第9回両国アートフェスティバル「二次創作」全3種公演、上演楽曲-program note-
公演に寄せて
オリジナル、創作性。
2024年。既に数えきれないほどの楽曲が存在し、量産することもできるようになってきている。 その一方で、近代的な芸術思想においては、唯一無二の音楽を音符でいちから書くことこそが作曲におけるオリジナルの軸であり、強い権限を持ってきた。
既にある楽曲や概念を何らかの形で意図的に使用する音楽に焦点を当てたのが、今回のフェスティバルである。テーマ名はポップカルチャーの「二次創作」に由来する。本フェスティバルでは、引用・選択・編集の可能性や面白さについて、ピアノのための作品という芸術音楽の視点から思索共有していく。持続可能性が問われる今においてオリジナルと言うとき、一体何がオリジ ナルで、創作性はどこにあるだろうか。
芸術監督 山根明季子
作品解説◉ 原塁(音楽学)、委嘱作曲家各氏
Program 1
日時◉2024 年 8 月 3 日(土)19:00 開演、4 日(日)14:00 開演
ピアノ、エレクトロニクス◉林賢黙(イム・ヒョンムック)
ピエール・シェフェール - ビリュード
Pierre Schaeffer - Bilude (1979)
具体音をテープに定着させたのち様々に変調し音楽の素材とするミュジック・コンクレート。その創始者であるピエール・シェフェール(1910-1995)がこの革新的な手法に取り組んだのは、主に1940年代後半から 1950 年代にかけてのことだった。彼は素材が聴き手に与える作用をコントロールし、作品として組織化することに苦戦し、結局ミュジック・コンクレートの作曲を放棄、以後は音素材をめぐる研究の方向から新しい音楽の可能性を探るようになる*1。1961年以降、シェフェールが作曲した作品は極めて限られている。そのうちのひとつがこの《ビリュード》である。J.S.バッハの《平均律クラヴィーア曲集》第一巻からハ短調の前奏曲の構造を借り受け、ピアノと具体音による協奏曲的な掛け合いとして再構成する本作は、音楽と音の関係や境界、それらをめぐる知覚のあり方など、多くの問いを聴く者に投げかける。(原塁)
梅本佑利 - 世界で最も有名なネズミ、ついにその檻から逃げ出す!
Yuri Umemoto - The world's most famous mouse has finally escaped from its cage! (2024,世界初演)
2024年1月、ウォルト・ディズニー社による短編アニメーション「蒸気船ウィリー」がアメリカ合衆国においてパブリックドメインとなった。ビデオと任意の楽器のための本作は、このアニメーションのなかから、ミッキー・マウスが口笛で〈蒸気船ビル〉を吹く場面をサンプリングし、速度ゼロから約7倍速にまで加速させたもので、コンサートでの演奏は今回が世界初となる。音楽は、低音域でうごめく呻き声から高音連打による甲高い叫びへと変化し、超高速の動作とあいまって「著作権保護期間」という制度的時間による囲いの外側への脱走を希求する。(原塁)
マーカス・フィエルストレム - ピアノ教本 #1
Marcus Fjellström - Klavierbuch #1 (2014)
マーカス・フィエルストレム(1979-2017)はスウェーデン出身の作曲家。MIDI キーボードとコンピューター、ビデオのための本作は、スクリーンに投影される映像が楽譜の役割を果たす、いわゆるビデオスコアの形態をとり、各鍵盤が音高をもつ音/もたない音からなるシステムをトリガーしたり、音色を切り替えたりする。彼のオーディオビジュアル作品は概して、マンガやコンピュータ・ゲーム、映画といった様々なジャンルを横断的に参照しながら、しばしば悪夢めいた光景を描き出す点に特徴があり、本作もまた、可憐さと翳りとを同時に感じさせる独特の両義的な質感を湛えている。(原塁)
ベン・ノブト - もう一度言って
Ben Nobuto - Tell me again (2022)
