ずっと片方でしか生きられなかった私へ。
思い返せば、わたしの人生は、
いつも、本当の願いとは逆を、選んできたのかもしれない。
まだ、お母さんが元気だった頃は、
わたしは自分の願いに忠実な子どもだった。
当時、わたしが肌身離さず
抱きしめていたぬいぐるみのうさちゃんを
旅行の時に家に忘れてしまって、
うさちゃんがいないことに気づいて、
わたしがあまりにも泣き喚くから、
旅行先から家までお父さんに
取りに行ってもらったことがあるとか、
幼稚園に入ったのだけど、
勉強するのも、
お母さんと離れるのも嫌がるから、
幼稚園に通うのをやめさせてもらったらしいとか、
七五三で、着物が嫌と泣いて、
結局ドレスを着せてもらって撮ったとか、
どうしてもアニメ魔法騎士レイアースの
光ちゃんみたいな三つ編みにしてほしくて、
お母さんに何度も三つ編みをやり直させてたとか、
(セーラームーンじゃないところが我ながら渋い)
ジャイアンエピソードが尽きない子どもだった。笑
でも、お母さんが、病気になって、
そんな日常が一変した。
手先が器用で、少女漫画の付録を
いつも綺麗に作ってくれていたお母さん。
でも、具合が悪いことが多くなって、作ってもらえなくなった。
お母さんが商店街で
ディズニーランドのチケットを当てて、
お父さんと3人で、行けると思っていたのに
「お母さんが、元気になったら行こうね」
その約束は、果たされないままになってしまった。
病院に面会に行っても、
お母さんの笑顔が見たいのに、
抱きしめてもらって
お母さんの膝の上で話したいのに、
病院のベッドに横たわるお母さんを、
無菌室の壁の向こうから
眺めることしかできない。
それがわたしは嫌になって、
もう、面会に行くのも
「行きたくない」と言って、
車の中で待つようになったらしい。
「お母さんとずっと一緒にいたい」
当時のわたしにとっては、
それが全てで、
それさえ叶うなら、他に何もいらなかったのに、
1番叶えたい願いすら、叶わなかった。
わたしの願いはなんでも叶う、という世界は、
跡形もなく消えてしまったように思えた。
たぶん、そこから、
ほんとの願いをぐっと押し込めて、
逆を生きる人生が、
始まってしまったんじゃないかと思う。
本当は、さみしくて、さみしくて、
たまらなかったのに、
「さみしくなんかない」と、笑ってた。
本当は、もっと甘えたかったのに、
1番甘えたいお母さんがいないから、
「甘えたい」って気持ちを、私の世界から消した。
本当は、おじいちゃんとおばあちゃんのいる
知らない土地に、
引越しなんかしたくなかったのに、
お父さんと2人じゃ、
日中私が1人になってしまうから、
わたしが1番大好きだった
お母さんとお父さんの3人の家族の形は、
もう無くなってしまったから、
どうしようもなく、ついていくしかなかった。
本当は、全然、
大丈夫なんかじゃなかったのに、
助けて欲しかったのに、
「わたしは、大丈夫」って、自分に言い聞かせてきた。
強い私になりたかった。
「さみしさ」に、うっかり負けてしまわないように。
お母さんがいない世界で、
うっかり心が折れたりしないように。
本当は、可愛いものが大好きな女の子だった。
長い髪も、
ひまわりのたくさんついた真っ白なドレスも、
お気に入りのうさちゃんのぬいぐるみも。
でも、男の子に間違われるくらい、
長かった髪もバッサリ切って、
男の子みたいな言葉使いをして、
ボーイッシュな服を選ぶようになった。
本当は、ストレートのロングヘアがお気に入りだった。
でも、もう、私のお気に入りの三つ編みをしてくれる、お母さんはいない。
それなら、ショートの方が、都合がいい。
男の子みたいにしたからって、
強くなれるわけじゃないと、
大人になった今は思うけど、
当時の私にとっては、
可愛いものが大好きで、
甘えんぼで、か弱い女の子でいたら、
泣いちゃいそうだったから、
男の子みたいにすることで、
強くなれた気がしたんだと思う。
私は私の「弱さ」を、嫌うようになった。
本当は、
のんびりするのが大好きだったのに、
勉強も運動も、頑張って、
優等生として、生きるようになった。
お父さんを、笑顔にしたかった。
お父さんに、心配かけたくなかった。
私が優等生でいたら、
おばあちゃんも、おじいちゃんも、喜んでくれた。
私が、優等生で、
なんでもできる私でいようとしたのは、
きっと、
「私は、さみしくなんかない。大丈夫だよ」って、
伝えるための手段だった。
私が、弱い私を許せなくなった分だけ、
弱い人を許せなくなった。
弱い自分を押し込めてる痛みは、
同じクラスのできない子に向いて、
