貴方解剖純愛歌~死ね~#1【インスパイア小説】
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あの頃は自分の未来に希望なんて何も見いだせてなかった。別に辛いこと があったわけじゃない。超えられない壁にぶつかってたわけでもない。
例えばそれは美しい夕焼けを見ても何も感じない状態とでもいうか。生きるってこんなもんだろう、なんて変に達観してたのかもしれない。自分がいかに狭い世界にいるのかも知らずにね。
あの頃君と出会わなければ、今でも僕はそんな風に考えて日々を過ごしていたかもしれない。当たり前の日常を送れることが幸せなんだってこと。人を愛すること。愛するがゆえに傷つけてしまうこと。誰かを思い涙すること。協力し合うこと。
君が僕に与えてくれたもの。僕はどれくらい君に返せただろうか。
初めて君を目にしたあの日、僕の新しい人生の針は動き出した。だからあの時のことは、今でも昨日のことのように鮮明に覚えているよ。
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窓際の陽だまりの下にいた為か、はたまた食べすぎた昼食のせいか、どうやら睡魔に襲われたらしい。目を覚ますといつの間にか4限の講義が終わっていた。僕は白濁した意識の中、しぶしぶ5限の教室へと移動する。
東館の外に出ると、老朽化した旧校舎を建て替えるための工事車両が解体を進める音が、けたたましく耳に鳴り響く。新年度を迎えたからではなく、僕が入学してからこの二年の間、様々な場所で同じような工事が行われている。
100年以上の歴史を誇るこの大学では、建ててはは壊しということを何度も繰り返してきたのだろう。その度に実際に利用する学生たちに感謝されてきたのだろうか。少なくとも自分がその恩恵を受けている実感は全くなかった。
以前にワイドショーのコメンテーターが、道路工事などの公共事業は税金の無駄遣いだと、辛辣なコメントをしていたことを思い出す。
大きな欠伸が出る。ふと顔を上げると雲一つない真っ青な空が広がっていた。こんなに気持ちよさそうな天気なのに、毎日毎日机に向かい頭に入らない講義を受ける。どこに向かうかもわからないのに、何を学べばいいのだろう。
頭から袋を被せられたかのように急に息苦しくなった僕は、パンツの中のスマートフォンが震えてるのに気づいて我に返った。
「ほんと昼間は気の抜けたビールみたいだねぇ、この街は。何か面白いことでも落ちてないかね」
オーバーサイズのトレーナーにスキニージーンズとスニーカーを合わせた竜馬が、コロナビールを片手に気だるそうにつぶやく。
「そりゃ、この時間じゃ準備中の店も多いしね。そもそも竜馬が急に5限さぼるぞとか言って、俺の事拉致るからだよ」
僕は広場に集まっている鳩に、ちぎった菓子パンを放りながら答えた。
「お前だって助かったみたいな声で、割とノリノリで来たじゃねーか」
「今日はあれ以上講義聞いても、すべて子守唄にしか聞こえなさそうだったから」
「今日は、ねえ」
竜馬がにやけながら疑いの目を僕に向ける。
「まあこうして昼間から堂々と酒飲んでいられるのは、リストラされたサラリーマンか俺らみたいな大学生くらいだよな。ウプッ」
一気にビールを飲み干した竜馬がゲップをした。
「汚っ。てかリストラされたサラリーマンは堂々とは飲めないだろ」
「違えねえ。おし、もう一本買ってくるわ」
そう言って竜馬は近くのコンビニへと入っていく。
僕は竜馬が戻ってくるまで街にいる人たちを眺めた。耳に携帯電話を押し当て頭をペコペコ下げている、スーツを来たサラリーマン風の男性。大きなキャリーケースを引きずる若い女性に声を掛ける黒服のスカウト。水商売をしているのか、きらびやかなドレスにピンヒールで闊歩する女性。
目の前に広がる光景が、現実ではなく、スクリーン越しに見る映画のワンシーンのように見える。僕は首から下げた一眼デジタルでその光景をカメラに収めた。再びぼんやり眺めていると、いつの間にか買い物を終えていたのか、突然竜馬が僕の肩を小突いた。
