自己紹介① 小~高校編
2020年11月1日より毎日noteを更新するにあたり、6記事に分けて自己紹介をしていく。
私の父は中小企業のサラリーマン、母はパートタイムの事務で総所得はザ・中級階流というなんとも絵にかいたような普通の家庭で私は育った。
幼稚園時代はほとんど記憶になく、母によればわんぱく坊主でよく笑ってよく遊んでいたそう。卒園アルバムにはプロ野球選手になりたいと書いていた。当時はまだ野球をやってすらいないのに大層な夢である。
小学校時代、家族仲は非常によく、妹と些細なことでケンカはしたものの、暖かい家庭で育った。しょっちゅう家族で出掛けていた。海や山、テーマパークや海外など、今思うと私の根幹はここにあり、幼少期に非常に貴重な経験を与えてくれた。
小学校1年生の時に野球をやりたいと両親に頼んだが、当番が面倒だとの理由で却下された。私はなにかスポーツをやりたかったのでサッカーを選択した。サッカーは野球ほど当番制が厳しくなかったため、これには快諾をしてくれた。そのサッカーチームはよくある地域のチームで、涙が出るほどの弱小チームだった。私自身も猛烈に下手くそではあったが、チームメイトもとことん下手くそだった。試合には負け続け、サッカーが嫌いになりそうだった時、テレビを見ると甲子園の決勝戦が放送されていた。駒大苫小牧高校と早稲田実業高校の試合だった。そう、マー君と斎藤佑樹のあの白熱の戦いだ。試合に夢中になり、決着がつく最後の場面、マー君が三振をしたときに全身に鳥肌が立った。この場面に立ちたいと思った。すぐに両親にやっぱり野球がやりたいと頼み込み、しぶしぶそれを受け入れてくれた。小学校5年生(11歳)の夏の終わりのことだ。野球に転向したは良いものの、やはり月日の差は大きく、ほとんど試合に出ることなく小学校の野球は幕を閉じた。当時は軟式野球をしていたのだが、どういうわけか中学ではさらにハイレベルな硬式野球がしたいと思い、試合に出れない下手くそなのに中学ではクラブチームで硬式野球をすることに。
続いて中学校時代、中1の時はクラスごとに謎の対立があり、互いに敵視をしていた。なぜ仲良くしないのかが本当に理解できなかったが、おそらく原因はヤンキー漫画であろう。硬式野球のクラブチームに入ったは良いものの、選手のレベルはさらに上がり、ますます試合には出られなかった。自分の努力不足は棚に上げ、次第に野球への興味は薄れた。中学の悪友とつるむようになり、周りに流され練習もサボるようになった。中1の秋ごろ、ある問題でチームに迷惑がかかり、両親がチームの代表に頭を下げた。小学校の頃から私はよく両親に頭を下げさせていた。この一件で、私は悪友と距離を置き、野球に専念することにした。この話の流れ的に野球が上手くなって、レギュラーを掴んで試合で活躍することを期待するが、人生そううまくはいかない。
当時は一生懸命努力をしているつもりではあったが、今思うとあれは努力ではなく、ただやみくもに走り、バットを振り、筋トレをしていただけ。努力とは、知識を蓄えて脳で考え、正しい方向に向かって行動することだ。考えもなしに動くだけでは上達などするはずがない。しかし、下手くそながらも高校は野球推薦で私立高校に入学することができた。
クラブチームに入ったため、家族との時間は小学校の時に比べて極端に少なくなった。大好きな海にも旅行にも行けなくなり、妹は私のために本当に寂しい思いをしただろう。
そして高校時代、結論から申すと野球推薦で入学したのにも関わらず背番号を1度ももらえず私の野球人生は幕を閉じた。相も変わらず報われぬ努力とやらをし続けたわけだ。脳で考えることを放棄し、ただやみくもにバットを振っていた。野球部はとても甲子園を目指しているとは言えないほどにお粗末なものだった。選手が監督やコーチを嫌い、学年ごとに対立をして、同学年の間でも意思疎通が図れていなかった。全くひどいものであった。先輩方が引退し、私の学年の代になるときチームワークとやらが生まれつつあった。しかし、私はまたもや問題を起こし停学処分を受け、部に多大な迷惑をかけ、再び両親に頭を下げさせた。どうしようもないポンコツである。2年生の秋から3年生の春までの間はずーっと掃除をしていた。ボールにもバットにもグローブにも触れることなくずーっと掃除。あれは人生で一番辛い半年間だった。退学も考えたが、ここで逃げてはこの先の人生もずっと逃げることになると思い、留まることができた。
私立高校に入学したのには野球以外にもう一つ理由があった。関西の某有名大学へ指定校推薦枠があったのだ。私は幸い短期記憶が優れていたので、学内の定期テストでは成績が良く、体育科という狭い枠内ではあるが学年で常に2位だった。そう、1位ではなく2位なのだ。これぞMr.中途半端。指定校推薦は成績が上位の者から大学を選択できるため、私は2番目に選択できる立ち位置にいた。しかし、停学処分を受けた私に指定校推薦枠はなく、大学へ行くには一般受験をするしかなかった。今思うとなぜこの時に大学以外の道を探さなかったのかを疑問に思う。
野球部を引退後の8月から11月までの短い期間ではあるが、毎日10時間以上机に向かい、勉強に励んだ。この時、生まれて初めて思考し、正しい方向に努力することができた。結果、第一志望には受からなかったが、第二志望の大学へ最下位で入学することができた。これが私の人生で初めての成功体験である。合格発表はネット上に開示されたのだが、合格の2文字を見て母と抱き合って喜んだのを今でも鮮明に覚えている。
当時、私は当たり前のように大学受験を選択したが、大学の進学率は58%程度ということを数年前に知り、自分が恵まれた環境にいることをこのとき初めて実感した。なんの躊躇もなく大学に行かせてくれて本当にありがとう。
大学時代の過去はまた明日。
まとめると、カピバラは時速50kmで走るらしい。