小説家チャレンジ49日目〜前進しつづける日々〜
ながいあいだ心に重くのしかかっていた、発達障害のある次男JJにたいする申し訳ない気持ち、出産前後にうけたくるしみ、親としてパートナーとしていたらなかった自分への後悔、恥を、つい先日はじめて文章にしてみた。
ヘビーなことを思いきって、夜中にコツコツできるだけ正直に書いた。ただ投稿してすぐ「今さらこういうこと書いて、都合のいい言い訳、偽善にきこえるかも」すぐ後悔におそわれ恥ずかしくなった。
発表してすぐには反応なかったけど、少し日をおいて確認したら、数人の方が読んでくださっており、評価までしてくださった。うれしくて涙がでた。
じぶんの人生の挫折、失敗、惨めな体験、恥を文に書くことで胸のつかえが少しおり、過去がちょっとだけ整理され、世界のどこかに私の思いを読んでくださるやさしい人がいると思うと、スーッと苦しみが浄化され、心に新しい風がふきぬけ、希望がふつふつとわいてくる。
時間をさいて読んでくれたうえに、評価までくださったやさしい読書の皆さん、本当にありがとうございました!ホントにうれしいです!
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さいきんはJJがベッドから落っこちないように大きなベッドの右端に私がねて、まん中にJJ、枕をひとつはさんだ左端に夫が寝ている。
毎晩、4才児のやわらかくてあったかい体を、すぐ隣にかんじながら、子ども特有のあまいにおいに包まれて、私はグッスリ眠る。JJの寝顔は、切れ長の目の閉じたまつげがながくて、起きてるときのやんちゃぶりとうってかわって、天使みたいにかわいらしい。
私たちは、結婚してから10年ちかく赤ちゃんにめぐまれず、40才で奇跡的にタラちゃんを生んだものの、その後なかなか2人目は授からなかった。
ただ、わたしの叔母2人が45才で出産していたのを知っていたので、心のどこかで「まだいけるんじゃないか」とひそかに思っていた。
43才のときダメもとで検査をしてもらいに、ない勇気をふりしぼって、夫婦で数年ぶりにカナダの不妊クリニックを訪れた。まずは夫の検査。
後日、検査結果をききに病院にいくと、きびしい表情のカナダ人女医が診察室でまっていた。彼女は検査結果に問題ないことを説明しながら、終始「この年で妊娠の相談にくるってコイツら信じられない」といういらだちが、言動のはしばしに露骨に表れていた。
診察のさいごに「とにかく妊娠はもう難しいだろう」というもっともな見解をいわれ「早く帰れよ」と言わんばかりの彼女に「いちおう私の子宮検査もさせて下さい」と食い下がった。
彼女は、まだあきらめてない私の申し出にもう一度イラッとし、眉間にシワよせながらだまって検査予約の手続きをした。
診察がおわって、年がいもなく第2子を夢みたおろかさを医師に鼻で笑われ、私も夫も心折れて、はずかしさで燃えるような頬をつめたい冬の空気にさらしながら、一言もいわず、うなだれて車に乗りこんだ。
ただ、わたしにはなぜか自分の子宮の状態が、まだ大丈夫なんじゃないかという確信があり、それをたしかめたくて、ダメもとで検査を申しこんだのだが、やはり後日、超音波検査を担当したチャイニーズの技師は「子宮内膜の状態いいですよ」とニッコリした。
そのあと、私はもう女医の診察にはもどらなかった。第一子をさずかったときと同じく「自分を信じて、どんな手を使っても妊娠するためなら、何でもやってやろう」と決めた。
じぶんの願いが、どんなに常識破りなビジョンだったとしても、全力でやるだけやる。
そう心にきめて、ひとり目標に向かって、もくもくと気狂い沙汰の努力をしつづけた結果、奇跡は起こった。
2度も。
そもそも、わたしは30代のときに「原因不明の不妊」と診断され、医師には「人工授精しなければ妊娠はムリ」と宣告された。
