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いつだって誰かを傷つけてきた
う潮『疾走』小屋入り前最後の稽古休みの日に、『ぼくのお日さま』を見た。
奥山監督作品は前作『僕はイエス様が嫌い』を見て、子どもの目にうつる世界の質感の捉え方や、作品を貫く静けさが好みで、情報解禁された時から待ちわびていた本作。
自分の公演が佳境に差し掛かっている時に別の作品を見るのもなんだかなぁと、変に影響されても嫌だしなぁという気持ちはありつつ、いろんな人の感想や評判が目に入る前に見たくて、で、見に行ったんです。
※以下、作品の内容を含む記述なのでお気をつけくださいませ。
ざらつきのある質感の映像、ドビュッシーの月の光、昼下がりのまどろみ、雪国の白々とした風景、思春期の憧憬、フィギュアスケートの滑らかな身体。あまりにも訴求力のある魅力的な要素が揃っているもんだから、作品序盤はわりかし警戒して見ていた。なんなら、湖で3人で心を通わせるシーンくらいまでは、「はいはい、これが幸福の絶頂ね。多幸感に満ち満ちた3人の関係性、これが今から崩れていくのね」くらいに思って、一歩引いた目で見ていた。
しかしそこから物語が終盤に差し掛かるにつれ、自分の心が揺さぶられ始めているのを感じた。そして作品が終わった頃には、ハンバートハンバートの音楽とも相まって、今にでも溢れだしそうな、泣きたいような気持になっていた。私はその感情の正体が、すぐには分からなかった。
作品を観た人ならば分かると思うが、『ぼくのお日さま』は外的な出来事や事件が推進力となるようなタイプの作品ではない。言い換えれば、物語の展開に意外性があるわけではなく、かといって、登場人物間で交わされる感情のやり取りに真新しい何かを感じていたわけでも、なかった。
でも、じゃあなんで、見終わったあとにこんなに泣きそうになっている自分がいたのか。
物語の終盤、コーチの荒川が同性愛者であることを知ったさくらが、心ない発言をするシーンがある。作中唯一の"事件"と言っても差し支えないかもしれない。このことを契機に3人の関係性は崩れ始め、その関係性は修復されることのないまま物語は終わりを迎える。
私はこのシーンを見て思い出したことが一つあった。
この"思い出したこと"をゆっくりと紐解いていくことで私は初めて、映画を見終わった後に湧きだした感情の輪郭を掴むことが出来た。
小学校3年生くらいから、近所の個別指導塾に通っていた。
お気に入りの先生がいた。天然パーマにメガネ姿の若い先生で、担当は算数。遊び心のある語り口でスイスイと進んでいく授業は、小学校でのそれと比べてもずっと魅力的だった。算数は既に苦手な教化であったけれど、その先生の存在は私にいくぶんか、算数に向き合うモチベーションを与えてくれた。
そうは言っても、楽をして済むのならば楽をしていたいというのが人間の性。ましてや、当時の私は小学校中学年。受験を見据えて長期的に勉学に励むモチベーションなど、あるわけがない。
授業回数を重ね、先生に対する緊張感が失われてきた頃から、私は授業に対する甘えをあらわにするようになった。
その日、とりわけ気乗りしなかった私は、先生の解説を横目にダラダラとノートに落書きをしていた。見かねた先生は「どうしたの?」などと語りかけるも、釈然としない態度の私。やがて先生は、おもむろにしゃがみ込んで目線を合わせ、私のノートに共に落書きをし始めた。
当時、自分がどんな落書きをしていたのかはどうやっても思い出せないのだけど、先生が私のノートにした落書きはハッキリと覚えている。ウルトラマンだった。
その瞬間、私は、先生に対して抱いていた好感がサァーっと引いていくのを感じた。
後に知ることだが(正確には、大学生になって私がその塾でバイトを始めたので知ったことだが)、その個別指導塾では生徒を強く𠮟ることは禁止されていた。叱ることを封じられた先生は、私に目線を合わせ(物理的にも精神的にも)、勉強に対するストレスに共感を示して寄り添うことで、なんとか状況を打破しようとしたのかもしれない。
しかし、先生が私のノートにウルトラマンを描いたその瞬間から、私は耐え難いほどの居心地の悪さを感じ始めた。あえて隠さずに言うならば、当時のその感覚を、「気持ち悪い」という言葉で記憶している。
程なくして私は、母親に頼んで算数の担当を別の先生に替えてもらった。
(念のため書いておくが、個別指導塾で担当の先生を替えてもらうのは珍しいことではない。)
あれだけの好感が、私のノートにウルトラマンを落書きしたその瞬間に引いてしまった理由は、今でもよく分からない。強いて言うならば、「先生」というペルソナを破ってきたからなのかもしれない、と今になって思う。
私は先生の「先生らしくない」授業が好きだったが、それ以外はあくまでも「先生」らしい態度と距離感でいてくれることを望んでいて、落書きをしたときも、どこかで「先生らしく」叱ってくれることを期待していたのかもしれない。
先生という仮面を破られたことに対する驚嘆と困惑が一気に押し寄せた結果、「あっ無理だ」という拒絶感に集約されてしまったのだと思う。
だから私は、さくらが荒川に対して心無い発言をしてしまった気持ちが分かるような気がした。思春期の女の子の多感さ、とまとめてしまえばそれまでなのだが、あの発言は同性愛差別的な意図から出てきたというよりかは、コーチのコーチではない側面を見てしまった(望まずとも見せつけられてしまった)困惑と、フィギュアに対する自身のプライドや焦りが結びついた結果なのだと思う。
だからこそ、さくらの発言によって傷つけられた側の二人、悲しみを背負う荒川とタクヤの姿を見て、見せつけられて、どうしようもなくやるせない気持ちになった。
担当を外された先生にその事実がどう伝えらたのか、私は知らない。
自分が抱いてしまったちょっとの嫌悪感で、それまでの関係性が崩れ去ってしまったこと、彼を傷つけてしまったかもしれないということ。その事実が十年越しに、私の心を容赦なく痛めつけた。
田舎町で同性カップルとして暮らしていくことの難しさを感じある種の諦めのような気持ちを抱いてしまった荒川、吃音があり思ったことを思った通りに伝えられないからこそ自分の非を認めることに慣れてしまったタクヤ。
私はどこかで、3人の関係性が元に戻ることを望んでいた。いや、元に戻らずとも、荒川とタクヤがいっそのことさくらを恨んでくれれば、私の気持ちはどんなに楽になったろう、と思う。
私は、自分に内在する暴力性に折り合いをつけられないことが昔からしばしばあって、いつだって誰かを傷つけた後で激しく後悔してきた。
私はいつだって、誰かを傷つける側の人間だった。
その事実と闘い続けているのが、演劇を始めてからの自分なのかもしれない。
(毎回終着点が演劇になってしまってなんか癪だけど)
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