意地悪なことをしたこともあった。
目立っていたことで、
逆に自分がいじめられるようになって、
私が昔言っていた悪口とかをバラされて、
仲間外れにされてからは、
やったらやられるんだ、と心に誓って、
人のことを悪く言わない代わりに、
人を信頼しなくなった。
何かを思っても、誰かを傷つけるかもしれない本音は言わない。
だって、それがまた自分に返ってくるかもしれないから。
だから、何をされても、何があっても、笑っておいた。
簡単には、自分の気持ちは、話さなくなった。
私は、私の「黒い」部分を嫌うようになった。
だから、「白い」人であろうとした。
明るくて、笑顔で、純粋で、嘘がなくて、真っ直ぐで、
誰かを悪く思ったりしない。
それが本当の私だと思っていたし、
私は、「黒い」私を
どうすればいいかわからなくて、
いないことにしておいた。
気づけば、いないことにしておいたうちに、
いないことにしておいたことさえ、
忘れてしまった。
自分に嘘をつき続けて、
嘘をついてることすら、
忘れてしまった。
嘘がなくて、真っ直ぐな私は、
言いたいことを言っていたようで、
わたしは自分のことを、
本当は、わかっていなかったと思う。
そんなふうに生きてきたら、
ほんとに、自分がわからなくなった。
実家を出て、
家族のために勝手に背負った
優等生という仮面から解放されて、
自分の意思で、
本当の望みを選べるようになったように見えたけど、
自分の本音を押し込めてしまうクセも、
強く自分を押し込めるせいで、
表か裏か、
白か黒か、
0か100か、
極端な自分になってしまうクセも、変わらず、続いてた。
なんだかいつも、
自分を枠に当てはめて生きてしまう。
その枠から飛び出したいのに、
同時に、そこから出ることが、ものすごく怖かった。
長野の山奥から出てきて、
大学デビューの仕方もわからない地味な私は、
本当は人見知りで人と話すのが怖かったのに、
東京の私大に
わんさか溢れている
可愛い女子の中で相手にされず、
相手にされたくて、
必死に社交的な人を装っては、
いじられキャラやお笑いキャラをやってみたり。
本当は、ブライダルの仕事がしたい、と思っていたのに、
私なんかが受かるわけがないと、
受けることもせずに、
自分の夢を叶えることを諦めたり。
あげていったらキリがないくらい、
いつも、本当の望みは勝手にあきらめるか、
選べない状況を巧妙に作り上げて、
こんな人生つまらないと文句を言って、やさぐれて。
いつも、
「こんな私ではダメだ」って
その正反対の私でいられるように取り繕って、
私が外に出せなかった”ダメな私”は、
どこにも行き先がなくて、迷子になった。
本当の望みを自分で諦めておいて、
私が私を隠しておいて、
私の人生を思う存分生きられなくて、苦しい、
という壮大な自作自演劇場を、やってた。笑
でも、
自作自演なんて気がつけないから、
私が私でいられる理由を、外に求めた。
私が私でいる証が欲しかった。
強烈に、私が私でいるという証が。
私はそれを、恋愛に求めた。
だから、「私じゃないと、愛せない」くらい
難解な相手を、追いかけて、追いかけた。
本当は、女として見られたいのに、
ふたりで何度夜を過ごしても、
手を繋ぐことすらできず、
絶対に女として見てはくれない人を
追いかけ続けた結果、
その反動で、
女に見られたいという欲望が爆発して、
「色気こそ全て」みたいな
お色気承認欲求サイボーグに変身して(笑)
私を女として情熱的に
求めてくれる相手との
刹那的な恋愛に身を投じたりもした。
愛しすぎてボロボロになり、
愛されたくてボロボロになり、
瀕死状態で、心理学にたどり着いた。
心理学で自分と向き合い出して、
お母さんとの別れから、
ずっと封印していた「さみしい」を認めることも、
私の「弱い」部分も、「黒い」部分も、
認めることができるようになって、
少しづつ、少しづつ、もう1人の私も、
息ができるようになった。
自分の心の深淵に潜って、
これまで裏の顔として隠してきた
自分の「弱い」部分と「黒い」部分を
ブログに書く、
という私なりの自己表現も見つけて、
書いて、書いて、書いて、書くことで、
泣いて、泣いて、泣いて、泣くことで、
自分を取り戻していった。
その頃、私は
自分の上手くいかない恋愛の話を書いていて、
「見た目からは全然想像できないけど、
女のドロドロした情念のようなものが溢れている」
「文章だけ見るとヤバい人かと思ってたけど、
会ってみるとふわっとして優しかった」
などと褒められていた。
(褒められてる・・・よね・・・?)
