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自己紹介② 大学編

昨日の続きで、大学生時代のお話。

私は高校生の時に見た、ドラマ「リッチマン・プアウーマン」の影響で経営者になりたいと思い、経営学部のマーケティング学科を志望。大学へは経営の勉強と共に事業を行うパートナー探しをするために入学した。しかし、初めての成功体験をし、短い期間ではあるが苦労をして第二志望の大学へ入学したは良いものの、そこは世間でいうところの三流大学であったため、周りの学生に優秀と言える学生は見当たらなかった。加えて、経営学部の教授はそのほとんどが起業経験がなく、机上の空論を教えるばかりで実体験がなく、当初に想像していた座学ではなかった。経営学部へ行けば生身の経営学を学べると思い込んでいたが、これは完全に盲点であった。私は次第に友人たちに流され、ろくに勉強もせずにバイトや遊び、ギャンブルをする典型的なクズの大学生活を過ごしていた。

その生活に見かねた祖父は私にアメリカで行われる1カ月間のキャンプに参加をしろと諭してきた。大学2年生の春のことだ。そのキャンプはアメリカのシアトルで毎年開催されているもので、古くに私の母も幼少期に参加していた。私自身、今のままではダメだと思っていたため、思い切って参加をしてみることにした。これが私の人生の最大の転機となった。

このキャンプの対象年齢は7歳~18歳で、私は対象外であったが無理を言い参加をさせてもらった。印象深かったのは、ネイティブ(現地人)たちの自発性と思考力だった。7歳の子供でも自分の意見をはっきりと述べ、議論を交わしていた。それぞれの自己主張が強すぎるため、なかなか話が前に進まないが、日本人のそれとは違い、自分の納得がいくまで議論を交わす。日本の文化は協調性という名の相手に合わせることであるが、これには衝撃を受けた。はじめて多数決という文化を疑った瞬間でもあった。

帰国後、日本以外の文化環境の中で生活をしてみたいと思い、家族に留学をしたいとの打診をした。多額の費用を要するため、二つ返事で了解をしてもらえるとは思っていなかった。しかし、一切の反対をされることなく、快諾をしてくれた。今思うと、両親は小学校1年生時の野球以外、私のやりたいことをすべてやらせてくれていた。こんな親になろうと決めた瞬間だった。

留学先はキャンプと同じアメリカのシアトルに決めた。理由は3つあり、Amazon・スターバックス・マイクロソフトなどの今をときめく大企業の本社がシアトルにあること、移民が多く多様な文化に触れられること、大叔父がシアトルに在住していることの理由で決定した。期間は9カ月間。

住まいは韓国系アメリカンがオーナーの家にホームステイにしたが、1カ月でその家は出た。差別を受けたからだ。何かしらの洗礼は受けるものだと思っていたが、家ぐらいは休ませてほしかった。その後は学校で知り合った友人たちとルームシェアをすることに。しかし、家を借りるにしても一苦労だった。家賃の10カ月分の残高証明を見せろというのだ。当時の家賃は月に2500ドル(約25万円)だったので、2万5千ドルを用意しろということだ。お金は何とか用意でき、ルームシェア生活がはじまった。

意気込んで毎日勉強をしていたが、それも束の間。例のごとく、周りに流され、遊びにカジノ三昧の日々。人間そんなに簡単に変われるものではないらしい。高いお金を払って時間を割いて留学に来たのにも関わらずこの様なのである。結局、英語はたいして上達せぬまま留学期間を終えた。しかし、英語以上に価値のある体験と知識、友人を獲得することができた。

まず感慨深かったのは、若者の政治に対する意識だ。私が留学したのは2016年のこと。そう、トランプ現大統領とヒラリー・クリントンの大統領選挙の年だ。全アメリカ国民が注目し、その行方を見届けていた。アメリカの若者たちは本気で自国の未来を考え、政治と向き合い、議論を交わしていた。シアトルのあるワシントン州は民主党で、共和党のトランプ氏に大統領が決まった時には大規模なデモが起きた。それほどに国民は自国のことを本気で考えているのだ。学校に入学して間もなく、日本の天皇と首相の違いはなに?と質問をされて、それに答えることができない自分の無知さ加減に落胆した。自国を知り、自国の未来を本気で考えなければならないということに気づかされたのだ。

次に多様性について考えさせられた。シアトルは移民が多く、また世界中の国から留学生が学びに来る。様々な文化を知るのには最適な環境であった。国ごと、また同じ国でも各地域ごとに文化や考え方は全く異なっていた。そして今もなお、肌の色で差別があることも知った。セブンイレブンで「What’s up yellow monkey?」と言われたことは生涯忘れることはないだろう。日本はまだまだ閉鎖的で、多様性に富んではいない。移民を受け入れることは国の発展には必須であろう。

日本に帰国後、私はとにかく本を読み漁った。知識がないと知恵は生まれず、行動に移せないからだ。まずは我が日本の過去と考え方についての本をよく読んだ。留学前後での一番の変化は俯瞰して物事を考えれるようになったことと、比較ができるようになったことだと思う。ある程度の知識をつけ、私は大阪の北新地でボーイとして働いた。目的は夜の世界を知ることと、社長の人脈を作ること。夜の世界ではあらゆるしがらみや妬み、権力で渦巻いていることを知った。また、目上にかわいがられる技術も磨いた。ここで繋がった社長さんやオーナーさんは今でもよくご飯に連れていってくれる。

そして就職活動。私の就活の軸はグローバルな活動をしていることと自分の独立のための踏み台になってくれる会社であった。3回生の夏から活動し、毎日面接を受け、冬までの期間に面接慣れをしていた。その甲斐あり、面接で落とされることはほとんどなかった(エントリーシートではねられることは往々にしてあったが)。内定をいただいた企業の中からどこに入社するか悩んでいた時に、祖父からとある商社を紹介された。私は祖父が当時花形であった総合商社の部長にまで上り詰めた人だとこの時に知った。今はとある会社の会長をしている。その紹介された商社は祖父の取引先で、話を聞くと祖父は業界では有名人だそう。私はこの祖父の影響力を借りる手はないと考えた。規模の大きい仕事を任され、良いように祖父の力を活用できると思ったからだ。ベンチャー企業ではないが、輸出入を主とする商社で、グローバル人材にもなれる。私の就活の軸から大きく外れてはいなかったため、ここに入社をすることに決めた。

新入社員時代のお話はまた明日。

まとめると、手首から肘までの長さと、足の大きさはほとんど同じらしい。

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