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生き物になるためのプロセス
追い詰められたジュエリー原型職人の私
私はジュエリーの原型職人の4年目だ。新卒でジュエリー会社に入社してから、自分の不器用さにひたむきに向き合いながらスキルを1から身につけてきた。何度も心は折れていたが、私は職人という仕事が最後の砦のような気がしていて、もう逃げる場所はないと思った。ここを辞める時は一人前になって独立する時だと考えていたのと、単純にこの世の中で生きるためには社会とのつながりがなければ生活を維持することが出来ず生き延びれない気がしていた。また漠然と、3年目くらいで慣れてきたら大学時代に学んでいた刺繍でアーティスト活動が出来たらと思っていた。
私は不器用だ。練習しても結局のところ目標時間(この会社では厳しく設定されている)をかなりオーバーしてしまいその日の仕事をたくさん残してしまう。余った仕事の処理は上司によるリスケや、別の優秀な職人に仕事が回される。基本的にいい人たちばかりであまり気を使わないでねと言われるが、結局のところ練習して早くならなくてはいけない。
それから物覚えが悪い。他部署の人の名前もすぐに忘れてしまうし、仕事の基盤となるような脳の仕組みが別の人間と異なるのではと考えていた時期もあり、心療内科でADHD(発達障害)という診断がついた。そのため他の人と同じ能力を手に入れたいがために薬を飲み続ける生活をしていた。
それでも肩身の狭い毎日を送り続けていた。上司や先輩に頭を下げ続けて、でもスピードだけはこの4年間であまり上がらなかった。もちろんスキルの数は身についてきている進歩はあるが、スキル数だけでは評価されづらい仕組みになっており越えられない壁を前にずっと立ち尽くし、周りに迷惑をかけ続けていると自己肯定感だけがどんどん下がっていった。
そもそも職人という仕事が向いていないのかもしれない。
1年目の時から全力でやってきたつもりだったが、自分の不器用さから今では全てが無駄だったのではと感じられる。会社の研修を受けてもなぜか毎回必ず涙が出てくる。『期待に応えられなくてすみません』と居づらさからくる無意識的な涙だったのかもしれない。
それでも毎日練習と生活に明け暮れながら必死に生き延びようとしていた。4年目になりたての時に初めて一人暮らしを始めたため、段々と仕事と生活のバランスを維持しようという気持ちになり、自分という人間が際立ち始めていた。1、2、3年目では遠い存在だった先輩たちとも最近は話が通じるようになり、この会社全体の問題も知るようになっていった。
自分の正体とは
そんな中今年の2月の頭、コロナにかかった。そしてたまたまその直前の休みに神保町へ出かけていた。なぜかというと職場の人からの後押しもあり、今年からは自分の本当にやりたかったことをしようという気持ちから刺繍作品のための資料集めのような形で本を安く手に入れたいという想いからだった。コロナにかかり、症状が落ち着いてきた頃、自分の部屋でその神保町で手にとった本を読み始めていた。そしてそれらの本はなぜか全て人類学的なもので、現代社会の問題が明るみになっていくようなものだった。また、藤本タツキ先生のチェンソーマンをアニメで観た以来気になっていたため最新話まで全てアプリで一気に読んだり、友人が勧めてくれていた映画を観たりして過ごした。
コロナから復帰後、職場の人からは後遺症の心配をされたり逆に気を使う毎日だった。確かになんとなく怠い日々が2週間くらい続いていたため残業はあまりせずに早めに上がることを意識した。早上がり後は本を読む時間やチェンソーマンの考察をしたりして日々が過ぎていった。
そんな中ふと、私は何者なんだという自分に対するミステリーを解き明かしたくなっていた。
私はそもそも親に愛されていないのではという問いが昔からあった。父も母も喧嘩が多く、昔からお互い寄り添うなんてことをしていないように見えて、私と弟に対してもそうだった。
しかし母の母性愛はものすごく感じていた。それから両親は自然を常に愛していて、子供の時はよく富士山や伊豆で山菜採りやキノコ狩り、釣りや、潮干狩りを娯楽として楽しませてくれようとしていた。当時はものすごく楽しんでいたと思う。ナマコやイナゴなんて始め絶対食べてやるかと当時考えていたが、実際夜中に小腹が空いて両親が美味しそう食べながら晩酌しているのに羨んで初めて食べた時、美味しすぎて当時の1番の好物になってしまったことがある。それから自然はいつもいい顔をしないのも無意識的にわかっていたため、そのスリリングな状況を含めての食材探しに確かな生きる喜びを得ていた。それもあってか私も弟も運動神経はいい方だったと言える。
