この世にあるものは全て、言葉を持っている。
早いもので、前回の投稿から半年が立ってしまった。
(えっワープ?.....)
なんだかこうやって、何もなかったわけでもなく、でもこうして言葉にしなければ消えてしまう何かが、なんだか別世界のように自分の中に存在している。
コロナがあろうとなかろうと、時間は止まってはくれないし、我々の毎日は猛スピードで目の前を通過していく訳で、そこに何かがあったかもしれない時間も、何もなかったとあとで振り返るのでさえ誰にも関係はないし、そんなの他人の知ったことではない。
ふと、TVを見て思う。芸人や作家さんのように、書くように、ネタにするように生きている人たちと私の1ヶ月は、まるで別世界だ。毎日に何かあると思って過ごす日々と、無意識に過ごす日々は180°見えるものが違う。
そんなの自分でどうにかするしかない。
ともう一人の自分が囁いている。そうもう時代は2021年。
今、こうやって書いている時間もコーヒーのいい匂いが奥からして、うわぁ、これ誰かにも味わって欲しい〜って思うこの香りもこの気持ちも、あっという間に過ぎて行って残す術はないとおもうと、この世の中にはどれだけの情報と言葉と感情が渦巻いているのだろうと、もう私にはどうすることもできなくて落胆せずにはいられない。だからせめて、今日は書くと決めた唯一の時間に、書き留めている。
結局私は無力だ。
10年を振り返る。いつも何かに駆られて、何にも満足できない時間の方が多かった。
今がベストか?と永遠に答えのでない生き方をしてもがいていた気がする。ただ、毎日怒涛にすぎる日々が早くすぎれば過ぎるほど、日々のがむしゃら感が生きている心地をくれて、でも何かができた気がしなくて、立ち止まることもできなかった。無力さに駆られて時には失望した。
けど、それが20代の象徴でもあるのかもしれない。好きなことをただがむしゃらにしていた。ただそれだけ。
(我武者羅って言葉すごくないですか。英語だとGamushara。これは武士の心だな〜と思う。)
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とはいえ30歳になった私は今でも無力だ。
でも、明らかに違うことがある。
がむしゃらに過ごす中に存在する、刹那に混じる些細な一瞬に触れる時間を愛おしいと思えること。まさに今を、豊かに生きたいなと思えること。立ち止まって感じること。今を愛することができること。
そこに触れるからどうってわけではないのだけれど、間違いなくそこに豊さがあると信じている自分がいる。
結局のところ、今の自分を作っているのはその「敢えて触れるから感じる豊かさ」だと気づいたから。
時間は容赦無くすぎる。その無意識の時の流れを自分で感じること。言葉にしたくなる刹那的瞬間を知っていること。
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「この世にあるものは全て言葉を持っている」
この言葉が好きだ。
映画「あん」で樹木希林さんが演じる徳江さんが、どら焼き屋さんの店長さんへ宛てた手紙の一節。この役は本当に心えぐられるものがあって、おすすめ。
この世を見るために 聴くために生まれてきた。だとすればなにかになれなくてもわたしたちは わたしたちには 生きる意味があるのだ。と。
陽射しや 風に対してでさえ耳を澄ませば言葉はある。柊の垣根を越えてやってくる風にも言葉はある。今食べえているものにでさえ、着ているものにでさえ春があり冬があり雨の日も、ありここにいる。
全ての物事に、言葉がある。
これは映画で言っていた言葉だけど私は家族からこの原体験をもらっているんだと気づく。
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今私がしていることもそういうことなのかもしれない。そういう細やかな、気付こうとするから見える優しさだったり、豊かさだったり、結局のところ、敢えて触れなければ見えない美しさに触れた時、それが見えた時、人は心動く。それが私がつくる意味。
ないものをあるとするから見えるセカイ。気付こうとするから気づけるセカイ。見ようとするから見えるセカイ。
あなたは何に心をときめかせ、どんなセカイを見て、なにを聴いているのか。無意識を認識するだけでセカイは変わる。知ることは、自分の美しいセカイを広げること。
(なんかポエミーぽくなっちゃうんだけどなんで?)
今年は躊躇わず書きたい。私のみる美しいセカイについて。
2021年スタート。
終わり。
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