街が彩る季節が近づく中で
Tomokiです.気がつけばお布団から出るのが億劫になるくらいの寒さになってきた.廊下に出るのさえ寒くてびっくりしてしまう.寒いというだけで支障が出ることを思い出す.体の動きも鈍くなってしまいがちだ.
毎年夏を過ぎるとなぜか季節が急に時が早まったような気がする.祝祭が増える季節だからだろうか.今年は感染症が若干弱まってきて少しずつ祝祭性が増してきたせいか,過ぎ去るのが早くなってきたような気がする.だんだんと街も彩られてきて,イルミネーションが増えてきた.そんな祝祭の中で色々考え事をしながら毎日生きているので今日はそんな話.
日々生きることを考えている気がする
なんだかんだnoteを書いてるうちに,自分が書きたいと思うことや伝えたいと思うことはなんだろうと思っているうちに,それはきっと「生きること」についてだなという結論になった.何か問いがあって答えがあるなら,書く記事は1記事で十分なはずだ.何度も毎週のように書いたり,伝え続けるテーマとしたら,きっと簡単には答えは出なくて,考え続けるしか方法がなくて,それでもつい考え続けてしまうことだろうとなると,僕の中では「生きること」になってくると思う.
それはnoteのために考えているわけじゃない.noteには定期的に書くと決めているだけに過ぎなくて,その頻度も毎週だから,理性や論理や需要なんかを読んでいる余裕なんて少なくとも僕にはない.できるとしたら毎日考え続けてることを,どうにか言語化して,拙い言葉にして送り出すしかないんだと思う.
それだけ生きることについて日々考えている気がする.特に日常の中でふと触れる人々の息遣いを感じると,色んな人が色んな日常を歩んでいることを強く認識される出来事が多い.そして,それは祝祭の中で強く感じることが多かったような気がする.
祝祭の中で「生きる意味」について考える
僕は小さい頃からお祭りが大好きだったような覚えがある.近くの神社の縁日には必ずと言っていいほど遊びに行っていたし,花火の音がすれば外に飛び出して音がする方角へ突き進んでいったような覚えがある.商店街の屋台にも向かってお祭りで賑わう雰囲気を感じることが,どこか嬉しくて,幸せに感じていたように思う.
きっと僕は昔から楽しそうな雰囲気に囲まれることが好きだった気がする.周りの人が笑顔でいてくれることが何より僕にとって嬉しいことだった気がする.だから,自然と誰かを喜ばせることが僕の中で喜びになっていったんだろう.
それは今でも同じで,変わったのはその捉え方だ.祝祭に色んな考え方で,色んな経緯で交わった人々が,色んな捉え方や価値観の中で,それでもその空間を共有して幸せそうにしていることについて考えたりするようになった.それはきっと当たり前で,奇跡のような瞬間なような気がする.普段交わらない人々が偶然にそこに集まって,空間を共有して,ひとつの世界になる瞬間が,とても暖かく感じて,好きだ.
そんな世界を幾つも感じていく中で,僕はそんな世界を作っていく仕掛け人としての立場がとても魅力的で,いつかそんな空間を作れるようになりたいと願うようになったから,きっと僕は色んなアートをやっているんじゃないかと思う.
祝祭の中では1人1人が芸術家だ
きっと,あの楽しくて暖かくて幸せな世界を作っているのは,決して祝祭の企画者だけじゃないと思う.来場者に楽しんでほしいと思う企画者はもちろん,そこに賛同した出展者と,そこに飛び込んだ参加者によって成り立っている.だからきっと,あの場にいる人々全員が参加して作り上げたインスタレーションなんだ.
それはまるで一人一人の想いが作り上げた美しい作品だ.だからきっとそれを僕が奇跡だと思うのも当たり前なのかもしれない.一瞬一瞬が移り変わる絶え間ない瞬間芸術だ.生い立ちも環境も考え方も好みも違う人々が重なり合って,プラスの感情が高め合ってあの場を良い空間たらしめようとしているのだと思う.
そんな社会彫刻を作り上げる力が僕らにはちゃんとある.僕ら全員に石を削ったり,木を割ったり,金属を溶かしたり,絵を描いたりする能力が乏しくたって,何かを創りあげる一員になれる.そんな空間を誘発させてくれる祝祭性が僕は好きなんだと思う.参加者全員を素晴らしきアーティストへと導く社会彫刻を作り上げるために,僕はもっと色んな生き方についてずっと考えていくのだろう.
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