「人生の100のリスト」を8割達成してみて
仕事にあきた。人生にあきた。自由にあきた。
そういう人は多いのではなかろうか?
結論から言う。
私の「人生の100のリスト」を8割達成してみて、感想は「あきた」です。
20歳の時、ロバートハリスの「人生の100のリスト」を読み、青い妄想を膨らませ、自分自身の100のリストを作った。
本気で考えた。本気で考え抜いた。やれるやれない関係なしにやりたいことを書き出した。
76個までしかどんなに考えても出なかった。適当に追加しようとしたら雑なものはいくらでも出るのだが、私には追加することができなかった。考えすぎたせいだろう。
曲がりながら考えすぎた結果、77個目は「死ぬ」になった。
やりたいことに対して、フットワーク軽くお金に糸目を付けず手を出してきた。
時間・お金・体力というリソースを100のリストにつぎ込み一つ一つ達成してきた。楽しかった。
気が付くと、作成から7年たった現在多少の追加もあり、70/86個は達成してしまった。
残りの16個は「死ぬ」も含め、時間がかかるもの、生涯を通じてやっていくことが残された。それは今後も時間をかけてやっていくつもりだ。
しかし、短期的な、お金・時間・体力のみで達成できるものはやりつくしてしまった。
今後も突発的にやりたいことが降ってくるかもしれないが、達成できることは目に見えていて、”人生を通して”というような面白味は存在しなくなった。
あの時、あれだけ頭を振り絞って、熱を持って考え抜いたやりたいことが、単のお金という媒介を通じると、とんとん拍子に達成されていく。
仕事に関しても、情報にあふれている現代、先人たちの攻略本を使いながら戦略的に行動する。大概のことは要所を抑えることができ、なんとかなっていく。
面白味を求めるのであれば、自分で切り拓いていく攻略本を使わない楽しみがあるかとは思うが、小心者な私は本を読まない選択肢はない。
一昔前だったり、他の国に生まれていたりすれば、こんなたった7年程度で達成できるものではなかったように思う。
短期的に達成できたことは環境要因も重なり、非常に幸運だった。
だが、それと同時に、無気力になってきた。詰まるところ、あきてきた。
20歳の私が、本気で考えたものはこんな簡単に達成されてよいものだったのか?
自我の増大した私からの認識ではなく、客観的な目線で達成感よりも喪失感のほうが大きかった。
目的は追っている時が楽しいというようなことは、よく耳にするがそれはそうなのだろう。
100のリストはあくまで形式上のものであって、100以上あってもいいのだというネットの記事を見る。
100のリストを増やしていき達成していくという、ゲーム感覚的な楽しみはあるのだろうが、私に関していえば、短期的なリソースをつぎ込めば達成できるものに関しては、全く意欲が湧いてこない。
そこで敢えて達成できるものをリストに入れて達成感を感じることは、むしろ下品に感じる。
定期的に眺めて、熟慮の末多少の追加はできたが、大幅に増やしていくことは性格上難しかった。
20歳のアホの私が作ったリストのため、当然と言われれば当然なのだが、
達成した自分が素晴らしい人間であるかとは限らない。
達成することが人間を成熟させることには必ずしも繋がらない。
達成した状態が幸せであるとは限らない。
このことが非常に身に染みてわかった。
100のリストを作成しやってきてよかったとは思う。リソースの割き方が明確化され楽しく生きてこれた。
しかし、あくまで自分のためのやりたいことリストであるため、これらを達成した先に何かがあるわけではない。目的を達成してきただけだ。
大きな目的のための目標100のリストではなく、目的100のリストだ。
そのため、楽観重視の快楽的な欲求に沿った項目は達成感と同時に、先が見えない、想像できないため虚無感や「あきた」と感じてしまう時が多分にあった。
それも含めて非常にいい経験だったとは思うのだが、なんにせよ虚無感を感じて辛いので、今だらだら考えたことをここに残しておく。
この虚無感、「あきる」感覚への対応策として、2パターンの考え方ができる。
1.自分視点から他者視点へ切り替える。
2.目的と目標を混同させること。
1.自分視点から他者視点へ切り替える。
「あきる」というのも現象ではなく、個人の感情に起因するものである。
「あきる」ということに関して調べてみたところ、3つの言い回しがある。
「飽きる」「厭きる」「倦きる」いずれも「飽きる」という意味を持つ言葉ですが、微妙なニュアンスの違いがある。
環境要因である「飽きる」
外部要因である「厭きる」
内部要因である「倦きる」
いづれも個人の視点から発せられるものであることがわかる。
個人の感情を排し、他者視点で物事をとらえることで、この「あきた」という感覚をなくすことができる。自己欺瞞感に陥らなければ最高の一手だ。
他者のために生きようとすれば、確かに「あきる」という感覚を無くすことができるだろう。
自己は存在しないという仏教的な考え方とも親和性があり結構好きだ。100のリストを作っている時点で煩悩まみれなのだが、そこには目をつぶってほしい。
2.目的と目標を混同させる
よくあるビジネス書では御法度のことを書いてしまって申し訳ない。
正確には、「達成してしまった目的を目標へレベルダウンさせる」ことが必要なように思う。
いままで達成してきた目的を皿に並べて、その経験から新しい目的へ料理していくということだ。
100のリストを作った人ならわかるが、どうしようもないものも出てくる。私のリストにも「髭を生やして仕事をする」という達成した後に何になるんだというようなものがある。ただ、その当時はやりたいと思っていたから仕方ない。現に今は髭を生やして仕事している。
それを達成し、どう料理できるかも考えていければ虚無感が少ないように感じる。
まだ、この目的を料理するには私の技量が足りない。
まぁ、なんにせよ。
達成した自分が素晴らしい人間であるかとは限らない。
達成することが人間を成熟させることには必ずしも繋がらない。
達成した状態が幸せであるとは限らない。
これには変わりない。
なら厭世していくのではなく、せめて楽しく生きていこうと思った。
最近厭きるのも、飽きてきた。
それには、他者視点と目的と目標を混ぜ合わせていくこれで、当分は生き延びていこう。また、厭きてきたら考えよう。
「人生はあき(飽き・厭き・倦き)との戦いだ」
この言葉には全くの同意である。