料理とウェルビーイングの深い関係
ウェルビーイングという言葉を日常的に耳にするようになって久しいが、
改めて定義を確認してみると、
「身体だけではなく、精神面、社会面も含めた(新しい・本当の意味での)健康」
という定義をWHOが出しているらしい。
先日、ある勉強会で予防医学研究者の石川善樹さんのお話を伺う機会があった。
石川さんによると、ウェルビーイングには
・客観的ウェルビーイング
・主観的ウェルビーイング
の2つがあり、
最近の潮流として、主観的ウェルビーイングにフォーカスが当たり始めているという。
客観的ウェルビーイングとは、年収や寿命など、計測可能な数値で測れる指標であるのに対し、
主観的ウェルビーイングとは、まさに本人が自分自身をどの程度ウェルビーイングと認識しているか、という指標である。
石川さんが最近取り組んだ研究で、主観的ウェルビーイングについて面白い発見があった。
製造業の工場労働者の中で主観的ウェルビーイングの高い群と低い群を比較し、
その違いが何に起因するのかを調べたところ、
1、自炊している
2、家庭菜園をしている
人ほど、主観的ウェルビーイングが高いことが分かったのだ。
これは面白い!と膝をうった。
私自身、主観的ウェルビーイングが最低だった30代前半までは
終電に飛び乗って帰宅するような生活で、朝食以外はほぼ外食、冷蔵庫には飲み物ぐらいしか入っていなかった。
仕事は忙しいながらもやりがいがあったし、
好きなものを自由に買ったり食べたりできる自由気ままな生活だったけれど、
いつもどこか満たされなくて、ウェルビーイングは最低だった。
だから、自炊するということとウェルビーイングの関係性が高いということには
肌感として納得感がある。
しかし、ここまで決定的な主要因であるというのが面白いと思い、
それはなぜだろう?と考えた。
家庭菜園をしていると、自給自足に近い生活になるから、
お金がなくても生きていけるという自信につながるんじゃないか?とか、
自炊するためには、買い物に行って、料理をして、食べて、片付ける、という一連の工程に時間を要するので、
暇な時間を弄ぶ必然がなくなるからではないか?とか。
そんなことを考えているうちに、私は料理研究家・土井善晴さんの「原生的幸福感」という言葉を思い出した。
(以下、引用)
「私は、「料理する」「料理を食べる」という行為の周辺にある様々な心地よさを「原生的幸福感」と言ってます。ちなみに、現代社会のお金と交換される幸せは「人工的幸福感」です。どこの家族にでも普通にあるべき「原生的幸福感」が伴わないと、いくらお金があっても幸福にはなれないものでしょう。
全ての生物が動くのは、食べ物を得るためです。食事には、生きるための大切な要素が含まれていることは間違いありません。ものを食べるとなると、必ず一定の行動が伴います。そんな食べるための行為の全てを「食事」と言います。生きるためには、体を動かし、立ち上がり、手を働かせ、肉体を使って食べなければなりません。故に、「生きることの原点となる食事的行動には、様々な知能や技術を養う学習機能が組み込まれている」のです。それは人間の根源的な生きる力となるものです。
人類の歴史は数百万年続いてきたとして、
この100年を見ただけでも人間の暮らしは大きく変化した。
都市への集中、核家族化、コンビニの普及が進み、
料理をしないライフスタイルがここまで普通になったのは
せいぜいここ2、30年の間の変化だろう。
便利さや効率、スピードを追い求めることへの人類の欲求は薄まるかもしれないが、
ここから先の人類の進化においては、
DNAに埋め込まれた原生的な幸福感とは何か?を特定し、
自覚的に取り入れていくことが、
生き方を選択する上で大切になると思う。
そう考えると、
ここのとこ苦痛だった毎日三度の食事の支度も
なんだかとてもありがたく感じられるから不思議なものだ。