人生は彫刻のようだと思った。
一人で歩くことが好きになった。
いつからか、知っている街でも知らない街でも、一人で歩くことが好きだ。
好きといっても、一人で歩いていてぱぁっと心が開ける事はまず、ない。
いける、がんばろ!と根拠のない自信から前向きになるのはむしろ友達と居る時で、一人で歩いている時は大抵の場合あることないこと色々と考えて、不安になったり、苦しくなったり、虚しくなったりする。
半ば自分を苦しめているだけじゃないかと思う時もあるけど、それでも一人で歩くことが好きだ。
宙に浮いているように、なんだか上手くいきそうと心が思うときももちろん好き。だけれど、一人の時に頭で考えてしまうことも好きなのかも。点と点を繋ぐように考えていって、気付いたら自分は何でこんなことを考えているんだろうということを考えていたりする。
なんだか最近、人の人生(まだ未熟で短い人生だけれど)は、まるで彫刻みたいだって思うことがたまにある。
大きな原石があって、彫って彫って、形にしているような気がする。
小さなときから今までの人生で経験したことも含めて、自分の得意なこととか、どうしても上手く出来なかったこととか、好きなこととか、あまり好きになれなかったこととか、自分が大事にしたいこととか、泣いたことも笑ったことも、全て蓄えてきた、軸みたいなものが原石としてあって。
そこから彫刻を自分で彫っていく。
「ふるいにかける」のではない。ふるいにかけてしまっては、そこに自分の意思はなく、何気なく振ってふるわれたものが残ったというニュアンスがあるから。
そうでなくて、彫って、彫刻にしていくときは、
自分が見る、自分だから見える物事の角度とか、
自分が頭で考える創造力とかで、自分の手で彫っている。
今くらいの年齢は、ちょうどその彫っている時期なんだと思う。むしろ、まだ彫り始めたくらい。まだ、彫り慣れていない。彫り手の自分が、自分自身の手つきに慣れていないのだ。
だからこそ、なぜかいきなり大胆にがっと彫ってみたくなって
「おっ、意外にいい感じ」となるときもあれば、
ほんの小さなひと彫りなのに、やけに緊張したり失敗したらどうしようと臆病になるときもあったり、
手つきがどうも不器用になる。
本当は、ちょっとくらい削ってしまったり彫り間違えても、
そのまま彫り進めたら、正直全然目に見えないくらいの傷だったり、
むしろその削り損じからまた新しい形が出来たりする。
それなのに、彫ってる最中はそうとも思えなかったりして、慎重になったりもする。
そもそも、自分の思う通りに彫って行こうと思ってること自体、
まだひよっこ彫り手の証拠なのかもしれない。
彫刻刀を当てた瞬間に、くしゃみが出たり、お茶目な誰かさんが後ろから驚かしてきたりして違うとこ削っちゃったり、
さぁ彫ろうと意気込んだときに停電になっちゃったり、脚立が傾いちゃったりして、一旦休憩になったり。
自分ではどうしようもないハプニングも、彫ってる最中に起きる。
そのことが分かっているようで、まだ分かっていないんだよなぁとも思う。自分で、この先の、スムーズに彫るタイミングや彫る場所を計画できると思っているし、計画している。
あ、おいっ、削れちゃったよ!笑
と、ひと笑いできるように、楽しめるように、
そんな彫り手になれますように。
削るといえば、そういえばこの前、どこかで鶏肉の削り節というのを見つけた。鰹節じゃなくて鶏節は初めて見て、こんなもの売ってるんだと驚いた。あれは、お出汁を取るためのものなのかな。そのままごはんにかけても、美味しそう。それでお醤油をかけて。お醤油といえば、同じところで透明の醤油も売ってた。透明の醤油って、見えてなくてかけすぎちゃうんじゃないかとシンプルに疑問に思う。
ということで、今回の一人歩きでたどり着いた考えの先は、透明の醤油ってどないやねんということだった。
ほらやっぱり。今日も、自分は何でこんなことを考えているんだろうということに行き着く。