メディアが作り出す情報過剰な環境に常に接続されている私たちにとって、ほんの少しのあいだでも「思考の流れ」を止めることは可能だろうか。イギリスを拠点に活躍するベン・ノブト(1996-)によるピアノとハンドベル、ビデオのための《もう一度言って》は、このシンプルな問いへと何度も立ち返る。 スクリーンに映し出される映像は、精神世界について語る指導者、ユーチューバー、メタバースのエンジニアらの発話をサンプリングしたものからなり、テレビのザッピングやネットサーフィンのように次々と切り替わる。一方のピアニストにはマルチタスクが課されており、映像に合わせてハンドベルを鳴らし、同時に断片的なフレーズを演奏する。文字通り氾濫する情報を思考がひたすら処理し続けねばならないような状況に、本作では波の映像と反復的な音響による瞑想的なセクションが対置される。やがて、この波の映像は早送りされたり静止されたりと速度を変え、ピアノのパッセージは没入的な電子音楽と溶け合っていく。断片の堆積・並置とはまた別様のこの仮構的なメディア環境は、冒頭の思考をめぐる問いに対してどのような答えを提示しているのだろう。そこに何を読み聴き取るかは聴衆に委ねられている。(原塁)
中島夏樹 - アルファ / ビート
Natsuki Nakajima - Alpha / Beat (2024 編曲版, 委嘱初演)
もとはピアノ4手連弾のために作られた曲である。1960年代頃のミニマルアートから着想を得て作曲され、後にビートパート付きのダンスミュージックとして改編された。2台ピアノ版、2台ピアノとオーケストラ版も存在する。今回の作品は、ソロピアノとビート(+MIDI ピアノ)版として編曲したものである。ピアノパ ートは頭から終わりまで5拍子を貫いており、一度ズレたら戻るのが困難であるなど、非常にスリルのある音楽であり、「踊るのが困難なダンス(クラブ)ミュージック」となっている。(中島夏樹)
ニコル・リゼー - めまいの海辺(トム・ヴァーレインへ)
Nicole Lizée - Vertigo Beach [À Tom Verlaine] (2007)
ニコル・リゼー(1973-)はカナダ出身の作曲家、ビデオアーティスト。ケーブルテレビや映画、ターンテーブル、スラッシュメタル、初期のビデオゲーム、60年代のサイケデリック文化 といった自らの影響源を多様な仕方で昇華しながら、もはや正常に作動せず「グリッチ」を起こしているモノを現代のコンサートホールのなかに持ち込むという特異な実験を続けている。リゼーはあるインタビューのなかで、こうした自らの実践について、哲学者ジャック・デリダの言葉 を借りながら、「音楽の憑在論」と表現している*2。そこでは過去から現在へとまっすぐに引かれ る線的な時間性は後退し、過去がもはや純粋な過去としてではなく、現在に奇妙な仕方で取り憑き、絶えず回帰する。《めまいの海辺》は、ポスト・パンクないしはアート・パンクをめぐる考察として書かれた、ピアノのための一連のエチュード。ひとつのアイデアを徐々に展開するところに、このジャンルがもつ特徴が反映されているという。ニューヨークのパンクバンドである『テレヴィジョン』を牽引したトム・ヴァーレインに捧げられた。(原塁)
Program 2
日時◉2024 年 8 月 7 日(水)19:00 開演、8 日(木)14:00 開演
ピアノ◉川崎槙耶、佐竹裕介
塩見允枝子 - 遮られた音楽
Mieko Shiomi - Interrupted Music (2001)
テキストスコア形式の作品。ピアニストは既成の楽曲を演奏するが、それを頻繁に中断し、両手首につけた鉄の鎖でピアノの弦や内部を叩いたり、擦ったりすることでノイズを発生させる。そして、そのノイズの余韻があるうちに、すみやかに既成曲の演奏に戻る。 塩見允枝子(1938-)の創作において、光と影、音と沈黙といった、ふたつのものの境界線を問うことはひとつのテーマとなっているが、本作は演奏とアクション、楽音とノイズのあいだにある、あわいの領域へと目を凝らし耳を澄ますよう、聴衆を誘う。(原塁)
ラ・モンテ・ヤング - コンポジション 1960 #13
La Monte Young - Composition 1960 #13 (1960)
