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パリ 25ans Aout

2 aout, 7 pm au Forum des Images 

8月に入り、パリの街中は住民のほとんどがバカンスに出発し、この時期閉めてしまうレストランやお店の窓が白く塗られ閑散とする。入れ替わりに押し寄せる観光客でシャンゼリゼやオペラ座界隈や観光名所はにぎわう。それでも、休みが取れなかったパリ市民のために、パリ市主催の野外映画やイベントがあちこちで開催される。

「クロサワを見よう」といってフォーラムデイマージュに行った。黒澤明の映画だと思ったら、黒沢清監督の「CURE」という映画だった。私は名前も知らなかった監督の作品に、会場が満席なことに驚いた。役所広司演じる刑事が出てきただけで懐かしく、久しぶりに日本人による日本語の日本の映画を、フランス人だらけの会場で見ているのが不思議だった。普通のありふれた日本の日常が、サイコな連続殺人事件によって非日常に変わっていく。途中Yuanは耳に近づいて「さっきなんて書いてあったの?」とか「あの看板どういう意味?」とか聞いてきた。110番のポスターに「あの番号何?」「警察を呼ぶ時の番号」と答えたら、「へえドイツと一緒なんだ」とごちゃごちゃ話しかけられて、誰もが催眠術にかかったように殺人鬼に変わっていく、残酷で異様なシーンの恐怖さえ薄れてしまった。
映画が終わると、Yuanは会場で知り合いを見つけて話し始めた。最初私は遠くから見ていたけど、呼ばれて紹介されて、日本人としてどう思うか聞かれた。「怖い内容だけど、日本のテレビでよくやっているサスペンスものみたいで、ものすごく異常とは思えない」というと、日本人はこんなホラーが当たり前なのかと、日本アニメの暴力表現に話がいってしまった。

うまく伝えられなかったけど、日本の日常をパリの映画館で見ると、感情を表に出さない淡々とした話し方や、同じスーツを着た人の群れや、役割に徹した夫婦関係とかありふれた情景ほど、異国的で不自然さを感じた。対照的に、殺人という凄惨な情景のときだけ、その人の本当の内面や感情が表現されたような、ほっとしてしまう違和感があった。日本にいるとき、私もあんなふうに平穏だけど、なにか得体の知れない空気に抑圧されていたのかもしれない。学校を出たら、就職をして、結婚して、こうあるべきという姿が決まっていて、そこにあてはまらなければ、ドロップアウトするしかない。私は大学を卒業して就職をしたけど、半年でストレスからひどい帯状疱疹で1週間入院した。なんとか1年働いてお金をためて、留学という逃げ道をつくった。今私がいるのは、先のわからない、執行猶予期間のような時間なのだと思っていた。

「面白かった!」「怖いけどいい映画だったね」「うん、すごい監督だと思う」彼はよい映画を見るといつも上機嫌になった。「うちにくる?」「今日は帰る」「C'est vrai? ほんと?」「明日、朝早く学校の友達とシャルトルに行くの」「え、いいなあ」「Yuanは仕事でしょ?」「そうだけど、残念」Fontaine des innocentsのところで、つないだ手を離そうとしたら、彼は反対に引き寄せて顔を両手でやさしく包み、長く息がとまりそうなキスをした。後ろで冷やかす声がしてもかまわず、何度も味わうように。「j'y vais行かなきゃ」「ほんとに?」「早起きしてモンパルナス駅に行かなきゃいけないから」最後にぎゅっと抱きしめて、「またね」そういって別れた。

一人になると、自分が孤独であることを強く感じた。どこからか長くのばされた手に掴まれたような出会いから、未来もなく、過去もなく、今とつながっているのは自分だけだった。何があっても自分から離れないのは自分だけであること、他人とこんなふうに関わって初めて気づいた。

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