「おい、あれ見ろよ」
竜馬の視線の先を追いかけると、年の離れたカップルが広場の前を通って行くのが見える。眼鏡に整えられた口髭を生やし、スーツをピシッと着こなした、いかにも余裕がありそうな年配の男性。
その隣をクールな表情で歩く、僕と同年代くらいの女性。ナチュナルで控えめな化粧だが、はっきりとした目鼻立ちのおかげか輪郭がぼやけることなく、真っすぐな黒髪が風に靡いて凛として見えた。カーキのブルゾンに淡い桜色のフレアスカートは化粧とも合っていて、おじさんウケは間違いなさそうだ。
「おうおう、いいなああのおっさん。あんな自分の娘くらいのカワイイ子連れて、明るいうちからヤリまくりですか。いくら払ってるんだろうな」
「え?」
何が?という顔をした僕を見て竜馬が答える。
「お前まさかあれが純粋なカップルとか思ってないよな?あんなん、パパ活かなんかに決まってんだろ」
「パパ活」
もちろん言葉は知っているが、自分とは無縁すぎて、今視界に入れている二人が、その言葉を体現してるということが上手く理解できなかった。
「何?お前も羨ましいと思うだろ?」
黙って見ている僕の横からしたり顔の竜馬がこちらを覗く。
「俺は別に」
「お前本当に女性関係に疎いもんな」
女に困ってるのを見たことがない竜馬は余裕そうに言う。
「そんな興味ないかな」
「へぇー、蒼にとって女はただの被写体の一つでしかないですか。あ、森川だ!」
突然竜馬が僕の後ろを指差した。
「え!?」
思わず振り向いたときには、やられたと気づいたが既に遅かった。
「ばーか。何慌ててんだよ」
「はあ?ふざけんなよ。慌ててないし」
その言葉とは裏腹に、心臓の動きが早まっているのがわかる。
「あらー?女には興味ないんじゃなかったかなあ?」
「知り合いがいると言われたら普通向くだろ」
「知り合いねえ。でも片思いの子なら尚更気になって見ちゃうか。なあ、好きなら自分から押し倒すくらいの勢いで行かないと、いつまで経っても成就しないぞ」
「別に森川さんとどうこうなりたいとかないからいいんだよ」
とうそぶいたもののその言葉には力が入ってなかった。
「ぶっちゃけ蒼は彼女欲しくないわけ?」
「いいよ、そういうのは。デートのこと考えたりとか、束縛とかあったりしたら厄介だし面倒臭そうじゃん」
「あら?でも想像はするわけだ」
竜馬がニヤリと横目で僕を見やる。
動揺を隠すために竜馬を無視し、先程のカップルに視線を戻す。なにやら男性の方が彼女の腰に手を回し、ホテル街の方へ誘おうとしてるように見える。
彼女のほうは嫌がってるのか後ずさりしてる様子だ。それでも男性はお構いなしでしつこく連れて行こうとしている。ここからでは何を話してるかまではわからないが、男性の方が説得しようとしてる様子だ。
「お、トラブってんのか?」
竜馬が先程買ってきたハイボールを喉に流し込みながら、野次馬根性でニヤニヤとその様子を眺めてる。僕も黙って成り行きを見守った。
二人の押し問答がしばらく続くと、しつこい男性に痺れを切らしたのか、突然彼女の怒鳴り声が聞こえてきた。
「マジキモイんだよおっさん!」
その声と共に、彼女は男性の顔面に向けて、拳を振り上げた。僕にはその光景がスローモーションの映像に見えた。なぜだかわからないが神々しく美しいと感じた。そして、無意識に僕はカメラのシャッターを押していた。
顔面をグーパンで殴られた茫然自失の男性を置いて、彼女は堂々とした足取りでその場を引き返していく。そのまま彼女はこちらに向かって歩いてくる。
「やべ、蒼こっちくるぞ」
竜馬が慌てて、横を向いて僕と雑談してる風を装う。女性はそのまま僕らの横を通り過ぎていく。僕は竜馬に顏を向けたまま、視線だけ彼女に送った。一瞬だったが遠目で見るよりも幼く見え、年齢は僕らと変わらないくらいに見えた。
「やることエッグイなあの女。でもなんかスッキリしたわ」
RIZINを見終わった後の感想みたいに、少し興奮した口調で竜馬が言う。
「……うん。やっぱり女は厄介だよ」
太陽が西の空に沈んでいく。街全体が昼間とは違う猛った光を徐々に帯び始めていった。