聴き手が響きの内側に包み込まれるドローンの実践で知られるラ・モンテ・ヤング(1935-) は、1960年にテキストスコアのかたちをとる一連の作品を20曲以上残しており、そのうち15曲が「コンポジションズ 1960」とラベリングされている。このうち「#1」は《椅子、テーブル、ベンチ(あるいは他の発音体)等のためのポエム》(1960)という、偶然によって決められた時間のあいだ家具を引き摺るという作品で、ヤングが前年にダルムシュタット夏季現代音楽祭にて知己を得たジョン・ケージからの依頼を受けて作曲した*3。本日演奏される「#13」は、ダダイズムの作家であるリヒャルト・ヒュルゼンベックに捧げられており、「演奏者は任意の作品を準備したのち、それをできるだけ上手く演奏すること」という簡潔な指示からなる。他人の作品をレディメイドとして扱うことで、作者や作品、作曲をめぐる従来の考えが転覆させられる。(原塁)
山根明季子 - 状態 No. 3
Akiko Yamane - State No. 3 (2022)
山根明季子(1982-)の創作は、周囲から全身体的に受け取った感覚を音へと変換する。その意味で彼女は、レディメイドやファウンド・オブジェクトとしての環境と、表現としての音楽作品のあいだの、その境界線上で作曲を行っているといえるだろう。 本作は「任意の既成楽曲を複数同時に演奏する」というテクストスコア形式の作品で、No. 1「パチンコの実機をプレイする」、No. 2「任意の既成楽曲を騒音とともに演奏する」に続く「状態」シリーズの一曲。わたしたちは日頃から音楽や環境音、ノイズが同時多発的に生じる状況に身を置いて生活しているが、恒常化してしまったがゆえになかなか意識に登ることのないそうした状態が、コンサートホールという集中的な聴取が求められる場に置き直され、観察される。(原塁)
フィリップ・グラス - 5度の音楽
Philip Glass - Music in Fifths (1969)
フィリップ・グラス(1937-)は、アメリカにおけるミニマル音楽の展開において大きな役割を果たしてきた作曲家。本作はタイトルの通り、5 度のパッセージの上下運動からなり、その反復のたびにリズム構造が加算/減算的に変化する。ここにはグラスがシタール奏者ラヴィ・ シャンカールを通じて学んだ印度音楽の伸縮するリズム構造からの影響が伺える。それと同時 に彼がパリ留学中にナディア・ブーランジェから徹底的に指導されたという⻄洋音楽の対位法 における禁則(並行5度の禁止)への応答をも読み取ることができるかもしれない。ミニマル音楽は、時としてスタティックな音楽と批判されることがあるが、上述したように反復のたびに変化が加えられることで構造は常に動的な状態に置かれている。聴き手の意識は、慣例的なメロディとハーモニーによる「物語」ではなく、そうしたプロセスにこそ向けられる。(原塁)
トム・ジョンソン - コードカタログより
「一オクターブで可能な 286 の 3 音コード」
Tom Johnson - ‘The 286 three-note possible in one octave’ from The Chord Catalogue (1985)
最小限の素材を用いて曲を書くという意味でのミニマリズムを代表するアメリカの作曲家であるトム・ジョンソン(1939-)にとって、素材の限定は、ロマン主義や表現主義に顕著な自己表現を極小化することを可能にするものであり、その創作は主観的な感情ではなく、この世界に存在する客観的な真実の発見・解釈へと向けられている。言い換えれば、それは常に既にそこにあった、ファウンド・オブジェクトを用いた実践であり、作曲家による創意といったものは後景へと退いていくのである。「私は、作曲=構成 composition したいのではない、音楽を発見したいのだ」*4。この一言は、こうしたジョンソンの思考を端的に要約している。《コード・ カタログ》においてジョンソンが発見した客観的な事実、それは「一オクターブには78の2音コード、286の3音コード、715の4音コード......13の12音コード、1の 13音コードが含まれる」ということであり、本作ではそれらのコードが恣意性を排したかたちで規則的に並べられる。本日は、このなかから「3音コード」が演奏される。(原塁)
