見出し画像

出来事の背景にあるもの|子育て


| 出来事 (表面)

「早くしないと遅れちゃうじゃん!」

小6の姉から小1の弟へ、結構な頻度で発せられるきつめのフレーズだ。@登校前の朝

この場にいつも居合わせる母としては、なんとなくお姉ちゃんが一手に責任を引き受ける、みたいなのが漂うのもなんだかな〜と思い、手を差し伸べてみることにした。

私がやったのは極めて単純なこと。
お姉ちゃんに対して、
「先に行っていいよ」
「あーたん(弟)が遅れたとしても、その責任は本人が取れるからね」
こんな感じの2種の言葉をかける、だった。それを事が起きるたびに優しく繰り返す。これだけ。

そして、どうなったか。

今のところ、お姉ちゃんの選択は変わっていない。1回くらいは先に行ったような記憶だが、その程度。
イライラしながらまくし立てるのは、少なくなったものの、続いている。

たまに、弟の方から「もう!行っていいのに!何で待ってるんだよう。」と、ため息まじりの一言が漏れる。

が、依然としてお姉ちゃんは待っている(笑)そして、起きてから出掛けるまで「早く!」とか「やばいよ!」を放つ。

ここからは、この結果だけ見ると何も変わっていないかのように見える出来事について、その背景まで広げたらどうなるか?考えてみたい。

画像1



| 背 景 (水面下)

背景( 人や事件などの背後にあるもの。また、背後から支えるもの )
水面下( 物事の表に現れない部分 )

広辞苑

お姉ちゃんは責任感が強い。素晴らしいことだし、育んであげたい部分。でも、そんないい面が、時に自分自身を苦しめることがある。責任感が大きくなり過ぎて、一人で背負うとか抱え込むところまで膨らんでしまう時だ。いつしか過度の忍耐や犠牲感へと繋がることもあり、それらが積もり積もると、突如、怒りや悲しみとして放出される。今はなくなったが、爆発に近い状態になることもあった。
出せるだけいいとは思う。でも、できればこの衝動性は成長するにつれ落ち着きを帯びた方がいい。また、長所として活かすためには、作用の偏りが極端に出ないようバランス取る術を学ぶ必要がある。
彼女が壊れてしまわないように、母として寄り添い見ていてあげなければと思っている。

| 背景を踏まえてできること

では、このループが起こった時に、母にできることは何か?

一つに、選択肢を広げるためのアプローチがあると思う。それが、冒頭の「先に行っていい」とか「責任は本人が取る」という声かけの部分にあたる。

この言葉は、おもに2つのメッセージ性を含んでいて、

1)手段は他にもあり、それを選ぶことも可能だ!ということ。

2)自分は本来どこに対峙すればいいのか、一旦考えてみて!ということ。もう少し具体的に言うと、自分でコントロールできる「自己課題」と、相手にしかコントロールできない「他者課題」とを分けて捉えてみること。



| どんな効果が想像できるか

では、それによりどんな効果が望めるか? は、おもに次の3つを想定した。

1)余裕が生まれる可能性
他の選択肢を認識することで、余裕が生まれる気がする。ちょっと肩の荷がおりるというか。選択肢を広げることは、手段が増えることでもあるので、安心感が増すのもいい。
責任感という名のもと、知らず知らずのうちに自らをがんじがらめにし、身動きが取れなくなっていたり、視野が狭くなる傾向にある。そういう状態では上手く回らないので、そこからの脱出、みたいな。

2)自己選択を意識する可能性
先に行ってもいいという別の選択肢を見せることで、「自ら」待つを選んでいることに気づけるかもしれない。言い方は悪いが、誰も頼んでいないのに自分が待ちたくて待っているのだ。自己選択であるという自覚をした時、感じ方や行動がどう変化するか。

3)考えをもう一歩進められる可能性

意見を投入し、ふと考える瞬間をつくることは、もう一歩考えるに繋がるのでは。


その上で、何を選ぶかは、彼女の選択に委ねる。私は、ここを尊重するのだ。

決して背負った荷物を無理に奪ったりはしない。その荷物を下ろすも下さないも彼女が決めることに意味がある。私が下ろしてあげることは即効性がある代わりに、自ら実行する力が育ちにくくなってしまうと思う。だから、私にできることは、選択肢を広げるアプローチまで。選択から結末までの一連を味わうことを最重要視すると、そこが境界線のような気がする。

実際、私の一言でハッとして、考えたり迷ったりした様子があり、行動にもちょっとした変化が見られた。

ここが大事なのだ。

表面的にはさほど変わっていないように見えても、水面下では揺らぎが生じている。心が動く瞬間がある。それこそが価値なのだから、そこを見逃してはならない。

結果だけで判断せず、プロセスを大切にしているのは、この所以。

やっぱり今はこれでいい。自分の選択を信じる気持ちを強くした。

| 別の角度から見てみる

ここで、ちょっとした検証も兼ねて、一つだけ別方向から考えてみたい。あるシュミレーションをしてみる。

お姉ちゃんが、イライラしながらも依然待つという選択をした時、私が彼女に対して「イライラするなら先に行けばいいのに!」のような声掛けをしたら、お姉ちゃんはどんな気持ちになるだろう。(感情的になると、こうなることありますよね〜)

[背景]責任感を持って弟の面倒をみてくれているし、そのお陰で助かっている。落ち着いて考えれば感謝すべきこと。にも関わらず、[出来事]彼女に対し怒りを向けた。

彼女は、
悲しむかもしれない。
責任感にヒビが入るかもしれない。
意欲を損なうかもしれない。
自分を責めるかもしれない。
_色んなことが想像できる。

事情はどうあれ、これでは本末転倒ではないか。

要は、本当はいい面だし育みたいと思っているはずなのに、これでは相手は否定された気持ちになってしまいそうだ。それも繰り返すほどに心に刻み、長所が歪んでいってしまう可能性さえもある。

届けたいことが届かない。というより、むしろ真逆のメッセージレターが相手のポストに届いてしまう。

なんと無念な。これは嫌だな。

冷静さを欠くと、やりがちだな~という内容で一つのシュミレーションをしてみた。どうやらこの方法を取ってしまうと私が導きたい方向にはいけそうにないということ、その導線が改めて認識できた。

| 結 び

母も人間だ。間違うこともあれば、感情的になることもある。人間としてそれも必要な営みだと思う。ただ、こうして書き出してみると、俯瞰して見ることの価値を感じる。そして、背景を見ることの重要性も。(上に書き出してみただけでも、案外色々あったものね〜)

出来事は、川の流れに喩えれば下流のようなもの。日常では、アクセスしやすい下流にばかり視点がいき、そこで反射的に判断しがちだが、それでは上手くいかないことも多い。何故ならば、流れのもとである上流部分、たとえば人も事柄も色んな繋がりの上で成り立っているとか、その関係性は水面下で複雑に絡み合っているとか、そういった背景を汲み取れていないからだ。であれば、そこからの理解を深めれば、きっと何か違うものが見えてくるはず。

ある意味、出来事は背景の要約みたいなものかもしれない。なんだかそんなふうに思えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?