靄々傘【ショートショート】
「ありがとうございましたー」
最悪だ。
濁った水溜まりを飛び越えようとしたけど、目測を誤って靴がびしょびしょになった気分だ。
これはコンビニでちょっと気になった雑誌を立ち読みしていた罰、なのか。
コンビニの出入り口付近にある傘立て。今、そこに刺さっている傘は3本。
1本は、ちょっと高そうな黒光りした傘。他の2本は、このコンビニでも売っていそうなビニール傘だ。
しかし、その3本とも私が持ってきた傘ではなかった。
外は車軸を流すような雨に様変わりしている。ここに来たときはまだ、ギリギリ走って帰れば平気な程度だったのに。
ふと、首を回して店内を見回す。
レジの店員を除いて、店内に人は3人。スーツを着た高齢の紳士風の男性と若いカップル。駐車場のないコンビニのため、残りの3本の傘は、この3人の物と考えて間違いないだろう。
そして思い出した。私がレジに並ぶ前、若い学生風の男が会計を済ませていたことを。
男の手に傘はなく、上着の肩が濡れていた。恐らく彼は、ここに来る際に雨に濡れながら入り、そして帰る際に私の傘を盗んで出て行ったのだ。
まあ、傘を盗んだというのは見ていたわけではないから憶測に過ぎない。
傘を盗まれたからといって、警察に連絡して店員にお店の防犯カメラを見せてもらい、犯人を捕まえてやろうということまでの行動力はなかった。
しかし、なぜかあの学生風の男と同じような行動をとってしまいそうになっている自分がいた。
どうして正しいことは憂鬱なのに、悪いことは躊躇いもなくやってしまいそうになるのだろう。
泣き寝入りは最善の行動なのか。罪を背負うことは、どれだけ悪になるのだろうか。
まさかコンビニの前でこんなにも葛藤するなんて、数分前の私は想像もしてなかった。
すると、コンビニの扉が開き先程のカップルが、それぞれ傘を手に持って店を後にした。
一瞬、「1本貸しましょうか？」という言葉を期待したが無駄だった。
残る傘はあと1本。しかもそれは簡単に触れることさえ許されないような代物だ。こうなってしまうと、選択肢は限られてくる。
渋々店内に戻ろう身体の向きを変えると、目の前にスーツを着た紳士風の男性が立っていた。
「一緒に入っていくかい？」
その屈託のない笑顔に、一瞬心奪われそうになった。
この人なら、心に溜まっている濁った水溜まりを、綺麗に洗い流してくれるかもしれない。ふと、そう感じた。
「あ、いえ……大丈夫です」
思わず断ってしまった。息が荒くなったせいなのか、眼鏡のレンズが曇る。私はすぐに眼鏡を外して服の袖でレンズを拭く。
「そう。気をつけてね」
その言葉に、眼鏡を外したまま顔を上げたが、視界がぼやけていて紳士の表情は見て取れない。
憂鬱な雨の中を傘を差して歩くその紳士の後ろ姿は、とても幸せに満ち足りているように見えた。
雨に濡れるのも悪くない。不思議とそんな気がしていた。
私は童心に返ったように、雨の中に飛び込んだ。