山根明季子 - イルミネイテッドベイビー
Akiko Yamane - Illuminated Baby (2015)
第9回浜松国際ピアノコンクールの委嘱で第2次予選課題曲として作曲された。左手の奏する力強い和音と、右手が奏する上行音階によって、歩き始めたばかりの赤子の足取りと、色鮮やかに輝く電飾を表現する。本作が「Program2」に集められた楽曲がおりなす星座のなかに置かれるとき、和音や音階をレディメイドとして眺めることと、リズムに変化を加えるなどしてそれらを表現のための素材として扱うこと、そのふたつの境界や差異、あるいはグラデーションについて思考するよう促される。(原塁)
ヨハネス・クライドラー - 異質
Johannes Kreidler - Das Ungewöhnliche (2010/13)
ドイツ出身の作曲家、マルチメディアアーティストのヨハネス・クライドラー(1980)は、「新しい概念主義」の提唱者として知られる。概念主義の特徴のひとつが「あるコンセプトが無数のヴァリエーションを生み出すこと」にあるとするならば、こんにちの「新しい」概念主義では、その産出がアルゴリズムによっておこなわれる点に特徴があるという*5。
《異質》は、トム・ジョンソンの《コードカタログ》同様、一オクターブに含まれる286の3音コードを並べたもの。レディメイドとしての3音コードを一曲のなかに並べるというコンセプトを出発点としつつ、《異質》ではそれをランダムに扱うことで別様のヴァリエーションを生み出す。(原塁)
山根明季子 - ビートの網目
Akiko Yamane - Beat Weave (2024, 委嘱初演)
「ビートの網目」はピアノと電子音から成る楽曲。ピアノは短三和音のアルペジオで一定のビートを刻み、電子音はミニマルな四つ打ちのリズムパターンを刻む。これら「一定の拍感」は、今現在商業的にも循環流通する殆どの音楽が有する要素であり、このような二つのビートを不確定に重ねる。編み込まれる重なりの網目をなぞり、都市環境の過密・過剰・重なり・共存の肌理のようなものに触れようとした。(山根明季子)
塩見允枝子 - グランドピアノの為のフォーリング・イヴェント
Mieko Shiomi - Falling Event for a Grand Piano (1991)
幼少期の塩見は、物資が限られた環境のなか、ふたりの弟とともに、さまざまな遊びを考えながら時を過ごしていたという。そんな彼女の作品はいつも、どこか軽やかな遊び心を感じさせる。テキストスコア形式の本作は、ピアニストがよく知られた緩やかなテンポの曲をペダルを 多用しながら演奏するあいだに、ビー玉をいっぱいに抱えたパフォーマーがそれをピアノの弦に落としていくというもの。今回の演奏では、楽器や会場にあわせて、ビー玉ではなくピンポ ン玉が使用される。空間や状況にあわせて柔軟に作品に変更を加えるのも、流転や変転という含意もあるフルクサスの一員として活躍する塩見ならではといえようか。(原塁)
Program 3
日時◉2024 年 8 月 10 日(土)19:00 開演、11 日(日)14:00 開演
ピアノ◉大瀧拓哉、藤田朗子
エリック・サティ - 官僚的なソナチネ
Erik Satie - Sonatine Bureaucratique (1917)
新古典主義や印象派、あるいはもっと時代を下ってアンビエント音楽など、様々な潮流との関係が論じられながらも、どこか掴みどころのなさが残る不思議な作曲家エリック・サティ(1866-1925)が、ピアノ学習者にお馴染みのムツィオ・クレメンティ《ソナチネ》第1番の3つの楽章をもとに作曲した作品。楽譜には、ある男性が役所へと向かい、昇進・昇給を夢想したり、近所から聞こえてくるクレメンティを演奏するピアノに悩まされたりしたのちに退勤するまでの様子を描く文章がつけられている。この作曲家ならではの、ユーモラスな一曲。(原塁)
灰街令 - 二つ目の墓痕?
