救援投手が最大級にリスペクトされる社会であって欲しい!(ー益田直也の250セーブ達成祈願と、増田達至の引退に寄せてー)【野球】【バスケ】【Bリーグ】【エッセイ】
自分が野球選手、バスケットボール選手の立場ならば、「引退試合」こそ「最高に望む景色」と感じる。引退まで、自分自身の積み上げた努力・使命の全てをやり遂げた証明だから。
だからこそ特に、「10月2日水曜日、青木の引退試合」、青木の胴上げのときは、両チームでの胴上げで送り出して欲しいです!
今回のテーマ。
「『救援投手(「リリーフ投手」とも呼ぶ。いわゆる「抑え投手」「中継ぎ投手」のことです)の大切さ、素晴らしさ、過酷さ』を、1人でも多くの人間に知って欲しい!」
で、執筆させて頂くことにしました。
この時期はといえば、いまの自分的には、バスケットボール(Bリーグ)の開幕が近いですので、「開幕前の準備」で、実は意外と忙しい時期であったりします(実は昨季は、「開幕前の展望記事」を充分に綴れずにとても悔しい想いをしたので、今季はこの反省を踏まえたいと思ってます)。
(10月3日木曜日に開幕。自分の拠点の関西圏でだと10月5日土曜日。既に「新体制発表会」「プレシーズンマッチ(野球でいう「オープン戦」と同義です)」がありますので、「ああ、開幕が近い」と心のスイッチが入っている感じですけど、そう、開幕まで「あと2週間半ほど」に迫ってます。
…って、選手名鑑はいつ発売されるんだの感じで。選手名鑑があることが、調べるスピードがより上がるので、「ある都内とでは大違い」が正直な本音なのですけど…。)
ですけど、この一方で、いまは「野球のレギュラーシーズンがヤマ場に突入の時期」です。いまだと、残り試合数が「ラスト20試合」に突入。
「ラスト30試合に突入」になると、「先発投手の中4日」「救援投手の3連投」「抑え投手のイニングまたぎ」が事実上解禁されて、「さあ、ラストスパートだ!」が伝わる感じになります。
この、レギュラーシーズンが終わると、いわゆる「ポストシーズン」(「クライマックスシリーズ」「日本シリーズ」の総称)になります。この「ポストシーズン」の開幕予定日が「10月12日土曜日」ですので、10月は「特に心が熱く燃え盛る時期」と自分は感じてます。
(で、バスケットボールの「ポストシーズン(プレーオフ。近年のBリーグは「チャンピオンシップ」という表現をしてます)」は「5月」です。ですので自分的には、5月、10月は1年の中でも「心の熱量が特に高まる時期」です。)
いまでは、「バスケットボール」が最大のメインになってますけど、「野球」も同等以上に好きでして。そもそもかつては「仮想ドラフト」(「ドラフトホームページ版」。いまツイッターでよく知られているのは、恐らく「ニコ生版」ですので、それとは別の集まりです)に通算6回の参加経験があるほどには大好きでしてと。
「野球」をメインとするnote記事では、「ビシエド」(と、「100敗の危機が危惧されてた埼玉西武の現況」)をテーマに綴らせて頂いた6月12日の記事以来、3か月ぶりになります。
2024年9月。今年もこの時期がやってきました。
人間である以上、「出会い」があれば「別れ」もやってきます。
野球をはじめとする、プロの球技スポーツである以上、「入団」の選手がいるということは、「引退・退団」の選手もどうしても出てきます。
いまリンク添付させて頂いた、
「青木(東京ヤクルト)」「秋山(阪神)」「T岡田(オリックス)」「金子侑(埼玉西武)」。
4人共に、1時代を築いた、記録(あるいは記憶)に残る名選手です。
この中でだと特に、自分的には、秋山、T岡田は、好きという意味でも、思い入れという意味でも、特に強い選手です(「長距離打者」「アーティスト」という言葉は、「T岡田のためにある言葉」といってもよい。それほどに、T岡田の本塁打は、いつも美しかったのです。「本塁打か三振か」といえるほどの成績推移ですけど、視点を変えれば「最後までずっとフルスイングを貫いた」、最高に素敵!だからずっと大好き!と感じてます)。
ですけどとりわけ、青木は「永遠の伝説」でしょう。
記録のすごさもですし、MLBからNPBへの帰還の際、「ヤクルト以外は考えてなかった」のエピソードを持つように、「ミスタースワローズ」の1人と既に称えられています。
そういったこともあり、そう、野球を「ルールを知っている程度にしか知らない」人間でも、恐らく青木は「名前は知っている」人間が多いのでは?と想像の感じです。
「10月2日水曜日」、「vs広島(神宮球場)」を、「引退試合」にすることが既に発表されています。
自分も、できればではありますが、青木の引退試合を自宅のテレビで正座待機したい!と思ってますから。
(どこかの放送局が、BSで完全生中継して頂けることを、とても信じてます!青木ほどの業績ならば、「最後の雄姿をこの眼で観たい」のニーズはとてもあると想像ですから!)