とうじ費用に500万かかると言われ、貧乏な私たちはその宣告に夫婦で絶望した。けっきょく私はその後うつになり、夫はギャンブルにのめりこんでいった。
43才のときは、また妊娠したくて不妊クリニックを訪れたら、あまりの非常識さに女医にキレられた。
経済的に、医学的に、常識的に、ぜったいムリ
もう40代でそんなこと考えるな。
でも結果、私は40代で2人のかわいい男の子にめぐまれた。しかも自然妊娠で。
人生で「○○になりたい」「○○がほしい」とのぞむたび、口にするたび、でもそんなお金ないよ、その年齢じゃ、そんな前例はないし
「そんなのムリだよ」と言われつづけてきた。
もっともらしいデータ、統計、事例を専門家にならべられて、一気に気持ちがなえて夢をあきらめてしまう。希望を失って落ちこむ。
「やっぱり私にはムリなんだ」
「私がそんなこと望むなんて身の程知らずだったんだ」
くすぶりつつも希望をすてられず「ムリだって言われても、やっぱり私は○○したいんだ」そのためには何でもやってやろうじゃねえか!と決めたとき、肚をくくったとき、野望を新たにしたとき、はじめて物事は動く。
きょうは5月5日。
まさかこの年でかわいい息子2人と、お節句に兜を飾ってお祝いしてるなんて、不妊うつだった30代の時は想像もできなかった。
でも今こうしてそれは実現している。
それは私があきらめなかったからだ。
やっと2人目がうまれたのに破産して、借金背負って、なんとか夫婦で再就職してがんばってたら、夫は仕事中に事故にあって、むずかしい頸椎手術が成功!これでやっとひと息つける、と思ったら、JJの問題行動がエスカレートし、言葉を失い、けっきょく息子は自閉症と診断された。
人生最大の苦しみだった「不妊」をやっと克服したと思ったら、こんどは「経済的に破滅」して、夫とJJは健康をそこなって、もう希望もクソもなくなった。
しかももう50才
おわった。
さすがの持ち前のポジティブさも、不屈の精神も、原爆級の爆風に吹き飛ばされ、あとかたもなくなってしまった。
すべては灰になり、私の内面には見わたす限りまっ黒な焦土が広がる。
それでも私は、再就職の話があるときけば面接にいき、慣れない仕事を頑張り、パワハラに耐え、JJに療育が必要となれば、資料をあつめ、援助を申請し、何校も問い合わせ、なれない療育生活、JJの問題行動の改善に試行錯誤し、タラちゃんの小学校の成績が下がれば、勉強のサポート、節約しながらのご飯の用意、洗濯そうじ皿洗い。
まいにち前進、前進、前進。
ひとつずつ頑張る、頑張る、頑張る。
すすめ、進め、ススメ!
もう人生おわった。
生きるのつらすぎる。
しにたい。
苦しみしかない1日の永遠の連鎖
にげたくて、のがれたくて仕方なかった
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でも、さいきんまた、わたし本来の途方もない夢、家族でしあわせになるという野望、どんな手でも使ってやろうという野心、
動物の本能のような、野生の衝動にちかい
「幸せになりたい」という私の欲望
下品で根拠のない自信に満ちた
止まることのない私の野望が
ふつふつとよみがえりつつある。
わたしは焦土から
またよみがえる。
メッタ刺しにあって
さすがに
しばらく地面にたおれていたけど
私はやっぱり
うたれても
さげすまれても
ころされても
灰にされても
しあわせになりたい
しあわせになるまで
ほしいものを手に入れるまで
なんどでも
なんどでも
起きあがりつづけ
挑みつづけよう
生まれもった
天才的な
狂人的な
あきらめの悪さ
わたしはまた胸のうちに
野心をかくしもって歩きだそう
息の根がとまるさいごの瞬間まで
家族でまた
しあわせになることを
信じてあるきつづけよう
くるしみが
私のしつこさにまけて
いつしか
よろこびに変わるまで。