多分、それくらい、
普段人と接する時に表に出してる私と、
ブログで表現する裏の私はかけ離れていた。
そんなふうに裏の私が
出せるようになったらなったで、
今度は、その裏の顔で、闇の中でしか
生きられないような気がしてきた。
「闇で美しく咲き誇ってこそ私」とか
「幸せになったら、こんなに人の胸を震わせる文章が書けない」
とか、自分に酔ったことを
その頃は本気で思っていたのだけど(笑)
だんだん、
自分が癒されてくると、
その闇が窮屈になってきて、
闇の中にいることに疲れるようになった。
同時に、恋愛カウンセラーとしての活動が
長くなるほど、
恋愛カウンセラーなのだから、
恋愛が上手くいってないといけない、
恋愛で悩んでたら、
恋愛カウンセラーとして選んでもらえない、
という縛りも自分にかけていって、
弱くて黒くて悩んでしまう裏の私は、
やっぱり、閉じ込めてしまうようになった。
それから少しして、
念願叶って結婚して、
恋愛に命懸けで生きて、
恋に胸を焦がすことこそが使命だと思ってきた私が、
人生で初めて、落ち着いてしまった。
私の恋愛カウンセラーへの情熱は、
恋に胸を焦がしてこそだったから、
そこで、私の中では自然な流れで、
これまでの恋愛カウンセラーの活動から、
体質改善の食事コーチに路線変更した。
元々、自分の
子宮筋腫や内膜症のために始めた食事法で、
かなり体調が良くなって、
毎日ジェットコースターみたいだった
メンタルが、別人のように安定して、
闇堕ちする回数が
圧倒的に減っていたのもあって、
私が私を縛ってきた
恋愛、というものからも解放されて、
これまで不幸の世界を生きてきた私から
生まれ変わって、
新しい光の世界を生き始めた。
と思ったら、今度は、
キラキラしていないといけない病にかかった(笑)
別名:『理想の私でいないといけない病』ともいう。
結婚もして、
パートナーシップの悩みなんて無くなって、
体質改善もして、健康になって、
毎日幸せしかなくて、
すべてが上手くいっています、って
私をやろうとしていた。
不幸な世界に住んでた
ネガティブな私は卒業して、
毎日幸せしかないポジティブな
私に生まれ変わったんです、
もう、過去の私とは違うんです、
と発信しているからには、
100%そうでないといけない気がした。
そんなわけ・・・なくね?笑
光の世界に住んだら住んだで、
今度は、闇の自分には
もう2度と戻ってはいけないと、
ネガティブな闇の自分を、結局、また隠そうとしてた。
パートナーシップも、
女の色気を武器にしたり、
大人の女として尽くしたりする恋愛で
ボロボロになって疲れ果てて、
結婚では、
女の色気は求められなくて、
無邪気な少女でいられて、
安心感と信頼感で一緒にいられる相手を選んだ。
そしたら無意識のうちに、
私の中のオンナを、
封印してしまっていたことに、
最近、気がづいた。
女の子か、男の子か。
優等生か、のんびりか。
強いか、弱いか。
白いか、黒いか。
光か、闇か。
成功か、失敗か。
少女か、オンナか。
いつも、
どちらかだけで生きようとしてきたけど。
どっちも、生きたらいいのにね。
むしろ、どっちもあって、私だから、
どっちも、生きないと、私は私を生きられない。
独学で心理学を
学び始めてからは10年以上、
心理カウンセラーになって7年くらい経つのに、
散々自分と向き合ってきてるのに、
「どんな自分も受け入れる」
「光も影もあっていい」
何万回も聞いてきたし、
伝えてきた。
それなのに、
気づいたら、
白か黒か、
どちらかの自分を嫌って、
どちらか半分だけで生きようとしてる、
影の自分を排除しようとしたり、
自分を枠に当てはめようとしてる。
こんなことの繰り返しを、
結局、
ずっとやってきてたんだって、
気がついてしまったのが、今です。笑
我ながら、本当にめんどくさいなあと思う。
でも、私は私の人生を、
めんどくさいなあとも思うし、
誇りにも思っている。
でも、もう辞めたいと思う時もあるし、
めんどくさい私を地中深くに埋めて、
全部上手くいく私になったんですって、
キラキラして、ドヤりたくなる時もある。
自分を隠してしまうことが悪いわけでもなくて、
偽りの自分がいるわけでもなくて、
いつのどの私も、今のこの私も、
全部、本当の私で。
ただ、それだけなのに、
それだけのことが、
受け入れられなくて、すぐ、迷い始める。笑
ほんとの私はどこ?