なんとなく父は昔から苦手な存在だった。実家はマンションだが、部屋数が少なく私と弟の部屋はない。しかし父の部屋と仕事部屋(エンジニアをしている)だけはしっかり一部屋づつ設けられていて、なんとなく小学生くらいからずるいと思ってしまっていた。それから家族揃っての食事の時、父は部屋にこもっており呼ばれないと出てこない。母は私か弟に呼びに行かせるけれど、なかなか出てこない時に先に料理をつまんでいたらやっと現れた父にものすごい迫力で怒鳴り散らかされた。世間で言われる男社会の産物である頑固親父という枠組みなのかなと、子供の時から絶望していた。
また、中学に上がると急に自室からバタンッとドアを思いっきり開く音とともに勢いよく現れ、居間で寛ぐ私たちに対し、「今何をしているんだ、今すぐ勉強をしなさい」と怒鳴るように言われ続けた。中学の時から弟は弱々しくなっていった。今思えば自分と葛藤していたのだと思うが、そもそも父が他人に寄り添うこともせずにこんな厳しさをぶつけてくる意味がわからなかったのが私たちの頭を悩ませた。
高校生の時、父からお金をもらうことを引け目に感じたため、バイトで貯金をしながら美大に行くことを夢に見た。当時の美術部の宮崎多美子先生からは本気な評価をされてきたし、全国大会でも安定的に賞を取り続けたし、美大こそが本当の居場所を教えてくれるだろうと考えていた。
初めて美大に行きたいと言った時にはものすごく怒鳴られた。お前は女だからそんなお金をかける必要はないと言われ、私は悔しくて反撃の言葉を繰り返した。何度も強い言葉を使い続けた。反抗期だったと思うが、単純に父という存在が昔から許せなくてその集大成的な怒りをぶつけていたのだと思う。その本気な態度を一時は評価してくれていた時期もあったが、父は父で意思を曲げず、学費は全て奨学金とバイト代で賄うことを条件に私は念願の美大に進学することが出来た。
そして美大ではテキスタイルを専攻し、刺繍作品で卒制を作り、今のジュエリー会社の職人に至る。
会社に入社後、2年目でコロナ禍となった時、母親は実家で狂い始めていた。おそらくストレスからくる精神的疾患だと思うが、統合失調症という病名がしっくりくると私は認知している。実家での生活が居心地の良い弟からすれば災難のように思えて仕方がない。弟は母に怒りをぶつけ続けた。水をかけたり、廊下と居間の間の扉を塞いだり、罵声を浴びせ続けた。母は母でネットの誤情報に踊らされ、コロナや地震や異常気象は人工的に作られたものだとか、ただそれを言っているのは家族のためだといい続けた。私も始めは弟と一緒になって言葉が全然通じない母に対抗したが、それを続けていると狂ってしまいそうだった。何が正しくて何が悪いのか、何も考えることが出来なくなってた。そんな中父と話しているとなぜか少し安心できた。父は冷静に今の状況を理解しようとしていた。「俺は何かいけないことをしていたんじゃないか」と弱音を吐くこともあった。私はただ毎日の地獄絵図が我慢できずに、遂に実家を飛び出し、一人暮らしを始めた。
私は結局見えない何かと常に戦っていたなと思い出すことが出来た。そして結局自分が何者なのかわからない状況で26年が過ぎていたんだと思い出した。まだ努力し続けようとするが、果たしてその努力の方向は合っているのかなと考えた。そして今の会社、国のことにこのまま貢献していて本当に正しいのかなと疑問を感じだした。
父親の正体とは
父と話したいとふと閃いた。
コロナになったことは伝えていたが、元気になったということを伝えるために一度会いたいと思った。私が今自分が置かれている状況に疑問を抱いていることと、この世の中、無意味な命はなく、どの国も今の会社も結局何を目指しているのか見えないという意見も言おうと思った。また、最近の気づきである、大学時代専攻していた刺繍は母が私が幼い頃に刺繍を勧めてくれていて、不器用だったが小さなクロスステッチのキットを完成させた時の達成感のようなものが忘れられずにいたため無意識に受け継いだものだと伝えたかった。また、料理も、母がお酒を飲みながら楽しそうに作っているのを見てきたからかちゃんと受け継いでいるのも。