自分が、「プロ野球選手」「プロバスケットボール選手」の立場ならば、「こうなりたいなあ、と感じている姿」って何ですか?と聞かれたら、迷わず即答です、
「『引退会見』『引退試合』をさせて頂けること。引退セレモニーで、『引退挨拶』『場内一周』をさせて頂けること。」
と。いわば、「引退試合、引退セレモニーこそ、プロ野球・プロバスケ選手の『最高の誉れ』」が、自分の正直な価値観です。
そう、ほとんどの選手は、「引退」を表明できずに、「来季構想外→退団→事実上の引退」になるのです。
実は、「引退」を表明する人間の中には、「水面下で、球団側から引退勧告を受ける→いつまでに返事を欲しい(の期日が設定される)→(期日までに)引退勧告を受け入れる(=引退を決断)→引退表明・引退試合・引退セレモニー」のケースがいくつかあります。
特に阪神はこのケースが多い印象で、「八木裕(2004年)」「渡辺亮(2015年)」「福原忍(2016年)」「安藤優也(2017年)」がこれに該当といわれてます(特に渡辺は功労者であるのに、引退試合もなくひっそり感の引退になった)。また、近年はCS(クライマックスシリーズ)の影響で、「引退表明は自分で決断するが、引退試合は固辞する(=自分のために迷惑をかけたくないから)」のケースもあり、「田中秀太(2009年)」や、今回の秋山は、このケースに該当になります。
自ら引退を決断できて、引退試合・引退セレモニーができることが、どれほど「すごいこと」「感謝なこと」なのかを感じたことが、いまの自分の最大のメインフィールドであるバスケットボールで、この2024年に2つありました。
恐らくバスケファンの読者ならば、「いや、なぜ、『桜井良太(北海道)』や『朝山正悟(広島)』じゃないんですか?」と突っ込まれそうな感じだったりですけど、ごめんなさい、自分、関西圏の人間ですので、やっぱり関西圏の球団の選手は、思い入れが強いんですよ!という感じで、御理解を頂ければの感じです。
「藤髙宗一郎(奈良。SF/PF。かつてはSR渋谷、大阪でも)」、「松崎賢人(神戸。PG。一時期に熊本でも)」。藤髙も松崎も、最終的には故郷の球団でのプレーで、球団ファンの中でもいつも1,2位を争う人気選手でした。その一方で他球団の在籍歴もあるので、いわゆる「名誉生え抜き」になります。
藤髙も松崎も、自分は別の試合を生観戦していた関係から、「配信での見逃し観戦」で対応させて頂きましたけど、とても心に響く終わり方・引退セレモニーだったんですよね。
「たくさんの人間に愛されて、惜しまれて去る」こと(尤も2人とも、最終シーズンになった昨季は、年齢面に勝てずなのか、「ガクッと成績を落として」が恐らくの引退理由の1つになった感じですが)。
「できるすべてをやり切ったと、完全燃焼して去れる」こと(2人共に、負傷が原因での引退ではないことも大きい)。
特に松崎の場合は、神戸ファンからでさえ、「道原・谷・松崎の『3人のコアメンバー』で、いつまで続けるつもりだろう…」と不安視される感じでもありましたが(3人共に地元選手だが、いずれも『アラウンド35』に突入であった。能力・チーム力はあるはずなのに、『B1復帰にあと1歩届かない』を繰り返す一因になってた感じは全否定はできない)、でも一方で、「神戸で完全燃焼して、神戸で引退で送り出したい」も、多くの神戸ファン・バスケファンの想いでもありました。
