自分観察をやる理由①
こんにちわ!
自分観察探求家の ようこ です。
みなさんはこんなことありませんか?
・目の前にいる相手に湧いてきた感情や言いたいことを抑えて遠慮してしまう。
わたしは たまにあります。
それを自分で書き出しして深堀する。そうしてはじめて表現できなかった悲しみに気づいたり、心根からつながりたかったという望みを知ったりします。それをさぼると、ほんとうの自分は押し殺したままごまかしの毎日へ進んでしまう。
良く知る身内のみなさんからは、「いや、あなたぜんぜんそんなことないでしょっ!」って突っ込まれそうだけど、たまにはある。
それもそのはず、自分ではない誰かのために自分を置き去りにし、いつもニコニコして人目におびえながらすごしてきた時代が長かったから。30代半ばになるまで気付くことがなく、家族の中でも人一倍人の顔色をうかがって生きてきた。繊細で傷つきやすい上に、傷口に塩をすり込まれるようなことを味わってきた。大人になってから、自分がHSP(繊細すぎる特性を持つ人)のアダルトチルドレンだということを知った。
HSPに加え母親のネガティブな特性(=自分の価値観を絶対とし、それに従わないと否定する)もあり、トラウマが沢山ある。それ以上傷つかなくていいよう自分を守るために作ったビリーフ(信念、エゴ)、一般に言われるブロックが量産され、それが自分の人生の選択肢や可能性を閉ざしていた。思い込みがはげしく認知もゆがんでいて、人も自分も嫌いだった。何をしても怖いと思っていたし、他人によく思われるためにしなければならないことに囲まれ、そんな他人のために自分を変化させようとしていた。過去のわたしにとって「成長」とは世の中の人からよく見られるために身につける武器のようなものだった。
そこから脱却せざるを得ないようなライフイベント(長くなるので割愛)をきっかけに、セルフカウンセリングや心理ワーク、自己対話をしつづけ、自分が変わっていった。涙をながしながら、恐れていることを手放し、過去をとらえなおし、自分の思考・言葉を観察しつづけて、自分の見ている世界の歪みを徐々に修正していった。
同じような境遇の人もこれを読んでいるだろうか。毒親もち、HSP, 自己否定の人たち。。
読んでいたら安心してほしい。わたしもそんな一人。
いろいろわかって勘づいてしまうし、繊細すぎるがゆえにまわりに怯えて、こどものころから感情を押し殺し、長年自分の望みを聞かないようにしてきた。もちろん聞かれることもなかった。自分の話を自分で聞くということもしらなかった。
外側の情報の一部を切り取って、自分をそこに適する形にしないといけないと思っていた。これだったらまーやってもいいかなってことを選んでいた。正確に言うと、そこに無理やり自分を押し込めていた。自分が自分の楽しめる何かを作って「わたしがわたしの人生を作る」なんて発想は皆無だった。
もちろん、本当の望みに焦点をあてることはなかった。
ここ4-5年は自分で自分の望みに耳を傾けるワークをかなりやってきた。結果、現実は変わり、以前では考えられなかったようなしあわせな環境に身をおき、ここちいい幸せな人たちに囲まれている。
過去の投稿だけど(当時友人がスクショし大事にもってくれていた)
こんなことをひたすらやる。
アホみたいに、ひたすら。自分を雑にあつかうのは、もうまっぴらゴメン。
だれのためにも自分を犠牲にできない。?時間?お金のため?人のため?猫? 何かのためにいるわけじゃない。ただこうしてここにいるだけ。何の役にもたたなくても役にたってても、すばらしくてもすばらしくなくても、かわいくてもかわいくないわたしも愛されても愛されなくてもただここにいてぼーっとしてるだけの存在。そのあり方を他人に問われたくない。ほかの何にも忖度したくない。
もう無理。好きなことしかできないし、好きなことしか言えないし、好きじゃない所にいられない。『自分の本当』とちがうことを言ったりやったりすることができない。まちがってでもしたくない。
そのために自分の声をいつも聞いて、自分のことを誰よりも知っている状態にしておきたい。ただ、わたしがわたしでいるため。そのために自分観察がある。
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