「兎の眼」
本を読んで考えぐるぐるした記録をnoteに残すことにしようと思う。
大それた理由などないけれど、ただ三日坊主な自分への戒めとして、
ここに投稿することでせめて本を読み血肉とする行為を習慣にしようと思い始めることにした。
題材はこれまで読んできた本とこれから読む本。
ジャンルは問わず。気が向いたタイミングで書くことにしよう。
誰のためでもなく、ただ自分が振り返るためのものとして。
最初に選んだ本は「兎の眼」。
●選んだ本
「兎の眼」(灰谷健次郎著・1974年)
●ジャンル
小説
●本との出会い
山西先生といつもの如く、研究室でお茶会をしていた際に、
ふと先生の口から出たように思う。
いつも先生は既読していることを想定して話を進めるのだが、大概読んだことがないので気になって、そして焦りを覚えて書物を手に取る。
だからこの本の何かに特別惹かれて手にしたわけではない。
けれど、不思議なタイトルが印象に残りふと手にして読破した際の、
自らの考えの浅はかさを見透かされたような衝撃が強く残り印象的な本となった。
●要旨/あらすじ
塵芥処理場近くの小学校に赴任した大学出の新米教師が、生徒・保護者・地域住民を巻き込みながら、
鉄三は、学校では発言せず、自宅ではハエを飼っており、「問題児」と学校関係者から評価されていた。
新米教師の小谷先生も就任当初は彼に畏怖の念を抱いていた。
けれど事件をきっかけに、小谷先生は鉄三やその友達、鉄三の育ての親であるバクじいさんと親交を深めていった。
その小谷先生の前にふと現れた足立先生という存在。
彼は世間が貼ったレッテルに惑わされることなく一人ひとりとの対話を通じて相手のことを知ろうとしていた。
その姿勢に小谷先生は戸惑いを見せつつも、勇気を出して知らない世界に足を踏み入れていく。
踏み込んだ先で見えた塵芥処理場の世界で繰り広げられる日常とそこに住むひとたちと小谷先生は絆を交わしていった。
●感想/考察
ひたすらに「何が正義なのか」と揺すられた。と同時に自分が無意識のうちに貼っているレッテル、それによって失うものの大きさにはっと気づかされた。
正義って何か自分が大切にしているもの、またその根底にある価値観と呼ばれるものの類。
一般に、「正義」と呼ばれるものは人間の数だけ多種多様であり、それらは決して否定されるべきものではない...と理想は語る。
しかし、実際に日々生きていると、日常生活の煩雑さや他者との関係構築への疲れから、気づけば自分の物差しで他者の「正義」を理解しようとしてしまう。
そして物差しは往々にして”常識”という名の下で大衆を味方につけ、他者を排除しようとする。それも無意識的に。
だから両者が「理解できない」「理解してもらえない」としてすれ違ってしまう。
これって本書に特有なことでは全然なくって、、むしろ日常の一部。
話を本書に沿わせると、、
塵芥処理場地域の子だから貧しい、みすぼらしい、といった世間(本書では保護者や一部の先生)の解釈と
親の職業や見た目に惑わされることなく対等に向き合う小谷先生や足立先生といった存在。
そんな中で、読み手でありながらこの物語の一部として入りこむと、
発言を一切せずハエを飼う鉄三の姿に問題児、あまり立ち入るべきでない存在と心が決めつけてしまっていた。
強く思いこんではいないから意識下に浮かび上がることはないけれど、
小谷先生が見せてくれた鉄三の正義やその正義を通じて見えた新たな世界を通して自分のレッテル貼りに気づいた。
あるべき教育を説いた本であるけれど、「教育」の場が学校や地域に限定されることがないように、日々生きていく上で築く人間関係にも直結する内容であった。