「引退表明時・セレモニー時でも、移籍を経験したことは自分的にはプラスであった」と仰っていて、これは本心であることがとても伝わってきましたし、偶然とはいえ、松崎の引退試合の相手は、唯一の他球団在籍としての球団であった「vs熊本」でした。いわば、引退試合として「これ以上ない舞台設定」になった、これも恐らくですけど、「バスケの神様の贈り物」、自分はそう感じてるのです。
もしかしたら、(言葉には出さない中での、)後悔はあるのかもしれない。でも、「できる全力を出し切れて、完全燃焼できて(燃え尽きて)の引退」であったことが伝わるので、なおさら「ありがとう」の想いです。
今季は、神戸は「B1復帰」、奈良は「勝率.500、B2のPO出場」という、それぞれの球団にとっての「長年の悲願」の成就が現実といえる選手編成に成功した、と映ってます(特に神戸は、昇格POにピーキングを持っていけることも併せて重要。現行制度では昇格POは「3試合2勝」の「超短期決戦」であるので、PO出場のスタートラインに立てば勝機はあるからと)。
そう、「神戸のB1復帰」「奈良の勝率.500」、それぞれを叶えることが、松崎、藤髙への「ありがとう。これからも1ファンとしてずっと応援し続けてね」になると思うのです。
そして、神戸だと谷、道原がいますし、在籍年数の長い選手が多いのが神戸の長所であると思ってるので、その後にも引退セレモニーで送り出せる選手の輩出をと強く信じてますけど(特に渡邊翔太、今季は主将に就任する訳だしなおさら、「1選手としてもチームとしても、絶対に飛躍の年にしよう」!です)、奈良もそう、引退セレモニーで送り出せる選手の輩出を、と強く願うのです(本多は数年後にそうなるだろうと楽観視してますが、個人的には特に古牧も最終的にはそのような終わり方であって欲しいが、自分の正直な願いです)。
「引退」をテーマとする記事は、実は今回が恐らく2回目です。
かつても、いまリンク添付させて頂いた、「2023年5月19日」のnote記事で、功労者の引退・退団(別れ方・去り方)のテーマで、執筆させて頂いてます。
で、この記事で、自分にとって「人生で最も心に響き続けてる、『特別な引退試合』のこと」を、再掲させて頂きます。
(動画の「6:45~8:15」が、「引退あいさつ」の部分になります。
ここで、自分の記憶に永遠に留め続ける意味でも、「引退あいさつの全文」を、綴らせて頂きます。)
「2004年10月10日」、八木裕の引退試合。
自分の人生の中でも、とりわけ「永遠に特別な1日」。
今年、「2024年」。そう、まもなく「ちょうど20年」になります。
「自分にとっての、永遠のヒーロー」、八木裕。いま、北海道日本ハムで一軍打撃コーチを務めていて、今季、いまリーグ2位、CS出場はほぼ確実。
指導者としては、逆境であったときも正直あったかなですけど、集大成の舞台が近付こうとしています。
自分は阪神ファンですけど、今季の日本シリーズで、「阪神vs北海道日本ハム」がもし叶えば、最高に嬉しいだろうなあが正直な感覚です。
引退でいえば、いまリンク添付をさせて頂いたように、自分がいまでも特に感動の感じで心に響き続けているのが、「小久保(元ソフトバンク。2012年)」「稲葉、金子誠(元北海道日本ハム。2014年)」の引退です。
3人のいずれも、現役最終試合はCSでした(CSで負けて、現役生活を終えた)。で、現役人生のラストを、「相手チームを含めての、両チームでの胴上げ」で終えたのです。これほど最高に素敵なことはない!
