9. to this little you
よく塗り込んでおいてくださいね、ともうひとりの先生は言った。毎朝晩の食後に服用するインライタの副作用で、手足が乾燥し皮膚がぼろぼろになるらしい。処方された保湿剤を手指と踵に塗ってみてから、入院用に買ったスリッポンを履いて洗面所に向かう。薬を塗ったばかりの手だけれど足の裏を触ったままにしておけない。病院のハンドソープは慣れない合成的な香りがする。香りが消えるまで流水でよく洗い流す。猫さんのいない真っ白いベッドに戻る。
とうとう点滴の準備が始まった。体温計を脇に挟んだまま血中酸素濃度を測ってもらう。血圧を測ってから、右腕に針が刺された。二人の看護師さんに見守られながら、生理用食塩水を数分間点滴後、病室に届いたキイトルーダがルートに繋がれる。針は腕に一箇所刺さっているだけだけれど、ルートを切り替えて二種類点滴できるようになっている。
五分後にまた血圧を測ってもらった。意外と早く三十分くらいで投与が終わる。残りの生理用食塩水を点滴しながら、もう一度体温と血圧を測ってもらう。緊張のせいか、針が刺さっていた右腕に筋肉痛のような痛みが出たくらいで、治療は無事に終わった。
これから三週間間隔でキイトルーダを静脈投与するらしい。入院は今回だけ、次回から外来で投与してもらうことになる。今までのお薬手帳とは別に化学療法専用の手帳と、常に持ち歩くようにとカードをもらった。「他の診療科を受診する時には、診察を受ける医師または薬剤師に必ずこのカードを見せてください」と書いてある。
抗がん剤は投与後しばらくの間、排泄物に残るらしい。最低二日間は使用後トイレの蓋をして水を二回流すように、ともらったプリントに書いてあった。トイレに行くと太ももに痒みを感じる。見てみると両側に少しずつ蕁麻疹が出ていた。夕食前のバイタルチェックのときに、何か変わりはなかったか聞かれたので報告する。診てもらったけれど、これくらいであれば問題はないらしい。食欲も変わらず、残さず夕食をいただいてから白湯でインライタを流し込んだ。
服薬はすべて管理されていて、一回分を看護師さんが持って来てくれる。以前から朝食後と就寝前に飲んでいる薬も、昨日のうちに全部預けてあった。八時頃に家に帰る彼からのラインと、ベイブリッジが青く光るのを待っていると、先に主塔の色が変わる。一度ブラインドを閉めてインナーを着替えた。パッド付きのキャミソールしか持ってこなかったので締め付けがあって寝にくい。
パッドのないインナーを着ていても寝付くのが苦手なので、心療内科でベンザリンとデパスを処方してもらっている。入院前は頓服としてデパスを飲んでいたのだけれど、今は看護師さんに預けているので眠る前にしか飲めない。サイレントにしているスマホが光った。手に取ると、やはりラインの通知だった。
「点滴は何も問題なかったよ。数日様子を見ないといけないんだけど、きっと早く帰れそう。元気だけどやることがないし、本もあまり読む気になれないし、早く帰りたい」
「いまのところ副作用は出てないんだね。本当によかった」
エレベーターホールでビデオ通話。彼はまだ食事前だから早く切ってあげたいけれど、猫さんに代わってもらう。
「おはようさん、うち調子でーひん。この小さいあんたも少し増えたらええんやけど」
「ごめんね猫さん。早く帰れるように頼んでみるでね。明日の夜も話そ」
「話したいちゃうねん。なんで、おれへんことになっとるのー」
こんな猫さんを見るのは初めてだった。私のほうがずっと猫さんを必要としていると思っていた。いつもと違う猫さんの様子に、心配でたまらなくなる。彼に会いたい、隣で眠りたい、画面越しでなく笑顔が見たい、というきもちと、猫さんに会いたい、直接話したい、撫でたいというきもちと。心配と寂しさが頭の中でぐるぐる回っている。
「猫さん、たくさん話していたね。怜(さと)ちゃんを迎えに行くまで、出来るだけ仕事しないですむようにしたから。明日は猫さんと一緒にいるし、朝と昼も話せたら話そう。今日は本当に治療お疲れさま。ゆっくり眠れるといいね」
「功(おさむ)くんも猫さんも、きちんとご飯食べてる?」
「たくさん食べているよ。でもすごく寂しい。三人の楽しさが忘れられないよ。昨日のピクニックも忘れられない。コーヒーを飲むと思い出して暖かい気持ちになるんだ。また一緒に食べようね」
「うん。昨日は本当に楽しかった。あれから白湯と麦茶しか飲んでないよ。蕪木のコーヒーが飲みたい。蕪木のディカフェ」
「両親は定期的に蕪木に行くらしくて、これからはうちの分も買ってくるって言った。帰ってきたらたくさん入れるから一緒に飲もう。それとね、蕪木のコーヒーが飲める店が馬喰町にあるんだって。ミナペルホネンがやっているpuukuu食堂ってカフェなんだけれど、行ったことある? 有機野菜をたくさん使ったメニューらしくて。怜ちゃん好きなんじゃないかなあ。退院したら一緒に行こうね」
普段は聞き役に回ってくれることが多い彼は、今日は多弁だった。私もたくさん話そうとするのだけれど、スマホに映る彼の顔を見ているだけで胸がいっぱいだった。