父の人生はおそらく私よりも少ないことはわかっているから私という1人の人間としてやっと自立できそうだということを知らせて安心させたいと思った。
父と実際に会って話したら今までの壁のようなものが一切取り払われたような感じがした。今の世の中の混沌とした状況下で出口を探していたもの同士だったからなのか、または血の繋がりというものなのか、この世界の秘密をすんなり理解してしまったもの同士となり、まるで親友みたいに意見を言い合える仲になってしまった。急に別人になったみたいと驚かれたが、父もおそらく別人にさせてしまったかもしれない。
また、私はスピリチュアル的な話を父に話した時に、怖いこと言うなよと震えるような仕草をされた。
「実は俺のお婆さんが韓国で葬式に400人以上の人が出席した霊媒師で、実は俺の両親は韓国人で俺も100%韓国の血が流れているんだ」
私はその言葉にものすごい衝撃を覚えた。父は豊臣秀吉による日本の侵略によって生きる幸せを求めて日本にやってきた両親を持った韓国人であり、父は父で幼い頃は言葉が通じずよく虐められ、生きづらかったという。パチンコ店に昔よく行っていた記憶があるのは両親が日本人にパチンコ店でしか働くことを許されず、父にとっては両親が働く場所だから気持ちが落ち着く場所だったのだろう。母は異国差別をする人だったため父の両親とも会いたくないからと一切の関わりを切っていた。私たち子供にも父が日本人ではないことを絶対に秘密にするよう約束させたり、京都にいる父の親戚とは会わせたがらなかった。
また、血の繋がりのある霊媒師について気になったため沢山話した。その霊媒師は60か70で急にその力の存在に気付いたという。仏のような人で彼女の作る料理は全て極端に美味しく、インスタントラーメンでもなぜかとても美味しかった記憶があるという。そして急に目覚めた力によって多くの人を救い、事業の成功などに導いていたという。それからそこにお金の繋がりはなく、お金を受け取りたがらなかったという。「なんで婆ちゃん、お金受け取らないの?」という父の問いに対して、「これはただ人助けのために好きでやっているから良いんだよ」と言っていたという。ただ救われた人は彼女に農作物などを贈り、生涯たくさんのご縁が結ばれ葬式に参列した400人以上に繋がっているという。彼女の苗字は柳であり、リュウという響きで呼ばれていたかなと思い出すように父は教えてくれた。父によると私たちの新井という苗字はおそらくその霊媒師がつけた名前で、新天地日本で、韓国にもあった井戸による暮らしができるようにという願いが込められているのではという。一方父の名前である「ヒロシ」という名前に関しては両親が適当に日本の芸能界の五木ひろしからとったものだというが、お婆さんはいつもの仏のような姿から一転、「なんでそんな無意味な名前をつけたんだ」と怒鳴ったという。
柳の木や井戸から幽霊を連想し、近づきたくない気がするのはもしかしたらその霊媒師のつながりから来た韓国人を日本人に差別されてしまったからなのではと考えた。それから今までのスピリチュアル的な経験から連想が連想を生み私は初めて自分の正体を知った気がした。
私は愛されていないなんて不必要な思い込みに過ぎないと感じた。
新井という苗字には今ではしっかりとした意味を感じられるし、その霊媒師との繋がりによって愛情が感じられる。愛奈という名前だってそもそも愛という字があるし、父が響きがいいからという理由で付けてくれた名前だった。母からは料理や裁縫の技術を受け継いでいる。私は何者なんだという問いは父の正体が日本では隠されてしまっていたためにわかりづらいものになってしまっていただけだったのだ。父も私も弟もただ素直だっただけであり、母は日本社会での女性の生きづらさを抱えながら、天皇という権力に憧れ、人間という生き物として本能に素直というだけで狂ってしまったのだった。幽霊の存在をテレビのバラエティ的な娯楽として母は楽しんでいたが、実際に私が見てしまったかもしれないと言い出すとそんな話やめてと怒鳴られる。あんなに拒絶する母の育った環境はいったいどんなだったんだろうという気持ちが今は強い。
ジュエリー業界の行方
