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保守思想➁


 第2回は福田恆存

➀小林秀雄の葬儀

保守派文学界の大御所だった小林秀雄の葬儀は、さながら国葬のようだったという。小林は文芸評論家が出発点だったので、主な文学者や大手出版社の社長がすべて参列したのは当然だったが、大手新聞社の社長も全員、参列しただけでなく、政財界の要人やスポーツ・芸能関係者まで出席、テレビも報道し、偉人が亡くなったという印象を抱いた人が多かったらしい。

葬儀が済むと、小林秀雄が座っていた保守派文学界の大御所の席を誰が座ることになるかが、一部の人々の関心事となった。

その筆頭格は福田恆存だった。福田は思想的に小林に近かった上に、小林との関係も良好だった。小林の直弟子ではなかったのだが、小林の直弟子には意外にも保守思想家がいなかった。例えば、文芸評論家の中村光夫は直接の弟子だったが、近代主義者で保守ではなかった。

だが、文壇は福田が小林の座っていた席に着くことを認めようとしなかった。
その理由は何だったのだろうか?

福田は演劇の世界に深く関わっていて、すでに名声を得ていた。戯曲の芥川賞と言われる岸田国士賞を受賞し、劇場を建て劇団を組織して、シェイクスピアの翻訳までしていた。そして、それを芥川龍之介の息子の芥川比呂志に、自らの演出で演技指導まで行った。

文学界と演劇界とは関係が良くなかった。今はそうでもないのかもしれないが、当時は犬猿の仲だったらしい。したがって、演劇界の指導者である福田が文壇で小林秀雄の代わりになることは、文壇的にはあり得ない話だったのである。

②国語国字問題

福田は敗戦後、GHQによる漢字廃止の意向に異を唱えた。漢字廃止に反対したのは福田だけではなかったが、福田はもっとも、一般人への影響力があった。GHQは漢字廃止を断念し、日本語が仮名文字だけにならずに済んだ。これは福田の重要な功績のひとつだった。


③進歩的知識人批判


今でいうリベラル派の知識人を、当時は進歩的知識人とか進歩派の文化人と呼んでいた。知識人は圧倒的に進歩主義者だったので、福田の保守主義は少数派の意見として意味があった。


④後継者

西部邁は福田に対する尊敬の念を口にし、西尾幹二は福田の依頼で代筆を告白したことがあったが、この2人を福田が後継者と考えていた節はない。福田には息子がいて劇場を譲ったが、思想的には誰も後継者ということはできないだろう。 
 
福田の出発点は文芸評論家だったが、福田は晩年、自分が取り上げた作家を読む人の顔が深ばないと嘆いた。

 

⑤現在でも、読まれる。

福田の著作は現在でも読まれている。エッセイも、一見、古めかしくはあっても、今でも通用する光るものが感じられる。


お読みいただき、ありがとうございました。

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