Rei Haimachi - Ruin of the Second Grave? (2024, 委嘱初演)
ブラームスの遺作『11 のコラール前奏曲』の第5番の、いくつかのフレーズをコピー&ペーストすることから作曲が始められた。とはいえ作曲において元の素材は断片化され、変形され、上書きされ、接ぎ剥ぎされているから、オリジナルの姿を発見することは不可能だろう。それは灰へと燃え尽きる前のなにかの姿を探すようなものだ。 元のブラームスのコラールもまた、バッハ作曲のコラールを下敷きにしている。特19世紀以降、⻄洋音楽の作曲家たちは再発見されたバッハを規範とし、その系譜に自らを連ねようとしてきた。⻄洋音楽にとってバッハは、バッハがコラールを捧げたキリストのような存在だった。キリストの声を伝える福音書もまた、様々な著者によって何度も書き加えられたものであり、それぞれの福音書には無数の注釈が今も付けられ続けている。そのキリストの死すら、⻄洋文化を決定づけた二度目の傷、反復である。一度目はソクラテスの殺害、二度目はキリストの殺害。 こうした歴史的意識が伝統的な⻄洋文化には流れている。それは、解釈の伝統を辿っていけば、 オリジナルの「声」(ソクラテス、キリスト、バッハ)に行き着き、それに応答することができるという考えに基づくものだろう。21世紀のアジアに生きるわたしは、この、オリジナルを反復しながら前に進んでいく歴史という観念にリアリティを感じない。だからこそ、わたしはブラームスのコラールを即物的な複製-操作が可能な「文字」として扱い、二次創作を行った。しかし同時に、『11のコラール前奏曲』でブラームスが行った伝統的な編曲や引用に対比される、サブカルチャー的二次創作(あるいはn次創作)が持つパロディ的な異化効果もわたしは信用していない。それは主体と伝統の弁証法に対する反論のようでいて、実際は伝統的コンテクストを自明視したうえで成り立つアンチテーゼであり、コミュニティ(この場合は⻄洋音楽の伝統)を裏側から延命させるための装置にも思える。 このような「二次創作」に対する両義的な感覚から「二つ目の墓痕?」は作曲された。本作がブラームスの作品に施した、エラーを含んだ複製という操作は、本作の内部を貫く構成原理でもある。わたしは自身が書いた(本作のためにブラームスの作品に書き足した)フレーズを扱うのと同じような思考・手法で、ブラームスの元の楽譜を扱った。とはいえ、細工や構成は自身の耳と手作業によっており、それはこの作品が⻄洋音楽の伝統から完全には自由でないことを意味している。このような、伝統や作曲家の主体性に対する微妙な距離感もまた、わたしのリアリティを反映しているかもしれない。
最後に、この作品が、ケージがサティの楽曲『ソクラテス』を破壊的に再構成してみせた「チープイミテーション」(また、さらにそのフェルドマンによる編曲版)に影響を受けていることを述べておく。(灰街令)
中島夏樹 - ⻑3和音は誰のもの?
Natsuki Nakajima - Who got the major triad? (2024, 委嘱初演)
誰もが必ずどこかで聴いたことのある響きである⻑3和音。この、あまりにも「有名」な和音が私たちにもたらすイメージとはどのようなものだろうか。 主和音、⻑調、明るさの象徴、単純、ポップ⋯⋯ 人々にとって馴染みの深い⻑3和音を使って作曲された音楽は、いつも”何かしら”に似てしまう気がする。 曲を構成する上での最小単位を⻑3和音としたとすると、その場合、⻑3和音のみで構成された音楽は、どこを切り取ってもオリジナルの要素など存在しないのか?
この作品は、そのような私の「ちょっとした悩み」に基づいて作曲された。以下の3つの小曲から成っており、全曲を通して⻑3和音の要素のみで構成されている。
trés rapide(大変急速に)ラヴェル作曲『水の戯れ』より、中盤のあるパッセージが引用されている。復調の⻑3和音によ るこのパッセージから作られる響きは、のちにストラヴィンスキーがバレエ音楽「ペトルーシュカ」で効果的に使用したことにより、“ペトルーシュカ和音”と呼ばれるようになったものであるが⋯⋯。
水の動きや色彩を表現したラヴェルの緻密なパッセージは徐々に解体され、21 世紀の “トーキョ ー”の音風景へと変換されていく。手首をバウンドさせてピアノを始めたばかりの頃、手首を使ったスタッカートの練習として、⻑3和音をひたすら弾ませていた記憶がある。⻑3和音は私にとって、スタッカートの練習台であった。羅列された⻑3和音とその重なりから淡々と放たれる様々な響き。その瞬間瞬間の中に、人はそれぞれどのようなイメージを抱くのだろうか。
MIDI のように
チップチューンやゲームを彷彿とさせるような音楽。 ⻑3和音は万能である。クラシック音楽からピコピコ系音楽まで作り上げることが出来てしまうのだから。(中島夏樹)
塩見允枝子 - 遮られた夢
Mieko Shiomi - Träu-interrupted-merei (2023, 委嘱初演)
