小説家チャレンジ38日目〜父と話してみて〜
また雪ふったので、朝からコリアン食品店で買った牛骨ラーメン食べたら、体があったまる。
カリカリめのベーコン、半熟卵、茎がかたいのでまずスチームしたガイランという中国野菜(菜の花)を、ゴマ油でソテーして、さいごに韓国海苔ふりかけをトッピング。
きのう20分だけだけど、実家の父とビデオ通話して思ったこと。
『人はゆるしてくれる」
『失敗してさえも受け入れてもらえる」
「いちばん自分を責めてるのは、自分」
「過ちを許さないのは、世間じゃなくて自分」
「自らの失敗に一番ガッカリしたのは自分」
父に迷惑かけた、恥をかかせた、あわせる顔がない、期待を裏切った、そのことが4年間ずっと辛かった。今でも過去の自分への後悔がない日はない。だけど父はやらかした私ごと、全て受け入れてくれていた。
言葉でハッキリ言われなかったけど、話のさいしょから最後まで、父がきいたのは私たち家族の無事と健康。
「おかげさまでウチはみんな元気です」というと「それなら大丈夫だ」とポツリと言ってくれるひとこと、画面からあたたかい日ざしみたいにポカポカ伝わってくる親の愛。
父はもう私の大失態を怒ってはいない。
未だに気に病んで、後悔が絶えないのは私。
さいきんになってやっと、心の中で「自分は飲食店経営に失敗したんだ」ポロッと言えた。
それまでは感情的にならずに、自分の失敗を「事実」として口にできないのだ。
先月、法皇と有名youtuberに「いまウチの家族はこういう状況で、助けが必要です。よろしくお願いします」という内容の手紙をだしたとき、はじめて
「自分が起こした結果でも、手に負えないときは能力のある人、状況をマネージできる人に助けをお願いしてもいいんだ」
と思えた。
少し前までは、人の助けをあおぐとき、木っ端みじんに砕け散ったと思った、自分のさいごのプライドがジャマをして
「惨めだ」と気持ちが卑屈になってしまい、頼むのがつらくて「もう私ではどうにもできません、助けてください」とストレートにいえなかった。
自分の起こしたアクションでこうなったんだから、この苦しい結果にあまんじるべきだ。自業自得だ。
たしかにそれは「正しい」
だけどそこには「人間のあやまち」「至らなさ」にたいする「ゆるし」「許容」「共感」「慈悲」がない。
正しさは人を裁く。
いちどの失敗で、死ぬまで裁きつづけられるのは辛い。
もう挫折だらけ、失敗だらけ、至らないところだらけの自分を、夫を、ゆるしてあげよう。
いちばん迷惑をかけられた父も、天の神様もきっと私たちをゆるしてくれている。
わたしはあした50才になる。
これまでの半世紀を「正しさ」と「ジャッジメント」で生き、カナダで一生懸命がんばってきたのに、内面に広がっている焼け野原。
明日からの半世紀を「ゆるし」と「共感」「許容」で生きよう
そしたら荒野がお花畑に変わるかもしれない。
信じてまいにち少しずつ、耕していけば。