顔パス【ショートショート】
N氏は昼下がりの公園を歩いていた。鳩にエサをやる老人が一人、ベンチに腰を下ろしていた。やや気怠そうに杖をつきながら、老人は立ち上がろうとして足をもつれさせた。
「あ、危ない!」
反射的にN氏は老人の腕をつかみ、転倒を防いだ。老人は顔を上げ、ニッコリと微笑んだ。
「ありがとう、若いの。君はいい人だ。」
「いやいや、大したことじゃないです。」
N氏は恐縮しながらも、どこか誇らしげだった。助けたという事実が、何となく一日を特別なものにしてくれたような気がした。
「御礼をせんとな」と老人は言った。
「笑顔が良く似合う、君にはこれを授けよう」
N氏が目を丸くして見つめると、老人は何か見えないものを手渡すような仕草をした。
「これで、どんな場所でも自由に入れる。改札も、ジムも、会員制の場所だろうと、顔パスで行けるぞ。」
N氏は戸惑いながらも、「まさかね」と思い、苦笑いを浮かべた。しかし、その日の夕方、試しに電車の改札を通ろうとしたとき、驚くべきことが起こった。改札機がエラー音を鳴らしたため、N氏は近くの駅員に説明を試みたのだ。
「すみません、なんかエラーが出てるみたいで…」
だが、駅員はじっとN氏の顔を見つめた後、不思議なほどにニコリと笑った。
「ああ、失礼しました。どうぞお通りください。」
その一言で、改札は開いた。驚いたN氏は思わず立ち尽くしたが、いわれるがままに電車に乗り込んでいた。勿論無料だ。
それからというもの、N氏の世界は一変した。
駅前のジムだって簡単に顔パスで入れた。受付の女性は驚きもせず、あっさりと「どうぞ」と言ってくれた。会員制の高級バーにも顔を見せるだけで入場できた。そこでは、有名人がちらほらと目の前を通り過ぎていった。
何よりも衝撃的だったのは、N氏がある日、人気アーティストのライブに行こうとした時だった。チケットなど持っていない。しかし、会場のセキュリティがN氏の顔を確認すると、何事もなく「お楽しみください」と言って会場に通したのだ。
N氏は完全に有頂天だった。顔さえあれば、何でもできる。どんな場所でも行けるのだ。興奮した彼は、次々と行きたい場所をリストに挙げていった。美術館、映画のプレミア、スポーツの特等席——どれも顔パスで通れる。
そんなある日のこと、N氏は思いつきで海外の高層ビルの展望台に登っていた。もちろん顔パスで、特別会員しか入れないVIPルームにも通された。地上数百メートルからの眺めは絶景で、彼の心はまたもや高揚していた。
「こんなところにも入れるなんて、俺は本当に無敵だ!」
その時、ふと視線の先に、スタッフが立っているエリアがあった。しかし、N氏にとってはそれすらも意味がない。顔さえ見せれば、どこだって通れるはずだ。どうせ誰も止めない。そんな確信のもと、彼は躊躇なくそのエリアに足を踏み入れた。スタッフは快く道を譲ってくれた。
展望台の特別エリアなのか、床がガラス面となっており、あたりには誰も居ないことからまさに絶景スポットであった。N氏はまさしく有頂天になっていた。
そして、次の瞬間——
「ピシッ。」
足元から不吉な音が聞こえた。N氏は一瞬立ち止まった。後ろを振り返るとそこには立ち入り禁止のマークが書いてあった。
「まさか…」
そう思った矢先、さらに大きな音が響き渡った。
「ピシッ…パキッ…!」
床がひび割れ、足元が崩れ落ちていく。
「……危ない!」という叫び声が遠くで聞こえたが、N氏にはもう届かなかった。