2003年に制作した楽譜によるヴィジュアル・ポエトリーの作品集〈Ultimate Music〉に、シュー マンのトロイメライを使用した《Träu-interrupted-merei》がある。二次創作のフェスティヴァルについて山根さんからお話を伺った際に、ふと、この視覚作品を音化してみたいと思い立った。私は20才代に、様々な音を録音したテープを数センチの⻑さに切り貼りして、テープ音楽を作った経験があるのだが、その要領で、トロイメライを32の断片に分割し、その間にさまざまな他のフレーズを挿入してみた。果たして見たこともない愉快な夢となるか、悪夢となって聞こえるか・・・・?(塩見允枝子)
ヨハネス・ブラームス -
五つの練習曲より No. 3, No. 4 「バッハによるプレスト第1番、第2番」
Johannes Brahms - ‘Presto nach J.S. Bach I, II’ from Studien (1879)
ヨハネス・ブラームス(1833-1897)が、J.S.バッハの作曲した《無伴奏ヴァイオリンソナタ》 第1番のプレストを下敷きに作曲したピアノのためのエチュードであり、ふたつのバージョンが存在する。第一のものはバッハによる原曲のメロディが右手に、ブラームスの手になるものが左手に置かれ、第二のものは、その反対となる。同一の原曲に対しひとりの作曲家が手を加えたものだが、原曲がどちらの声部に置かれるかで結果として音楽にも差異が生まれている。両者を聞き比べる中で、編曲と作曲の線引きはどこでなされるのかといった問いが喚起されよう。(原塁)
辻田絢菜 - 眠り姫の鱗
Ayana Tsujita - Sleeping beauty scale (2024, 委嘱初演)
譜面ベースの音楽は、譜面さえあれば演奏によって遠い未来にも生きた状態で音楽として再生し得る。そんな風に永久に生きる事ができる作品を作るのは、作曲する人間として夢の一つです。 この作品はモーリス・ラヴェルのおとぎ話や妖精を題材にする作品からモチーフを引用しました。聞き覚えのある響きを出発点とし、引用したいくつかのモチーフを素材としつつ、自由に展開していきます。構成は子供の頃に見ていた魔法少女アニメの変身シーンになぞらえました。 制作過程で、引用したモチーフは、今までも私の音楽の一部として共にあった「鱗」のようなもので、それを逆立てて確かめているような感覚になりました。たとえ形が変わっていても、私たちが発したり見聞きしたものは影響を及ぼし合い、存在している。音楽を紡ぐことは、意識せずとも常に何かの二次創作なのだと思います。このように「原作の演奏」以外のかたちでも音楽が生き永らえる可能性があることは、自分にとって希望になります。 最後には鱗が剥がれ落ち、キラキラと空間に散らばっている。この鱗はまた誰かの心の耳に残ることができるだろうか。(辻田絢菜)
松平頼暁 - 連星
Yoriaki Matsudaira - Binary-Stars (1990)
松平頼暁(1931-2023)は音楽と生物学という二つの領域で活躍した作曲家。本作では、1970年代後半以降の松平作品に顕著となる反復と旋法によって特徴づけられるパッセージをめぐって、二人のピアニストが異なる時間周期で主役の役割を交代で演じる。作曲家によれば、それらのパッセージは「スナックの奥のテーブルにかすかに聞こえてくるポップスの断片、街頭で切れ切れにもれてくるコマーシャル・ミュージック、BGMなどが不正確に再現」したものであるという*6。松平は 1965年から一年間、生物学の研究のためにアメリカに留学しており、そこでロバー ト・ラウシェンバーグによる「コンバイン・ペインティング」(二次元の平面に日常品や廃品、写真、絵画の複製等を貼り付けることで、三次元的に拡張された絵画)に接し、それを音楽に適用した「コンバイン・ミュージック」を構想する。日常生活のなかで聞こえてきた音楽に由来するという本作も、この引用音楽の延⻑線上に位置付けられる。(原塁)
梅本佑利 - Confiteor
Yuri Umemoto - Confiteor (2024, 委嘱初演)
萌え声のアニメ・キャラクターは、俗物的で罪深い私を映している。声は自罪を詳らかにし、回心の祈りを捧げる。誘惑に満ち溢れる世界の中で、現実の私と、私の奥底にあるキリスト教世界の距離は遠く離れていく。その度、私は罪悪感に伴った神の気配をより強く感じているような気がする。
Confiteor unum baptisma
in remissionem peccatorum.
Et exspecto resurrectionem mortuorum
et vitam venturi saeculi, Amen.
(梅本佑利)
[記録動画]
▶︎ https://youtu.be/ORJ8MJScllw?feature=shared
主催: 一般社団法人もんてん https://www.monten.jp/
助成: アーツカウンシル東京、芸術文化振興基金助成事業