日々
地元の工場からの内定を断ったあと数日は後悔や悩みを抱えていた。
もう断った後なのだから悩んでも仕方ないのにグルグルと考えてしまうのが昔から自分の悪い癖だ。会う人会う人に「実はこういうことがあって」と話してしまう。自分の中で居場所を持たない考えを少しでも外に出したいと思う。親、介護、就職、将来…。ただ、あまりにも明るい話ではないので話す人も同じように落ち込ませてしまう。今後はあまり話さないように気を付けようと思った。こういう時にカウンセリングとか受けられればいいのかもしれない。
そんなことを考えている時に図書館でだいぶ前に予約していた本が届いた。臨床心理士の東畑開人氏の『なんでも見つかる夜に、こころだけが見つからない』という本だ。この本の中で東畑氏は現代を「小舟化する社会」と形容する。20年ほど前までは機能していた人々を守る仕組みが溶けて、社会が荒ぶる海のようになった。そこでは遭難しようが沈没しようが自己責任になってしまった。自分が感じていることが書かれていると思った。将来が不安だし、自己責任論渦巻く世界でどう生きていくのかをきっと自分だけではなく、多くの人が頭を抱えて悩ませていると思う。
何かに引き裂かれるような悩みを抱えている人は心に補助線を引くと良いらしい。そこで現われるのは「働くこと」と「愛すること」だと言う。
「働くこと」は何かをすること。それはお金を稼ぐことだけでなく、日常のタスクを消費すること。それをしないと生活が成り立たないというもの。「愛すること」というのは意味もなくメッセージを送ったり、会いたくなる家族や友人、恋人との関係がそうだ。「愛すること」とは、愛する人を失った後でも心の中に「いる」それが「愛すること」の本質だそうだ。人が不安で眠れなくなってしまった時というのは、心の中の他者が危険になってしまうから。何かを「する」から愛されるのでは安心感は得られない。誰かを「愛すること」が出来るほど他者を安心できるものとして認められなければ、生きていくことは辛いかもしれない。
もし仮に家庭が安心できるものではなく、社会に出ても不運にも理不尽な目にあい続けたらきっと「愛すること」は難しいだろう。そして、心の中にいて本来安心させてくれる他者の「いる」が機能しなくなるのは当然だと思う。コロナ禍以降人に会う機会が減って制限される不自由さというストレスもあったけれど、同時に人に会うストレスからも解放されたなとも思ってしまっていた。それがここ2年程続いていた。家族とも2年近く会っていなかったし、久々に会ってもストレスでしかなかった。
元々自分は父も母も実家にいる時はあまり好きではなかった。
それには色々理由があるけれど、家族での会話などほとんどない家庭だったし小学生のころ夏休みになると母が勉強を教えてくれるのだけど、わからないと思いっきり殴られて「もう一度学校やり直してこい!」と泣いても叱責され叩かれ続けるので夏休みがずっと嫌いだった。そして、父は朝から酒を飲んで車に乗って会社へ行くことが自分が20歳になるころまで続いていた。それが終わったのは父が心を改めたのではなく、単純に脳出血で二度と酒が飲めない身体になったからだった(それでも隠れて飲んで母に怒られていた)。お見舞いに来た父の会社の人が「いつも酒臭かったけど、家の人はどう思ってるんだろうと思ってた」と言っていた。いや、ずっと嫌だったし早く家を出たかった。酩酊した父の運転するよれよれ運転の車に乗る時はいつも怖くてシートベルトを締めていた。姉は勉強が出来たから母からぶたれてなかったと思ったけど、最近聞いたら姉もぶたれたりつねられたりしていたらしい。何が母をそこまでさせたのか。何が父をお酒に走らせたのかはわからない。
ただ、大人になってからは母は自分のことを否定したことはないし、助けてくれたことも全然ある。それでも長い間、人生で上手くいかないことがあると両親のせいだと強く非難する自分自身が心の中に出てきて、その度に両親との関係に距離を置いてきた。
吾妻ひでお、ECD、鴨志田穣、三森みさ、田房永子、信田さよ子、こういった作家の本や漫画を読む中で、自分で自分のことを少しでも理解できるようになり、親のせいにするのを少しでもやめられるようになったのは最近のことだと思う。それでもやはり高齢になった親の為だけに実家へ戻れるかというと、それにはやはり抵抗感がある。自分は地元が好きだし、今はもう実家に戻ってもなんとも思わないけれど、それは時々戻っているだけで住まいが物理的に距離があるからだとも思う。わからない。
父も母もいつか死んでしまう。だからこそ自分を優先させた方が良いと思うし、いつかいなくなってしまうから一緒に過ごす時間を長くとってもいいのかもしれないとも思う。
昨日、職業訓練で仲良くなった60代のMさんとコメダでお茶していて、何を選んでも予想通りにはいかないし、軸足をどこに持つかだと思うよという話になった。それに、距離が離れていても心が繋がっていれば大丈夫と言っていた。
心…自分には一番よくわからない。心とは一体どこにあって、どう他者と繋げられるのか。
ハロワの担当の方に色々と支援をしてもらって工場の内定をもらったのに断ってしまったので、定期面談の際に断った理由を含めて報告した。担当の方は「後藤さんの人生だから、好きなものを制限されて働くのは違うと思うよ。私も仕事があって生活があるのではなく、生活の為に仕事があるって考えているよ」と言ってくれた。そして「介護の悩みがあるなら介護の仕事を紹介する窓口があるからそこで相談してみなよ」と言って案内してくれた。「介護の仕事を探してるわけじゃないんですけどいいんですか?」と聞いたら「そこは興味ありますとか上手く言って聞きたいこと聞いてみなよ。相手はプロなんだし」と言って介護の求人窓口で親のことを相談してみた。
そしたら自分の親の状態だとなるべく早く介護支援に繋げたほうがいいとのことだった。そして、「地元に戻るかは自分が本当にそうしたいならそうした方が良い、離れて仕事をしながら介護をしている人なんていくらでもいるんだから」とのことだった。担当の方も「自分だけで考えるんじゃなくて、家族にも相談して決めたほうがいいよ」と言っていた。そっか、自分だけで決めなくていいのかと当たり前のことかもしれないけれど少し安心した。
そして早速来週あたりに実家の地域包括支援センターに姉と行くことにした。職業訓練校は本当は休めないんだけど、訓練校の方が「私も最近父の介護をしていたので協力しますよ」と言ってくれ、その後ハロワとのやり取りで正式に休みの手続きがとれた。支援センターにも電話をしたら親身に話を聞いてくれて、時間を調整して面談日も決めることが出来た。
コロナ禍以降人との関りを避けがちではあったけど、最近は人の親切に触れる機会が多くて心の安定を取り戻せつつある気もしている。もちろん不安なことや嫌なことも時々に起きているけれど、0か1ではなくグラデーションの関係の中でなんとか生き延びている。
来週の介護相談の帰省は母が介護に乗り気ではないので秘密にしつつ、母に帰ることを伝えると嬉しそうなリアクションのLINEがきた。
「人生はあっという間だった」と前に母が言っていたけれど、自分はもっと小さい時に今みたいな関係だったら良かったのにと思ってしまう。
とりあえず姉と母が好きなパンを買いに行く予定だけ立てた。