変わらないということは変わり続けること
以前、ある作家先生が「前はこういうやり方だったけど、それではうまくいかなかったので今はこうしている」を語れないようでは専門分野を語るにまだ足りないので、まだその分野では本を書いたり人前で話す資格がないというお話しをされているのを聞いたことがある。
自分の考えややり方を変えることを後ろめたく思わなくなったのはコロナ禍だったのではないかと思っている。しょうもない自粛や行動制限などに無念の日々であったが、当たり前は通用しなくなり特に仕事においては思い切った方向転換が必要になり、変えないといけないことが増えたように思うが「こうあるべき」とか、これまで「良かれと思って」やってきたこだわりのようなものを手放すには、これほど良い機会はなかったようにも感じている。
変えること、変わることをここまで怖がらないようになるとは自分でも思わなかったけど、ずっと追い求めやり続けていると、前はそう思ってたけどこっちの方に今は落ち着いている(その方が成果が出るので)ということにもなってくるのだと思う。その時はまだわからなかったり、そこに辿り着けなかったわけで、それはいえば未熟ということではあるのだけれど、そこを通らないと今には辿り着けなかったわけで、その自分を恥ずかしいとかダメだとかいう気持ちはあまり出てこないようである。だから変わるということは、これまでも考えてきたから、とも胸を張って言えるような気がしている。
自分の考えを信じて疑わないことは可能性を失い固執してしまう可能性もあるように思っていて、それよりも自分の考えを自分こそが疑い続けることの方が良さそうだ。それは今でさえ、この先行き着くであろう過程に過ぎず、この先も考え続けるということだと思うからだ。
まさに方丈記のあの一節のつもりである。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。 よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」
今日の自分は昨日の自分とは違う、明日の自分とも違うのだろう。それは難しいことではなく細胞レベルで毎日生まれ変わっているという意味でもそうなのだから。自分の考えを信じて疑わないよりも、それを考えた自分こそが疑い続けることの方が大事なような気がするのである。