だからこそ、です。10月2日、青木の引退試合(vs広島)。
最後、恐らく胴上げがあると想像ですけど、青木の胴上げのときは、広島側も、全員でなくても代表の数人だけでもいいですから、両チームでの胴上げで送り出して欲しいです!と、そう強く伝えたいのです。
青木は、「ミスタースワローズ」にして、「日本野球の永遠の伝説」です。その生き方を含めて、「不世出の伝説」、そう言い切っていい。
いわば、野球ファンとして、考えられる最高の感じで、送り出されて欲しい!、そう強く伝えたいのです。
青木自身も勿論、シンプルにとても素敵と思える人間の1人です。
ですけど自分は、1人の人間として、「『青木の妻である、佐知さん』に、ありがとう」をとりわけ伝えたいのです。
御存じない人間もいるかもですので少し説明させて頂きますと、青木の妻(夫人)は、元アナウンサー(テレビ東京)でした。キー局のアナウンサーになること自体、とてもすごいことです(すさまじい狭き門です。それでいて、入社後の競争がさらにすさまじいと伺うのですが)、佐知さんの場合は、水泳をずっとしていたことを評価されたこともあってか、スポーツ分野を特に得意としてました。
当時から、「さわやか」「裏表がない」「純粋、ありのまま」って感じで、自分も「ああ、佐知さんのような人間が同じ職場にいれば、より活きる意欲が高まりそうだよなあ…」と漠然と感じてました。
(しかも、日本のアナウンサーの場合、「私、かわいいでしょう?」「私、賢いでしょう?」という、「ナチュラルなマウント、自己顕示」が普通に飛び交う世界と伺います。でも佐知さんは、この「私、かわいいでしょう?賢いでしょう?」という、いわば「タレント気取り感」が全くゼロだったんですよね。かといって、ガチガチの報道系統にありがちな「ザ・堅物」というわけでもなく、恐らくですけど、「きっと親御さんや先生方に恵まれて、『人間としてとても素敵』って感じに育ったんだなあ…」と映ってたんですよね。それでいて「かわいい」から、「もう、反則でしょう?」[褒め言葉のつもりです]って感じで。)
ですけど、アナウンサーとしては、わずか「4年」で引退(2006年~2010年)。
そう、青木と結婚しての「寿退社での引退」でした。
その後、出産を経て、2012年から青木がMLB挑戦(2018年まで)。
で、2019年、NPBに復帰(ヤクルト)。そこからだけでも現在まで、6年間あります。
日本の場合、プロスポーツ選手との結婚は「最高の憧れの1つ」といわれてます。ですけど一方で、特に野球選手の場合、夫である選手の場所で自宅を共にしつつ、ある程度したらフリーアナウンサー(あるいはローカルタレント等)で現役復帰、という例がいくつもありました。あるいは移籍がない場合だと特に、そのまま仕事を継続という例も近年では増加傾向に映ってます。
人間の生き方に「絶対的な正解はない」と思っているので、仕事を継続・復帰もとても素敵なことだなと感じてます。自分は「おひとりさま」の道ですけど、この大きな1つは「とても繊細で不器用な性格」ですので、仕事も家庭も両方共にって、シンプルに自分にはできないなあ…と感じてます。
そう、夫である青木がNPBに帰還してから、いまで6年。仕事に復帰しようと思えば、恐らくいくらでもできたと想像ですし、恐らく水面下で「こういう仕事をやりませんか?」という話もいくつもあったのではと想像です。
ですけど、少なくとも「表舞台での仕事」は、ほぼ全くしなかった。そう、「青木の妻(夫人)、2児の母」であることを、引退のときまでずっと貫き続けた。
自分が佐知さんの立場ならば、そうできただろうかと。そう、夫や子供を大切にし続ける・尊重し続けることで、結果として社会に貢献の一助になっていること。勿論、「佐知さんだから成立できること」であるといえばそうかなですけど、それを考慮しても、
と、強く感じるのです。
(それと、脱線になりますけど、「長髪も短髪もどちらでも似合っていてかわいらしい」ことも、とても羨ましいですし、それでいて[アナとしての]現役時代と、雰囲気が全然変わらないことも羨ましいです。恐らくですけど、アナウンサーを引退してからも「内面を高める努力をずっと続けている」と想像の感じで、1人の人間として改めて、「学び続ける」「内面を高め続ける」ことに終わりはないと学ばせて頂く感じです。
すごいなあ…と、拝読させて頂いて、心をとても揺さぶられます、学ぶことが多いですと。「自分の考え・価値観を押しつけない」、これって「人間としてとても大切なこと」とわかっていても、現実論的にはなかなかできることではないですので。
そう、日本社会の場合、「勉強はできるかもしれないけど、仕事の能力はどうしようもない」あるいは「表面的な勉強・仕事はできるかもだけど、人間として同じ職場にいると雰囲気をむしろ悪くすると感じる」という人間が、とにかく散見されると、自分も正直感じてます。
そう考えるとなおさら、佐知さんも青木も、いままで以上になおさら、「人間としてとても尊敬できる」と感じるのです。
だからこそ、です。これからどのような生き方をしても、「佐知さんらしく」を貫き続けて!は勿論ですけど、佐知さん自身で何らかの行動(アクション)をすることで社会に貢献・還元する姿を観たいです、と正直感じてます。佐知さんの生き方に励まされている・応援したいと感じてる人間は、恐らく想像するよりもいるのではと映りますから。
…って、引退のことから話を脱線させた感じでもありますけど、日程的に青木の引退試合のときは、これに関係するテーマで取り上げられそうにないとの判断もあって、佐知さんから学び感じることということで、この機会に言及させて頂く次第です。
増田の「557救援試合・194セーブ」、益田の「744救援試合・241セーブ」、自分は最大級に賞賛されて欲しいことと感じてる!
