弟のこと(1)(きょうだい児と家庭不和と) *18
弟がいます。
私が障害者なので、「きょうだい児」です。
そして
“虐待されて育った” と思っているようです。
私は小学生の頃に膠原病を発症して、障害者になりました。
勉強も運動も1番
弟は、母から「お姉ちゃんは病気だから身体が悪いけれど、勉強を頑張っている。あなたは健康なんだから、勉強も運動も1番になりなさい」と言われていました。
小学生の頃まで、弟はその期待に応えようとしていたようです。
マラソン大会で1位になり、部活でいいポジションを取り。
母は満足しません。
マラソン大会で3位に落ちれば、「どうして1位になれなかった」
部活でポジションを交代させられたら、「次は必ず取り返せ」
「もっと勉強しろ、お姉ちゃんを追い越せ」
弟は、運動は得意でしたが、勉強はあまり好きそうではなかったので、パッとせず。
テストの成績が悪かったり、母の思い通りにならないと、怒鳴られて(叩かれてもいた?)泣いている弟の声に、私も隠れて泣いていました。
私は何度も母に言いました
「お母さんが言っていることは間違っている」「弟にヒドいことを言わないで」と。
父も「その育て方では潰れてしまう、やり方を変えないと」と。
父と私がどれだけ話をしても、母は「わからない」と言うのです。
「親に向かって何を言う!」と手を上げられたことは何度も。
話し合いにもならなかった。
母は変わらなかった。
勉強さえしてくれればいい
母は「勉強さえしてくれればいい」と私たちに言っていました。
そして、何でも先回りして世話を焼きます。
そのくせ私たちに「どうして自分でできない」などと言うのです。
一緒にやるとか、やり方を教えるとか、しない。
なのに、突然キレたようになる。
子供部屋の片付け(いつもは母が片付けている)を私たちがやらない、ということにキレて
ベランダに全ての物が放り出されていたことがありました。
私と弟は訳がわからなかった。
いつもは、学校から帰ってきたら部屋が片付いていているのだから。
「片付け」という習慣がなかったのだから。
その時は父が一緒に片付けてくれたのですが
私と弟は
“学校から帰ってきたら部屋が綺麗になっている”
“たまに放置されて、母がキレる”
の繰り返しで、一向に片付けの習慣がつきませんでした。
というか、父と母の教育方針が真逆で諍いが絶えず、私の体調がいつも不安定で、病院に担ぎ込まれることも多々ある、など落ち着かない状況に
私も弟も疲れ
“もう乱されたくない、考えたくない”
“何もしたくない、できない”
苦しい気持ちを抱えて、食べて、寝て、学校に行くだけで精一杯だったのです。
母は「勉強さえしてくれればいい」と言うくせに
「自分で身の回りの事ができないのは何でだ」と怒る。
言っている事とやっている事が矛盾だらけ。
“アンタがやってるから、いつまでもできるようにならないんだよ”
と私は世話を焼かれながら思っていました。
親のせいにしすぎだと分かっています。
30年以上経っています。
でも、私は今でも身の回りことが苦手です。
弟も、私と同様にできない。
というより、”どうでもいい”と思っているようです。
反発と家族への絶望
私へかけられない期待も上乗せされた、過剰なプレッシャーをかけられた弟は、当然、反発します。
中学生にもなれば、理不尽な事を言われ続けていることは分かるし、体格も大きくなって母は恐い存在ではなくなった。
いつものようにクドクドと言い続ける母を突き飛ばしたそうです。
そして、母にも父にも閉ざすようになりました。
無気力で、何も話さない。
ずいぶん大人になってから、弟がポロッと言いました。
「包丁を突きつけられた事もあったんだよ」
言う事を聞かせようと、母は弟にそこまでしていた。
私は弟がされている事は、全部知っている思っていました。母から私も同じ事をされているのだから、弟の気持ちも分かると。
私が弟を理解して、一緒に母に立ち向かっていこうとも思っていました。
だけど、それは違っていたようです。
弟は、私が両親からの関心と称賛を一身に受けている、と感じていたんだと思います。
私とも話さなくなります。
私は私で、壊れてゆく身体と、痛みの中で、母と闘って、余裕も力もなかった。
過保護なまでの母の世話は受けて、こちらからの問いには答えず、自分勝手な要求だけをするようになった弟に、私も話をしなくなりました。
きょうだい児と家庭不和と
私ができない分、親の期待に応えようと頑張ったり、
私にばかり親の関心がいってしまっていると感じて、自分の事を見て欲しいという気持ちが満たされなかったり、
きょうだい児の典型的な苦しさに加えて
父と母の争いで、さらに弟は追い詰められてゆきました。
弟は閉ざすことでしか、自分を守れなかった。
父も私も弟を助けることができなかった。
誰とも話せず、理解されないと感じる状況が続いて、弟は、家族に絶望していったのだと思います。