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飽きの話

2本目は飽きの正体は自分の成長が止まっているから、という話を。

ゲームでも趣味でも、やり始めは熱中してしまい、ある一定の時間が経つと飽きが来る人は多いはず。一定の時間とは、即ち慣れのこと。

飽きてしまった自分に対して、自分は継続力がないな~と思ってしまうこともあるだろう。

では、やり始めたときと慣れたときではいったい何が違うのだろうか。

格闘ゲームで例えてみる。ゲームをやり始めたときは、ボタン操作が身体に染み込んでいないため、当然攻撃や防御などの反応が遅れてしまい、思うように敵に対してアクションができない。そのため、強敵が現れると最初の内は負けてしまうこともしばしば。しかし、練習を重ね時間が経過してくると相手の攻撃の先読みが出来るようになったり、操作の反応が早くなってコンボ攻撃などが出来るようになってくる。そういった「できなかったことができるようになった成長を実感」して、強敵を倒すことが格闘ゲームの醍醐味だ。

だが、さらに時間を重ねて慣れてしまうと、途端に飽きがやってくる。

そう、「飽きは成長を実感できなくなったとき」にやってくるのだ。

ゲーム初心者のときはできないことの方が多く、常に成長を実感できる環境であったが、ゲームに慣れてしまうとその「成長を感じられるスピードが遅くなってしまう」のだ。これが飽きの正体。

ドイツの哲学者であるニーチェは19世紀にこの言葉を残した。

【なかなか簡単には手に入らないようなものほど欲しくなるものだ。しかし、いったん自分のものとなり、少しばかり時間が経つと、つまらないもののように感じ始める。それが物であっても人間であってもだ。

すでに手に入れて、慣れてしまったから飽きるのだ。けれどもそれは、本当は自分自身に飽きているということだ。手に入れたものが自分の中で変化しないから飽きる。すなわち、それに対する自分が変化しないから飽きるのだ。つまり、自分自身が成長し続けない人ほど飽きやすいことになる。

そうではなく、人間として成長を続けている人は、自分が常に変わるのだから、同じものを持ち続けても少しも飽きないのだ。】

これがいかに本質を捉えた言葉であるかはわかるだろう。

自分が定めた基準の成長を十分にクリアしたの後の新たな欲求は悪いことではない。成長もしていないのに、次から次へ新しい何かを求めることをニーチェは戒めている。
 
三日坊主も、あと一日、とりあえずもう一日と続けていれば、いつの間にか一週間、一ヶ月、一年と積み重なっていく。続けていくうちに、続けるための工夫を凝らすようになるだろう。同じ味では味気ないため、何かを足してみたり、違う角度から見てみたり。創意工夫とはそういうもの。成長するのはそういうとき。

モノでも人でも、飽きるのはカンタン。足るを知れば、成長という富が得られる。

モノはもちろん、自分に飽きたら成長は止まる。

誰かや何かに期待するより、手にしているものや自分自身に期待することで、新しい発見に出くわし、人生がより一層ワクワクするだろう。

まとめると、仏教の発祥で最初の普及地であるインドは、現在では人口の1%程度しか仏教徒がいないらしい。ちなみに現在は8割以上がヒンズー教。

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