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ホテル暮らし【ショートショート】

N氏は、とある出張にてしばらくの間ホテルでの滞在を行うことになった。最初は億劫であったものの気づけばその快適さにすっかり魅了されていた。

まず、掃除を自分でしなくてもいい。バスタオルは毎日新しいものが提供され、ベッドメイキングだってプロが完璧に整えてくれる。食事もホテル内のレストランで済ませれば、献立を考える手間がない。これ以上ない生活だと、N氏は思った。仕事も順調だった。Wi-Fiも安定していて、会議はスムーズにこなせる。お金だって予想よりもかからない。出張での滞在がメインだったが、どうせ家に帰ってもほとんど使っていない家賃を払うだけだ。だったらこのままホテル暮らしを続けてもいいかもしれない。

そして、N氏は決断した。家を売り払い、ホテル暮らしをことにしたのだ。独り身であることも決断をスムーズに後押しした。

最初のうちはすべてが順風満帆だった。何もかもが完璧で、N氏の毎日は理想そのものだった。しかし、しばらくして小さな「不便さ」が顔を覗かせ始めた。

「爪が伸びてきたな…」

ふと気づいて爪切りを探したが、どこにもない。そうか、ここはホテルだ。日常的に使うものが、部屋には常備されていないのだ。フロントに電話をかけたが、爪切りは「ご用意できません」とのこと。コンビニで買えば済む話だが、日常生活で当たり前のように手に入るものが、急に手に届かなくなると、じわじわとした不便さが心に忍び寄る。

数日後、シャツのボタンが取れた。

「針と糸がない…」

フロントで尋ねたが、裁縫セットは「貸し出ししていない」とのことだ。急いで近くの百均に駆け込んだが、どうもホテル暮らしのすべてがそう簡単ではないと感じ始めた。

洗濯も、コインランドリーに行かなければならない。最初は楽しかったものの、重たい洗濯物を運ぶたびに「自宅だったら洗濯機を回すだけで済むのにな」とため息がこぼれる。

それでも、N氏は耐えた。ホテル暮らしには無数の利点があるのだ。だが、こうした小さな不便が積もり積もって、彼の心の中に隠れたストレスを生み出していった。

そんなある日、N氏は理想の「貸しホテル」を見つけた。マンションの一室をリノベーションして作られた、長期滞在に特化したホテルだ。部屋は広く、収納も充実している。何よりも、ここには「日常」を送るための設備が揃っていた。爪切りだって、裁縫セットだって、ちゃんと用意されている。洗濯機も部屋についているし、ちょっとしたキッチンまで備えてある。

「これは…最高だ」

N氏はすぐにそのホテルに長期滞在を決めた。これまでのホテルとは違い、自分の持ち物を置いておけるスペースがたっぷりあり、毎日のように外に出なくても快適に過ごせる。ついに、理想のホテル暮らしが完成したのだ。

そこでの生活は実に快適だった。N氏は、ついに「完璧なホテル暮らし」を手に入れたのだ。朝、窓から差し込む柔らかい光を浴びながらコーヒーを淹れ、気が向いたときに洗濯機を回す。そして、何よりも気に入っているのは、自分の物がすぐに手に届くことだ。爪切りがいる?すぐそこにある。ボタンが取れた?針と糸も完備されている。ストレスなんて、もう存在しない。

そんなある日の夕方、部屋のインターホンが鳴った。N氏がドアを開けると、そこには初対面の男性が立っていた。

「はじめまして、隣に引っ越してきた者です。これ、引っ越しそばです。どうぞ」

N氏は目をぱちくりさせながら、引っ越しそばを受け取った。

「引っ越し…?」

頭の中で考えがぐるぐる回る。

「…ここは、ホテルだよな?」

だが、自分が手にしているのは、まぎれもなく「引っ越しそば」だ。そして、隣に住民が「引っ越してきた」という事実が、彼の理想のホテル暮らしのすべてを揺るがす。

話を聞いてみるとどうやら家賃を借りて住むこともできる、ホテル兼アパートメントらしい。確かにベッドメイキング等依頼した記憶もないし、最近は外食にも飽きて簡単な自炊すらしていた。

N氏は、思わず苦笑した。気づけば彼は、ホテル暮らしをやめて「普通の住民」となっていたのだ。だが、思考が落ち着いて部屋を見渡した際に気付いたことがある。

ここには備え付けの家具以外に、爪切りや裁縫セット、4,5枚の衣服に仕事道具。その程度のモノしかない。

「これが理想の家だったのかもしれないな…」

N氏は苦笑しながらもお気に入りの珈琲を一杯飲み、仕事に戻っていった。

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