戦争遺跡について考えてみる。
事前知識が無く「戦争遺跡」と聞くとその曖昧さに疑問を抱くと思います。戦争遺跡の「戦争」とは一体どの時代からどの規模までを指すものか、そういった定義について改めて振り返ってみます。
時代範囲と扱う対象
現在、日本で認識されている「戦争遺跡」は明治時代から第2次大戦頃の遺構(軍事関連遺構、戦災遺構)、遺物(遺品)が合体したものを指すようです。内包する要素は多々あり、フィールドは陸上から水中。遺物は兵器の残骸や不発弾から生活食器、セルロイドの小片等々。遺構は要塞や飛行場等から工場、防空壕、民家の庭木に至るまで「戦争の痕跡を現在に留めるもの」が対象です。
戦争遺跡は、しばしば負の遺産として認識され、ダークツーリズムの素材として評価されてきました。しかし、よりフラットな目線で科学的に向き合う必要があると考えます。何故、悲惨であると言えるのか。何故、ここにあるのか。遺跡として認識するためにも遺構や遺物をより深く理解する必要があります。
近代の遺構を文化財として捉え直すという認識の変化もあり、保存活用が図られ、徐々に地域の財産ともいえる存在になってきています。しかしながら、依然として未調査・未周知の近代遺構の多くが人知れず消滅しています。遺構の評価に地域差があるのは否めません(温度差ともいう)。
※詳しい定義、分類、事例については『しらべる戦争遺跡の事典』(2002、柏書房)、『保存版ガイド 日本の戦争遺跡』(2004、平凡社)をご一読ください
”過去”の戦争遺跡と”現在”の戦争遺跡
また、「戦争遺跡」の語は戦中より存在していましたが、これは慰霊目的や戦訓として戦意高揚にも繋げるためのものであり、現在使用されている「戦争遺跡」とは別のものと言えます。もちろん現代でも慰霊碑や忠霊塔、忠魂碑は慰霊の場として認識されていますが、戦争遺跡を戦意高揚・国威発揚を目的としている方は恐らくいないと思われます。
戦場跡や軍事施設跡、戦災跡等を学術的に評価し、継承することが現在の戦争遺跡への認識と考えられます。
戦跡考古学の出現
以上に挙げた戦争遺跡の考え方を用い、科学的に見直す方法として「考古学」が使われました。1984年の沖縄での行政発掘、戦争遺跡を考古学的手法で解明し、事実証明する「戦跡考古学」が提唱されて以降、全国において少しずつ学問分野としての見地が広がっていきました。また、こうした動きの中では従来の遺跡の考え方に含められず、記録保存されないまま失われていった遺構や遺物の急増、戦争体験者の減少が背景にあり、より具体的な手法や定義、分類、考古学の時間幅を考える上でも現代までをどう捉えるかが注目されていきました。
さて、そもそも考古学とは具体的にどんな学問なのかと思われる方も多いと思います。考古学とは人類に係るモノを探求する学問です。各時代のモノを観察し、並べ直し、系統付け、時間的変化を読み取り、集団や地域性を考察するといった基本的な流れがあり、現在では様々な分野に裾野を広げています。この考古学を行うための手段の一つとして、遺跡を記録として残す発掘調査があります。戦跡考古学はこの考古学、発掘調査等の手法を応用して戦争遺跡を研究する学問分野になります。
近現代遺跡の持つ問題
現在の近世、近現代の遺跡として埋蔵文化財調査の対象となるものは「地域においてとりわけ重要なもの」と定められており、各自治体で遺跡としての考え方には違いがあります。
特に80年ほど前の第二次大戦の遺構、遺物は現在の調査基準でカバーしにくいことは当然のことであり、他の遺跡と重複することで記録保存が可能となったものや郷土史家、遺構探索を趣味とする方々によって辛うじて周知、記録されている状態にあります。また、このような従来の埋蔵文化財の考え方に含めにくいものに中世の山城(城郭)も挙げられ、歴史時代以前の埋文包蔵地の考え方のままでは必然的に漏れが生じるのは明白と言えます。
最近になって高輪築堤跡の問題を皮切りに文化庁より『近世・近代の埋蔵文化財保護について(報告)』が出され、近代遺跡への取り扱いについてようやく腰を入れ始めてくれたように感じます。しかし、こうした近代遺跡のほとんどは今まで不時発見が大体のように思うので遺跡範囲をどう決めるかなど難しそうです。