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【要約記事】『日本的感性: 触覚とずらしの構造 (中公新書 2072)』・後編

※この記事は、以前投稿したリンク先の記事の続編です。


 この著書の後半部において問題にされているのは、「われ」と世界の関係および時間意識の表現である。前半部では語彙や「私」の心情の投影について中心的に論じられたが、後半部では本歌取りに代表されるような「語のずらし」、「時間関係の表現のずらし」が中心的に論じられる。本記事では字数の関係上、個々の作例を見ていくことはできない。本記事が対象とする読者は、この本の概要について知りたい人たちである。


「わたし」は透明で不定形


 「われ」と「世界」の関係については、心と物の認識の仕方が問題になる。通常の場合、両者は別個に存在していると考えられている。特に、「寄物陳思」は物に心を投影する表現だということはすでに述べた。しかしながら、「心の表出としての歌」ではなく「美しい物を歌により類型化し捉え方を造形する」のだと藤原俊成は述べている。しかしながら、このモデルでは俊成が述べたように「心はどこにあるのか」が循環論法により不明瞭になってしまう。その答えとしては、西行における月と桜の歌の分析があるだろう。対象を見つめるうちに、自分の身体や「これを感じている」感覚がなくなり、自らは「透明な鏡」と化す。しかしながら、西行の場合は「桜に心を動かされる」ことでその透明さが乱される。このように、観るものと同化する、すなわち世界による「わたし」の「染め上げ」が原書の認識としてあるのだ。例えば、川の水音と月の光の「清らかさ」は、それを感ずる私を浄化するものとして受け止められた。また、「たゆたう」の分析も同じ章で行なわれており、揺れる思いや「今ここ」への意識がこの語の特徴であると述べられた。このような定めなさや頼りなさは、超越者を持たない日本的感性の典型だといえるだろう。

身体を起点にした空間の見渡しと、時間的持続について


 日本的な空間把握の形態として、「中景」を省略して近景と遠景を繋ぐ傾向がある。西洋の透視画法と大きく異なるのは、中景に「霞」を配置することである。この技法で可能になるのは、広い場所を「見渡す」ことである。これに代表される「~渡す」動詞こそ、空間的「広がり」と時間的「持続」に対する日本独特の捉え方を示している。近景と遠景を繋ぐ「見渡し」には、そのまなざしに関心や各人に迫る独特の起伏が含まれているのであって、身体的近景が視野としての「遠景」を切り出すことで「望遠鏡でのぞいたような遠景」と一線を画す。

天の「めぐり」は規則的、人の「めぐり」は不規則




 身体的な運動である「めぐる」は天体の規則的な運動も意味するようになり、「巡り会い」などの人の営みと運命を重ねる歌から、「あちこちを訪ねて歩く」人の不規則な「さだめなさ」を詠む歌まで現れた。この「たよりない・さだめのない」人事と、それでも「月の巡り」のような規則性と、その介在を願う枠組みは、数多くの歌で対比されて関係づけられることになる。

においの時間意識


 未知を過去の経験、すなわち既知と結びつける我々の感性は、不変と変を対比させる挽歌や、廃墟(都の跡地)などの物質的な残像と変わらない自然を対比させる歌として現われている。また、プルーストの例を引きつつ「実在が物質に受肉しにおいと味という触手を以てはたらく」と考察している。これはマクルーハン(※)も「時間のにおい」と名付けた論点である。また、このようや時間的想像力の顕著な例として「思い遣る」という動詞を「過去を思い起こし未来に思いを馳せる」時間意識だと述べている。

※次の米印にいたるまでの箇所は、要約とは本来関係がない箇所である。筆者による身勝手な考察を含む。

 そもそもわたしがこの本を手に取ったのは、触覚の哲学的問題について興味を持っていたからだ。西洋触覚思想において、触覚は「諸感覚をまとめ上げる感覚」とされてきた。この流れに位置するメディア論の大家、マーシャル・マクルーハンは主著『メディア論』(もしくは『人間拡張の原理』)の「時計」の章にて、時間意識を記憶に関連付けて次のように語っている。

 時計が発明される前、世界の中で最も統合的な時間感覚を持っていたのは中国と日本である。なぜなら、十二支などに香を結びつけ、時間を嗅覚によって把握していたからである。我々の記憶は嗅覚が支配しており、その強い関与性と喚起力によって、西洋において「ワキガ」は忌み嫌われるのだとマクルーハンは述べている。これらの言説が正当なのかはともかく、時間と嗅覚について言及した例は私の知る限りでは他になく、ましてやメディア(人工物)と時間意識・嗅覚を結びつけた言説は例をみない。※

この本で最も好きな箇所からの引用


(引用箇所)夜の美とは、光の美である。光の美という言葉を聞いて、ひとが思い浮かべるのは太陽光線に相違ない。アポロンやアウローラ(曙光)を象徴の核として、西洋における光の美学は太陽の美学である。しかし、太陽光は身の回りの物体のかたちを浮き彫りにして、ひとを生活の営みに導く。それにひきかえ、月影は、物の姿を背景に沈めて、それ自体が観賞の対象となる。しかもそれは殆どの場合、われわれを包む雰囲気の美である。ましてや、漁火や星影においては、その光の点に世界が結晶する。物の姿かたちから解放されることは、生活の煩いを忘れることである。夜が想像力の時間である所以である。(p.195)

屈折した時間意識から生まれた批判的・反省的意識



 懐旧の情は、過去の記憶に粘着する反省的時意識である。「主語を省略できる」日本語は、極めて文脈的で個人の時間意識が反映された言語である。特に、「そのとき、~は、~となることを知らなかった」などのような語りには、過去を「過去から見た未来としての現在」から眺め、また歌を詠む現在を「未来から見た過去」として捉える複雑な時間意識が働いていると著者は主張する。このような時間意識だけでなく、「春が来たと思ったら朝空に霞がかかっているように見えた」という紀貫之の歌のように「解釈が世界をつくる」など「意識に対する意識」のような反省的意識が、西洋よりも早い段階で古代日本に芽生えていたことが示される。また、歌枕に対する批判的意識も芽生えており、象徴的なものによって実世界に美を見出すことができることが発見された。その一方、個人の特殊な経験が歌の典型となることに対する批判も西行によりなされた。このような批判的意識すなわち感性が知性へと超出するとき、「花と紅葉」のような象徴的表現がつくれだされる。筆者は「倭ごころ」を詠んだ本居宣長の歌をこのように評している。

「ずらし」とは何か

 想像力は記憶の襞に染み付いた像を文脈を変えて移し替えることだが、これは経験と知識に左右される創造の力を意味する。「ずらし」の想像力として著者が挙げたのは定家の歌である。本歌取りにおいて、語の関係をずらし、組み直すことで新たなイメージを探ろうとした。このような「ずらし」を行う場所こそ、世界とわれわれのインターフェースとしての感性である。これを著者は、「われわれを包み、そのなかでわれわれが生活しているような世界に関わり、その世界を直接的に理解し、それを変形して別の世界を構築する」精神であるのが感性であると述べている。激情により色と匂いから恋愛を想起した業平の歌は、感性の惑いを示している。この歌では、客観的現実をとらえるバランスが崩れ、月や梅の香りなどの直接的接触を確かめようとする業平が描かれている。しかし、激しい感情の起伏が、世界の変化を深く感じ取った。これにより、「わたし」に向けられた内省的意識から感性の惑乱をうたうことに業平は成功した。

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