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仏が愚問と言ったこと

私の中心は7つの習慣である。
よく学び、よく働き、よく食べ、よく遊び、よく笑い、よく寝る。そんなところだ。そうやって、私のミッションに近づいていく。それが私の人生であり、生き甲斐である。しかし最近、それに身が入らなくなっていた。なんで学ばなきゃいけないの?なんで働かなきゃいけないの?全ての事に理由が見いだせなくなっていたのだ。

実は過去にも何度か同じことがあって、その時は自分のミッションを見つめ直して、”そうだ、このために私は生きているのだ。”と思うことができていた。しかし、最近のそれはミッションすらも疑う様になっていた。そういう事態を招いた1つの問いがある。それは「宇宙の果てはどうなっているのか?」ということである。それを考えるうちに人間の存在意義とかを考えだして、どうせ死ぬのになんで生きようとするのか、死のうともしないけど、生きることに貪欲であることが滑稽で無意味に思えて仕方なかった。けれど、この考えがおかしいことは直感的に分かっていた。分かってはいたけれど、私という人間は理屈がないと納得出来ない人間である。だから私のこの考えを理論的に否定してくれる答えを見つけるために宇宙についての本とか仏教の本とかを読み漁った。

仏教の法話に「毒矢の例え」というのがあって、「世界が無常かどうか考えるのは意味がない。あなたの苦しみを取り除くことに注力しなさい。」という話がある。(間違ってたらごめんなさい。)7つの習慣ユーザーの私からすると、”関心の輪と影響の輪の話ね”という感じで理解はできるのだけど、ちょっと違和感。“分からないから考えるなとか、考えるのは無駄だから考えるなとか、他にももっと優先すべきことがあるだろってことで考えないようにするのは違くない?考えることを放棄しているような?もっと理論的に説明してよ!納得出来るように!“とますますフラストレーションが溜まる一方。

だから自分なりにずっとそこを考えていたの。「なんで仏は宇宙の果てがどうとかに明確な姿勢を取らなかったのか。」

”仏がいた時代とは科学力が違うのだ。宇宙についてちょっとずつ明らかになってきているじゃないか。偉人たちの慧知を反故にするの?“って。”仏さん令和の時代舐めんじゃないよ“って。そんなこんなで宇宙の中の私って観点でずっと物事を考えていたの。宇宙があって、地球があって、私がいる。この理由を綺麗に説明したかったの。

それについてはある程度答えが出てね。自分の中では人間原理って事で納得している。そこには何の意味もなくてただ偶然宇宙地球私があって私という存在がそれらを認知しているというだけ。けど、だから私が私の人生の意味を決めて、かつてのようにミッションに向けて7つの習慣を実践しようかって気持ちにはなれなかったの。「普遍的な意味で私の存在意義はないの。だから私自身で決めましょう。」ってちょっと強引な気がしない?綺麗じゃないの。だからね、もうちょっと考えたの。

ぼーっとしてたらね、宇宙の中に私がいるんじゃない!(物理的にはそうかもしれないけど。)私がこの世界を認識しているんだってことに。大袈裟にいえば私がこの世界を創っているんだって。第一の習慣。主体的であるということ。認知するとこで初めて創られるということ。色を認識する要素に観測者が要るってことと同じ。私がいるからこの世界はあるだって。もちろん、私が死んだ後も地球とか宇宙はあり続けるとは思うんだけど、ここでいうのは私が認知しているこの世界は私がいるから存在しているんだってこと。

そしたら、「なぜこの世界は存在しているか」ということに意識を向けるよりも「私はこの世界をどう見るか」ということに意識を向けた方が、真理に近づく気がするの。というより私が認識することが私の全てなのだから私が何を感じているのかを知ることが私の世界にとっての真理よね。となれば、宇宙の外側は?とか宇宙の果ては?とかよりもずっと問いがシンプルになる。内側に目を向ければいいんだもの。そして答えは私が持っているんだもの。

そして、だからなぜ学ぶのかということは私が認識しているこの世界について理解を深めること、それは私が知りたいと思ったんだからそれが理由なの笑。公的な意味ももちろんある。そして運動すること精神を整えることはこの世界の真理を安定させること。社会との関わりはその人の笑顔のため。かしら。


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