そして人間はなんて醜いのだろうという感情も湧いてきた。ジュエリーの会社に勤めているのは人間というものが単純に好きだからだと日々感じているし、不器用でも物を作ることは祈りを捧げることに似ていて気持ちが落ち着いていた。原型職人で全ての工程には携わることが出来ないがカタチにするという行為が私にぴったりあっていたのだと思う。しかし今はなぜか貴金属というものがとても憎いような気がしている。いくらでも傷つけたとしても修復可能であり、サイズ直しで切って繋げた接続箇所がわからないほどに仕上げられ、しかもそれは当たり前のように永久無料サービスとされ人間社会における永久不滅の象徴である。職人のありがたみを感じられている人は多くいると思うが、やっている本人からしたら何も生きている証が残せていない時間ということになる。ただ会ったことのない人へ当たり前に扱われる思いやりだけでものを新品同様に修復することなど、本当は差別的であり、あってはならないと思う。
お金という物質に限らず貴金属は結局持ち主の権力の象徴であり、どんなに精巧な手仕事によって生み出されたものであっても、結局現代社会では格差を生み出すものだと思う。
傷つけても傷つけても無料でまた綺麗に新品みたいになってしまう物質は人間が人間だけで、明日戦争や、老人に轢かれてつまらない死を遂げるかもしれないとか考えずに生きのびれてしまう人間が惑わされ続けるあまり良くない物質のように思える。
ものを作る職人のありがたみではなく、自分たちがただ人間社会で金という物質に惑わされ、自分たちの人生が便利に成り立っていればそれでいいという表れこそが、この結婚指輪というモノではないのだろうかと考えだすようになっていた。人生は一度きりで、人を無意識のうちに傷つけてしまったりやり直しがきかないものであるからこそ、人は毎日モノという存在をありがたく使えるのではないだろうか。
この当たり前にキラキラと綺麗な顔をした変幻自在な物質は人を惑わせるのだと思う。
金の価値が世界的に高騰しているがなぜそれでも金の結婚指輪が売れ続けているのか。これはこの世界の全ての人間にとって本当に必要な物質なのかというのに疑問を抱くようになっている。
世界の国、会社でSDGsが広まる今、本当は扱っている素材に対しても疑問を抱かなくてはいけないと思うのだが、私は気付いてしまったこの問題をお金のやり取りの繋がりである社会を通して伝えることが難しいと感じている。ただいつか社会で貴金属では無い指輪の選択肢が一般的に増えたらいいなと感じている。
学生の時までアートの世界に私は居場所を感じていたが、そもそも世界的に評価されるアートとは何なのかという問いが最近初めてわかったような気がする。あれは世界平和のために在るのだと今でははっきり感じられる。
私が幼い時から母は、神は天皇しか知らないから私は天皇だと言っていた。でも単純におかしいと思っていた。神ってなんだろうと思ってきた。宗教や神話が世界にはたくさんあるが結局は何?と思ってきた。最近読んだ本で、明治時代の知識の巨人と言われた生物学者・南方熊楠は生き物はひと繋がりに流れるようにして出来たものでそれぞれの種が神の休止点としてのカタチだということに気づいていたという。そして日本では豊かな森が神とされてきたようだ。だから神社は自然の中にある。自然との多様性こそが神と呼ばれていたようだ。
現在多様性の社会を尊重する動きはいいことだと思うが、認識はずれていないか、心配になることがある。発達障害なんて言葉は今の日本の社会で生きづらくなった人が増えたために障害という表現をされてしまっただけで、実際この人たちがいなくなってしまったら、さらに生きづらく感じる人が出てしまうのではないかと思う。
結局人間という生き物は全て同じような形をしていて、性別により少し形が違い、感情が豊かでいろんな発音ができる。それぞれの国での文化を大切にしようとする気持ち、人間臭い思考回路や、劣等感、豊かな想像力、認知下に置かれないそれぞれの癖、他人ばかりを気にする癖、それぞれの環境下で職業や立場に生きがいを持って生きている。同じ地球上にある生き物を食べて生きている。地面に農作物を植え、山へ食べられる山菜を摘みに行く。狩りの文化は薄れたが同じ動物を育て食べて生きている。結局人間はみんな同じで、言語や文化に皆違いはあれどオリンピックでの競技でのひたむきな姿や音楽による表現力、絵画や彫刻などのアートによって感動は生まれる。
私の心は現在アートの世界に置かれている。同じセクシャリティを持つ母から無意識的に受け継いだ刺繍や料理で何か伝えることが出来ないかとそれで頭がいっぱいになってしまう。
社会の繋がりはご縁の繋がりであってほしいと願っているが、私は今会社の人全員を信じることが難しい。しかし少しずつ身近なご縁を広げていこうとも考えている。この気持ちを誰かにわかってもらいたい。