握ることだって出来ません。とすると、法人が契約する、というのは、法人としての意思決定をその決定権をもつ自然人等が行い、その代表権を持った自然人がサインする、のです。

それならば、単純に、代表権を持った無限責任組合員なり、業務執行責任組合員なり、その代表権を持った自然人がサインしたらいいじゃないか、と言いそうですよね。でも、その代表権を持った人が世にいうワンマンでオーナー社長が、「自分の言ったことが全てだから、自分でその組織の責任を負うからよい」なんて感じで契約書にサインがされていたとして、その契約締結について、その法人の代表権を持つ人の責任の範囲でやったのか、取締役会や株主総会で承認されてサインをしたのか、それとも、ワインボトルの山を築くのと同じ感覚での勢いでサインしたのかは、契約書を見ただけではぱっと見わかりません。

その判断、紙に残す必要ある?ない?

他方で、例えば弊社の投資家限定公開で月次にお届けしている市場の総括のコメンタリー動画の背景をより綺麗に見せたいな、と、5,000円程度するグリーンバック(本当に緑色のシートで、それを背景にしゃべって後から背景を合成するとZ○○Mのバーチャル背景と本人の写り方より全然綺麗に画面が作れるのです。)を買おうと Amaz○n あたりのオンラインショップでいわゆるポチってみた場合、登録している支払い方法によっては当然にそれで取引承認完了となりますのでAmaz○nが、しかるべき手続きをしたのか、と株主総会議事録なんて提出を求められることはないですし、片や株主もそんな出費をして、と取締役に訴訟を起こすこともまずないでしょう。この場合は、取締役というより、その従業員でも役職に就いた人(例えば部長)の判断で足りる、としておかねば実務的に回らないことも明白ではあるのですが。。。

重要な判断をしたことは書面に残す。法律でも求めている場合もあります

さて、例えば、会社法では、重要な資産譲渡の場合には仮に代表権を持っていたとしても取締役一人の判断に任せずに取締役会にて決議するように、と定めています。この場合、「重要な財産の処分に該当するかどうかは、当該財産の価額、その会社の総資産に占める割合、当該財産の保有目的、処分行為の態様及び会社における従来の取扱い等の事情を総合的に考慮して判断すべき」と、裁判でも判断基準を明確にしていないもののある程度の基準があることを示していて、例えば、総資産に占める割合も一つの目安として20%とされている一方で、それが営業資産で将来的に影響がある物ならば20%を下回っていても取締役会に諮るべき、という裁判例があるため、一概に判断しきれないともみて取れます。

とすると、例えば弊社のファンドでとある会社さんが保有しているファンド持分を買わせていただこう、と言った場合、売っていただく会社さんにとってそれまでそれなりにキャッシュフローを産んでいたけど、どっちかというと本来の営業にとって大事な資産、というよりは余資の運用的な意味合いの強い投資だったから、それを資金化しても会社運営の大勢に影響はない、と判断できれば、日本であれば取締役会で判断せずとも担当の取締役さんのご判断と会社の中の決裁権限の中で弊社ファンドに売却しても良い、判断してこの譲渡を進めることができる、という流れになるわけです。

判断、したかどうか教えてください。

でも、それって売っていただく会社さんの中でのご判断であって、弊社や弊社ファンドにはどこにも見える話ではないですよね。ということで、そういう時のために、ファンド持分の売買契約の中に「売主は、この資産譲渡に関連する、その社内外の法令等や手続きを全て完了させたことを表明保証します」という文章が入っています。表明保証とは、私はこういう会社で、こういう手続きは全て済ませて、という事実を表明し、間違っていないことを保証する、という条文でして、もし、このような社内や社外の例えば規制官庁への事前の届出等が終わっていないで売買契約を締結し、受け渡しまでに完了していなかった場合に、後から株主さんや規制官庁等から取引の差止めや無効を裁判で請求されるリスクを負うことになりますので、それは契約違反だから、これが終わっていないなら決済しないよ、と予防線を引く仕掛けになっています。ですので、時と場合によっては、本当に送金手続き前にその手続きである取締役会での議事録を提示して確認させてください、なんて言わないといけない場合というのは、未上場株式の場合や不動産などですと実はそれなりにやらざるを得ない作業になってきます。

その判断は、誰のため?

逆に、ファンドの方も当然なのですが、投資信託はさておき、プライベート資産の取得の場合ですと一つ一つの投資が額もそれなりに大きい上に、その後のファンドの資産への影響もそれなりに大きくなりますので、GPとして、もしくはGPに投資について全権委任を受けた運用者などはそれぞれのルールに基づいて必要となる手続き、例えば弊社であれば一任運用者として投資判断や執行を委託されているので、その投資判断の記録を投資委員会等の議事録の形で残していますし、一般的なGPさんならば取締役会等でみっちりとそれぞれの投資先について吟味して投資するべきか判断し、その記録を残しています。その記録は、譲渡契約にサインするための判断の記録であり、出資者であるファンドの投資家さんに後からその投資判断に対する検討が十分にされたか、という説明責任を果たすための資料にもなる、大事なものになるのです。

ということで、まとめ

個人にとって、ここで罪悪感たっぷりで不健康なスイーツを食べて幸福感を感じるべきか、もしくは健康を維持するために食べるのを我慢するか、という判断をするのも大事ですが、(遺産相続とか家族の生活費の保全、という意味で家族等の関係者の同意や納得感というのも重要にはなるものの)個人の場合は、その個人が最終的な利益を享受する以上、翌朝の胃もたれによる後悔を含めて、それこそ個人の責任で行えば良いだけ、であるのに対して、影も形もない法人の場合には、特に経済的な利害関係者である第三者が存在する以上、その判断プロセスとその履行といったガバナンスや、開示による説明責任の履行などの手続きとそのための証拠が必要になる、というところに大きな違いがある、と言っても過言ではないでしょう。
前回までのお金の動きや資金の動きを記録して一見性を財務諸表で確認できたのと同様に、取締役会議事録、というのがこれらの行動の元となる判断が如何になされたのか、が読み取れる資料になる、ということなのです。その意味では、片一方だけではファンドをはじめとする法人の活動を正しくは見えていない、と言えるかもしれません。

それこそ、我が愛すべき祖母のように、法律はさておいて自らの知識と判断で行ったことが果たして(己咲きの花であれば、花壇から抜いたわけでもなく、自分が蒔いた種が咲いたものでもないはずですので、大きな経済的ダメージを誰かさんに与える話ではないでしょうけれども)法的に適正な権限と手続きに基づいたことなのか、についてこんなところで孫に開示されて評価される、なんて納骨堂の中で寝ているところで夢にも思ってはいないでしょうから。

でもね、ばーちゃん、こう引き合いに出して言うのもなんだけど、大好きなんだからね。あのラベンダー以来、何度も何度もベランダで育ててはみたけど東京では年々暑くなってきているからか、なかなかうまく育たないんだよね。バラなら何とかなるんだけど。って、ここに書いても伝わらないか。

お後がよろしいようで。


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