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自分の芯に触れるとき


真冬の寒空の下で雪がしんしんと降る季節になった。
現実世界から隔離されたような、世界にたったひとり自分しかいないのではないかと錯覚するような、そんな静かで厳かで、まるで自然の牢獄に閉じ込められたような感覚になる真冬の夜に、わたしは自分自身に出逢った。
その時のことを徒然なるままに書き記そうと思う。

息が凍り皮膚に痛みを覚えるほど凍てつく真冬の夜に、わたしは失恋をした。
真冬の寒い夜に別れ話をしなくても、と思うも、過ぎた時間は戻って来ない。
深い悲しみに耐えきれず、わたしはひとり凍てつく吹雪の真夜中に誰もいない山奥へと向かった。
すべてを終わりにしたいというほどの絶望感はなかったけれど、とにかくひとりきりになりたかった。




行き着いた場所は、誰もいない、ひとりきりの白い世界。
見渡す限り雪の山で、ひとどころか動物の気配すらない夜。
言葉もなく、ただひたすら寒くて凍える感覚を覚える。
こんな夜は誰かにあたためてもらいたいと感じるのに、今夜からはもうひとりなのだという事実を突きつけられる。
自分の奥にある熱を感じるのに誰かを通してしかその熱に触れることができないだなんて、なんてひとは皮肉なのだろうと感じた。
しかしながらそんなことを何千回と思ったところで彼はわたしの元に帰って来てくれるワケでも何でもないのに、悲しみを感じないために哲学的な何かを考えることで思考停止をしようとしていたのかもしれない。


目を瞑り手袋の上に雪が積もり始め皮膚の内側まで寒さが届き始めた頃、急に意識が遠のいていく感覚がした。
本能的に生命の危機を感じた。
それなのに動くことができず、その場を離れることができなかった。
そして自分の内側にそっと意識が潜り込むままに、その感覚を感じることにした。


少し意識が戻ってきた頃に、自分がする呼吸が、胸の鼓動が、感じる熱が、繊細に自分の心の奥底へと届き始める。
吐く息で唇のまわりにじんわりと広がる熱を感じ、吸う息で鼻腔から喉元、気管支、肺胞へと鋭く広がるひどく冷たい空気を感じ、胸に規則正しい鼓動を感じる。
夏の暑い日には感じられない繊細な呼吸と鼓動の動きがわたしをそっと静かに包み込み、止まることなく、静かに続いていく。
確かにわたしは自分の体温、鼓動、息遣いを感じ、生きている。


深い静寂で、まるでこの世にほかに誰もおらず自分ひとりだけが存在するかのような錯覚を覚え、自然という名の大きな存在に自分がただ生かされていることをそのとき強く感じた。
でもそれは言葉で表現し尽くせるようなものではなく、言葉が何も生まれない息を飲むほどの深い感動であった。
時を忘れ、死への恐怖も忘れ、ただひたすらその時間を感じるがままに感じた。

当時は流行していなかったけれど、今で言うmindfulnessという状態であると思う。
ほかの誰かの体温も呼吸も鼓動もなく自分ひとり分の生きている証を自分自身で感じる時間は、孤独を感じると同時に生きている実感を与えてくれるとその瞬間に感じた。
わたしは、ただ生かされているだけなのだと。


そう感じた瞬間、ただ生きよう、と思った。
ただそれだけのことしか思えなかった。
しかしそう思った瞬間、急にカラダが動き出した。
さっきまでの体温や鼓動、息遣いは息を潜め、わたしは凍えて動きにくくなったカラダを動かし、車へ向かった。
まだわたしの生命がここでは終わらないのだ、という諦めと、生きるチャンスがあるのだという希望の両方がわたしの元にやってきてくれたのだった。

凍傷になることなく車のエアコンであたたまったカラダを動かし、わたしは街に降りたのだった。
帰り道はあんなにしんしんと降っていた雪が止み美しい真冬の銀世界が広がっており、この幻想的な景色を見ることができた幸福を噛み締めた。


孤独は辛いとよく聞く。
わたしもそのとき確かにそう感じており、ただただワケもなく辛く悲しいものであった。
でもあの瞬間確かに、悲しみ以外の選択がわたしに与えられたように感じたのだった。


孤独は誰かと関わることで初めて生まれる感覚であり、誰かと一緒にいて深く触れ合っていたとしてもひとりで生きているということをまざまざと見せつけられることにより感じる深い寂しさによって生まれるのではないかとわたしは思う。

深い寂しさは恐怖へと変わる。目に見えないものであるため畏怖の念へ変わり、畏怖の念を抱くことにより胸が締め付けられ苦しくなり辛くなるのではないか。
それは、誰かと一緒だった記憶があるから抱くもの、なのかもしれない。

この出逢いがこの一瞬になりやしないだろうか。
その未来が見えないことによる不安が、孤独への恐怖を深めているのだろう。

しかしそれは、本当なのだろうか。


ひととひとの出逢いが点と点で交わると考えるから過去や未来どころか現在が隠され見えなくなってしまうのかもしれない。
たとえばひととひととの出逢いが線で表現されるとして、その線と線が巡り逢うとしたらどうだろうか。
過去に遡りその記憶は過去のどこかで繋がっていて、そして、未来へとこの記憶は繋がっていくことも考えられる。
そう考える瞬間に、ひとは自分や他者との繋がりの意味を考えてみるのかもしれない。
それは、自分にしかわからない。
自分だけがその答えを知っている。


思わず涙が溢れるほどの深い孤独を感じる場所で生きていることを実感できたあの瞬間、わたしは確かに自分の芯にほんの少しだけ触れられた気がした。
自分の芯とは、自分自身しか知らない自分のことであり、誰にも見せていない閉ざされ秘められた場所である。
自分の芯に触れるということは、自分の心の深淵に向かって行くことであるとも言えるのかもしれない。
それは誰も知らない。自分しか知らない、わかりようがない場所。


だからしっかりと深く、自分を真っ直ぐに見てあげたいと、わたしは思う。
それは孤独からしか見つけられないのかもしれないから。
誰かと一緒にいるときに感じる熱、離れるときに感じる冷たさ、その両方を味わうことで自分の芯に触れることができるチケットが手に入るのかもしれない。
その孤独から自分の芯を見つけられたときに、きっとひととひととの出逢いの意味がわかるはずで、恐怖以外にも色とりどりの感情を味わえるのではないかとわたしは思う。

たまには寒空の下で孤独を感じることも、悪くない。
そこには自分の芯に触れる熱を感じられ、生かされていることを実感させられるから。
今はあの頃と違い白い世界が見えず、真っ暗闇に包まれる真冬の夜。
冷えた星空を見上げながら束の間の静寂を感じ、自分の芯にはじめて触れた夜を思い出す。
あの夜に出逢った自分はいま、確かにこの胸の中に生きている。

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