てくてくちむたかのすけ8
2022.4月9日
前回のあらすじ
「これでラスト詐欺」がひどい。オタクに好物を語らせると止まらない。
というわけで前回は、メインの勝連城跡、の更にメインとなる三の曲輪から二の曲輪までを紹介した。
で、二の曲輪にある謎の穴をチラ見せて終わった。
ウシヌジガマという洞窟
沖縄では鍾乳洞や洞窟などの自然窟の事を「ガマ」と呼ぶ。この穴もガマというから人工窟ではないようだ。
有事の際のシェルターとして活用されたらしい。
このガマには面白い伝承がある。
なんと読谷村まで繋がっているという言い伝えがあるのだ。
この抜け道を通じて按司(城主)は逃げられるようにできていたというのだ。まさかやー!
読谷村と勝連の直線距離はわからんがGoogleマップが導き出した最短距離は19kmだった。
19キロも続くガマ……怖いよ。
ちなみに読谷村は紅芋の名産地だ。美味しいよ…芋。
しかーし!伝承は伝承であった!
残念ながら調査の結果、このガマは外部に通じておらず抜け道ではないことが分かった。なんとなく知ってた!
一の曲輪にある「玉ノミウヂ御嶽」に繋がっているという伝承もあるが、もちろんこちらにも繋がっていなかった。残念!でもなんとなく知ってた!
「繋がってたら面白いよね」とか、「ここから阿麻和利が逃げて生き延びてたらいいよね」とかそんな感じに人々の心を掻き立てる存在だったのかもしれない。
そう思うととても胸が熱くなるね。
一の曲輪に向かう階段は上がるにつれ幅が狭まっており、敵襲の際に敵がチンタラもたもたしちゃうように作られてるんだって。
どおりで登りづらかったわ!!(敵ではない)
敵ではないが、ヒールではある。
元々体幹の悪いバランス能力のない私が3センチの厚底ゴム底サンダルを履いてこの階段を登ったのだ(スニーカーは車に忘れた)
みんながスタスタ昇り降りする中、私1人が滑落の危機にさらされているのだった。
例の玉ノミウヂ御嶽
改めてお伝えするが御嶽(ウタキ)とは拝所のことである。自然にできた不自然な岩や森、貝塚跡などの小遺跡などが信仰の対象となったものと考えられる。
なのでこの玉ノミウヂ御嶽も尊いものだ。
でも、通称「タマチンの御嶽」とも呼ばれるらしい事を調べ物の最中に見つけた。
めっちゃゲラゲラ笑った。
心の中の小学生男児が顔を出してしまった。
しっかりしろ。
霊石の側の穴が先ほどのニの曲輪のウシヌジガマから続いているという噂。先ほど述べたように残念ながらこちらも繋がってはいない。
一の曲輪自体は宝物殿のような用途の建築があったのではないかと推測されている。
霊石はその宝物殿か何かしらの建物の基礎としても使われていたようだ。おいこら霊石つってんだろがい。
以上「のすけ記事」終盤を飾った勝連城跡の「グスク時代」の概要である。
勝連城跡にはそれよりも古い歴史が存在するのさ!
勝連城跡は、沖縄貝塚時代の終わりごろから集落だったとされている。
それ以降も人々はこの地に住まい長らく生活拠点として活動していた。
私が拝見したかったローマ時代のコインやさまざまな出土品は、まだ按司(城主)が支配する以前の海外貿易の品〜阿麻和利が滅ぼされた時代までのものが多数を占める。
しかし、貝塚時代のものと思われる土器なども出土している。
勝連城跡から遠くに見えるは神の島々を結ぶ海中道路。
この島や勝連の近辺では縄文時代の品が多く出土しており貝塚や集落跡も確認されている。
歴史はあまりにも古い時代から人の営みによって紡がれてきた。
平和、渡来して得た新時代、戦乱、興亡…その果てに我々があり、その過程でさまざまなドラマや英雄譚、神話が紡がれ受け継がれた。
きっとそれも一つの結(ユイ)なのだと思う。
結とは沖縄で尊ばれる精神の一つだ。
結びつきや助け合いを意味する。
古い時代に思いを馳せ、さまざまな浪漫にちむどんどんしながら〜〜
「帰りは裸足で歩こかな」と思うのだった。
本当に皆さん読んでくれてお疲れ様でした
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