家庭内葉っぱのフレディ ~DF~
あなたの部屋に観葉植物はあるだろうか。
我が家のリビングには、ある。いや、正確には「いる」。
名前を持つ観葉植物、パキラの「パキ男」である。
彼が我が家にやってきたのは、夫が九州かどこかの地へふるさと納税した際の返礼品としてだった。当初、私は「室内に"土"が存在しているのが嫌」という理由で、観葉植物の導入にやんわり反対していた。だが今では、パキ男はすっかり部屋の景色に馴染んでいる。
それでも、時には「でかいな、邪魔だな」と思うこともある。しかし、不思議と彼を眺めてしまうのだ。パキ男は葉っぱを通じて、毎日さまざまな「表情」を見せてくれる。
青々とした新芽が葉と葉の隙間からひょっこり顔を出したかと思えば、古株の葉が日に日に黄色くなり、気づけば床にポトリと落ちている。そんな小さな生命の営みを見つめながら、私は彼を心の中で「家庭内葉っぱのフレディ」、略してDF(Domestic Freddy)と呼んでいる。
「葉っぱのフレディ」とは何か?
言わずと知れた名作だと思うが、念のため解説すると、『葉っぱのフレディ - いのちの旅』はレオ・バスカーリアが描いた絵本で、生命の循環と死の意味を優しく教えてくれる物語だ。葉っぱのフレディが四季を通して生を全うし、やがて土に還ることで命の一部として役割を果たす――その過程を描いている。
確か小学校の道徳の教科書に載っていた記憶がある。
暇さえあれば国語や道徳の教科書を片っ端から読み込むマンだった私が、この物語を初めて読んだときの感動は今でも覚えている。葉っぱ1枚1枚が生命そのものであり、土に還ることもまた新しい命を育むプロセスだという考えに衝撃を受けた。
そして、今。
そんな「葉っぱのフレディ」が、この小さな部屋の一角に存在しているのだ。なんという小宇宙だろう。
床に落ちた黄色い葉っぱを拾いながら、私は心の中で呟く。「DFだ……」と。そして手を合わせるような気持ちで、その葉を見つめる。
しかし、ここで大きな問題に気付いた。
原作のフレディたちは、四季を生き、命を全うし、土に還ることで大地を豊かにする。彼らは次の命の源となり、生命の循環を支える存在だ。
ところが、我が家のパキ男の葉っぱたち――すなわち我が家の「DF」は、そうではない。彼らの行き先は、土ではなくゴミ箱なのである。
芽を出し、命を全うし、土に還る。それが「葉っぱのフレディ」だとすれば、ゴミ箱に葬られる我が家のフレディたちは、その使命を全うできていないのではないか。そう考えると、少し気の毒な気持ちになる。
これからは、彼らをただゴミ箱に捨てるだけでなく、集めてアート作品にしてみるのもいいかもしれない。葉っぱの形や色を活かして、彼らの命を別の形で表現するのだ。
そのときは、またnoteに書こうと思う。
フレディと共に生きる、私の小さな部屋の物語を。