臭い物に蓋をする。の弊害
挫折が学びであることは大前提で、
それでも悲しみや悔しさ、虚無感とかの感情は無視してはいけない。
理解と感情とは別物で、感情を否定することは自己否定に通じる。時間をかけてでも自分自身の感情を吐き出し、受け止めて初めて昇華して前を向くことができる。
その過程をすっ飛ばして、前進することは臭い物に蓋をして、それを抱えて前進すること。臭い物を入れた壺を抱えて歩き続けることになる。
幼少期や子供時代に経験したことを壺に入れて抱えて生きてる人が多いけれど、とっくの昔にそのツボの存在を忘れてしまってる人が多い。
その臭い壺を抱えて生きることもありだと思う。
でも私の経験上、それはいざと言うときに物凄く負担になり、重たい。ここぞ!と言うときに走りにくい、飛べない。たまに大きな衝撃で地面に落ちて割れて、その臭いものがあらわになる。
その時のダメージたるや。
ポジティブだけが良いとされ、ネガティヴな感情が疎まれるが、
そのネガティブな臭い物に向き合い昇華させる必要があるって思う。
そうでなきゃ、軽く走れない、同じ失敗を繰り返してしまう。
ネガティブがなければポジティブが生まれない。
闇があるから光がある。
全ては表裏一体。
善と悪なんて綺麗に切り分けられる物なんてこの世に無い。
闇と光のどっちに意識を向けるかしか無いと思ってる。
では、自分のネガティブな感情は、どうすれば昇華できるのか。
そのネガティブな感情を受け入れる。
ただ、そこにあるネガティブさを自分が観察して受け入れてあげるしかない。
受け入れ先のない、蓋のされた「臭い感情さん」は、いずれその存在を主張したくて表面化したがる。
感情には承認欲求があると思っている。
だから自らその「臭い感情さん」を受け入れて、昇華させる。
その感情をしっかり観察した→その感情の原因も見つめた→その感情を抱いた自分を自身で受け入れた。
そして初めて「臭い感情さん」は「私の声を聞いてくれてありがとう」と一つの生命体が天昇するかのように昇華される。
これができないと、とても厄介なことになる。
他者に自分の臭い部分を投映して、責め立てる。
さも自分は全く持って善の存在であるかのように、誰かを勝手な価値観で評価し責め立てる。
とても厄介。
他者は、自分の、過去、未来、現在の自分の嫌な部分を投映する。
これが鏡の法則とか言われることだと認識してる。
自分以外の他者は自分に必要な何かを気づかせる投映であり、学びをくれる。あなたは私なのだ。
または過去の忘れ去られた未昇華の感情を入れた壺の蓋をこじ開けてくる。嫌いな人は自分自身が自分にしてる評価とジャッジをすごくわかりやすく示してくれる。
他者の問題じゃない。
いつだって自分なのだ。
社会が悪いわけでもない。
自分の意識の向け方だ。
自分の意識の向ける方向が光じゃなくて闇にむいただけなんだ。
全てには表裏があるから。
自分に与えられたのは善悪の判断ではなく、選択の自由だけだ。
今、善だと判断したことが、将来悪だと言う結果になった。なんてざらにある。太平洋戦争も殆どの日本人が善だと思っていたことが、悪だったとひっくり返った。
そして、アメリカ人の半数が原爆投下は必要だったと言ってるのだ。
善悪を判断したがる人は、物事をかなり単純化し短期的な視点で見てる可能性がある。
私自身、この7月と8月頭は顕在意識では理解してるつもりもなかなか無意識領域では感情をコントロールできずに久々にとことん病んで自己嫌悪、虚無感と向き合った。絶賛ネガティブ祭りをしていたんだけれども、
この感情を持ったこと、自分の弱さを観察し受け入れたこと、多くの学びがあったし、このあとの展開は楽しみにもなってきた。
物理の量子論で言えば、この世に存在するものには全て周波数があるけれど、
人生そのものも、波だとすれば、
一回ちょっと底を突いただけであり、そこをついたから当たり前に浮上し、また落ちては底を突く。その繰り返しのワンシーンに過ぎない。
誰かに機嫌をとってもらうことを期待するわけでもないが、
でも人の愛に触れ、
また自分を信じたいと思い、
そして自分で自分の機嫌を取りつつも、
他者に甘えてみると言う不得意分野を克服すべく、
新しい学びの多い日々。
学びを通して、よりシンプルに
今の自分を楽しんで生きていきたいと
ダラダラ自分の内省を綴ってみました。
「弱虫でもいいじゃないか、
人間らしくて。」
そう自分に語りかけてる。