この私は、誰なんだろう?
ここじゃないどこかへ、行きたい。
でも、どこに行きたいか、わからない。
「これが本当のわたし」なんだと思っても、
気づけば演じていたり、
「これが本当にやりたいんだ」と思っても、
誰かの期待に応えようとしてるだけだったり、
私が、すぐに、わからなくなる。
しかも、厄介なのが、
今の私と、明日の私の本当が違うことも多々ある。笑
下手したら、もう、次の瞬間には、
変わってるかもしれない。
だけど、
いろんな私がいて、
いろんな私が生きていて、
それは、その瞬間、
私がどこをどう切り取って、
光を当てるかだけの話で、
変わって当然だし、
むしろ、変わっていいんだ。
私の願いも、私の思いも、私自身も。
でも、だからこそ、いつも丁寧に、
自分の声を聞いていないと、
あっという間に見失う。
今が過去になるたびに、
わたしが変われば、
本当も変わっていくから、
何が本当かも、
わからなくなるときもあるけど、
でも、やっぱり、それでも、
わたしはわたしを見つけることを、
諦めちゃいけないんだと思う。
何がわたしの本当なのか、
何がわたしの願いなのか、
今、わたしはどう感じていて、
今、わたしはどうしたいのか、
そんなふうに、
自分の声を聴くことを、
諦めちゃいけない。
いや、諦めてもいいんだけど。笑
でも、わたしが、
諦めたくないんだ。
だから、やっぱり、
わたしは、わたしのことを、
何度でも、知る必要があるんだと思う。
そして、今の私を、
何度でも、見つめる必要があるんだと思う。
本当はきっと、自分がわからないんじゃない。
わからなくなるほど、自分の声を聞いてこなかっただけ。
わからなくなるほど、見て見ぬふりをしてきただけ。
わからなくなるほど、他の誰かを優先してきただけ。
わからないことに、しておきたいだけ。
だから、これから、聞いていけばいい。
たとえ、今、この瞬間の私と、
明日の私が、違っていても、
何度でも、今の私に、聞いていけばいい。
わたしが何が好きで、
どう生きていたいのか。
何が幸せで、
どうしたら嬉しくて、
何が楽しくて、
どうしたら心地よくて、
どんな喜びを感じていたいのか。
わたしらしい、生き方って、どんななのか。
いつも、私のそばで、私をよく見て、
今この瞬間の、私の喜びのために、生きていく。
何度でも、私の声に、耳を傾けるよ。
何度でも、私の願いに、手を伸ばすよ。
私の全部を、私が受けとめるよ。
それが、これから、私がしたい生き方。
もし、同じように、
そうやって
自分の声を聴く生き方をしたいって
思ってくれる方がいたら、
そんな生き方を、どうやったら、
これからしていけるか、
一緒に考えて、描いてみませんか?
ちょうど、2024年の終わりに、
2025年のあなたと私が、
もっと自分らしく、
自分を喜ばせて、
自分の幸せのために生きていけるように。
12月18日(水)20時から、
「わたしらしい生き方発見セミナー」で
一緒に考えませんか?
詳細はこれから、
でも、とっておきの内容を、考えていますので、
楽しみにしててね♡
愛野ひと