大きな負傷離脱なく、10年以上を同じ球団の救援投手として君臨し続ける、これってとてもすごいこと!
今回、こうしてnote記事を綴らせて頂くタイミングが、偶然にも
そう、この記事を書き進めているタイミングが「9月18日」。
学校の教科書的には、「満州事変」「柳条湖事件」の日(1931年)です。
この「満州事変」がはじまりになって、いわゆる「十五年戦争」に突入して、最終的には「(広島・長崎への)原爆投下」「(東京・大阪・名古屋などへの)大空襲」という結末になっていきます。
大学時代、はい、拝読させて頂いた1つが『世界最終戦論』です。
「何故、戦争をしてはいけないのか」「何故、平和がとても大切であるのか」を、考えさせられる1つの本になりました、自分的には。
はい、言葉で表現してって?「えぐい」「強烈」「壮大」。自分の語彙力ではこれが正直な限界ラインですけど、「負の歴史として記憶に留め続けなければならない史料」の感じですかね。
まあ、この日本では、というか日本である限りなくならないのかなと感じたりですけど、「『受験戦争』という名の戦争」が存在するのですけどね(激汗)。
大学時代に、拝読させて頂いて「強烈」「壮大」と感じた本の1つが、サミュエル・ハンチントンさんの『文明の衝突』です。
この『文明の衝突』で言及されていることは、国際情勢の意味でも、あるいはこの日本社会においても、そう、日本社会でも「思想の衝突」って感じで、根強く息づいているよなあ…の感じで。
はい、いま、「自由民主党(自民党)の総裁選挙」「立憲民主党の代表選挙」が開催中ですけど、自分の価値観でだと、某「保守のクイーン」と真逆ですからね。
なんというか、「異なる考えに耳を傾ける」社会であって欲しいなあと自分は感じているのですけど、「排他的な考えが普通にまかり通っている」、いまの日本社会って、この意味で自分は正直「生きづらさ」をとても感じてます(真顔)。
はい、「まっとうな社会」と真逆である、「利権中心の経済」である、そうでしょう?と聞かれたら、正直反論はできないかなが、自分の正直な感覚です。
…で、そう、「9月18日にあった出来事」、教科書的には「満州事変」「柳条湖事件」です。
ですけど、特に若い世代(そのすべてではないかなではありますが)の中の一定程度の人間は、「9月18日にあった出来事」といえば「(初代アイドルマスターの)9・18事件」(2010年)を連想するかなの感じです。
当時は自分はまだ、「ほんとうはアニメが好き」に気付く前の時期(いわば「ほんとうの自分」に無意識的に蓋をしていた時期。さらに述べれば当時の自分はリアルに「暗黒時代」の時期でもあったのですが)でしたので、こんなことが起きてたんだというのはかなり時期が経ってから知った感じでしたけど、当時はすさまじいセンセーショナルなことであったと伺います。
そう考えると、いまこうして自分が、「誰かの応援者でありたい」とこうして「書く・伝える」を微力ですけどさせて頂けてること、バスケットボール・野球・相撲・陸上とかの「スポーツで一喜一憂できてること」は、「当たり前ではないこと」と実感ですし、その意味では「平和な社会であるから」といえるんですよね(「生きづらさ」を抱えている社会という意味では、「平和」といえるのか?と感じたりしてますが、スポーツ・映画・音楽を楽しめてる意味では「平和」な社会とはいえるという意味で)。
…って、話をまた大きく脱線させた感じですので、いよいよ本題へと話を進めさせて頂きます。
で、今回のnote記事。なぜ、執筆させて頂こうかと思ったのか。
理由は特に、2つあります。第1は「増田達至(埼玉西武)」。
9月17日、朝に引退の意向との報道。その日のうちに、引退の公式発表がありました。
で、引退試合を「9月28日土曜日、vs千葉ロッテ(西武ドーム)」での開催が、併せて発表されました。
第2は「益田直也(千葉ロッテ)」。どれほど逆境でも逃げずに自分の投球術を貫き続ける姿勢(ほぼポーカーフェイスであるけど、それでいて内に秘める闘志が伝わることも魅力です)が特徴で、自分も好きな選手の1人です。
母子家庭(ひとり親家庭)の出身であることからか、社会貢献活動に熱心であることも、特に応援したくなる理由の1つです。
MLBには、社会貢献活動に熱心な選手を称える「ロベルト・クレメンテ賞」がありますけど、NPBにクレメンテ賞があれば、益田はいつかの受賞に絶対にふさわしい!と自分は感じてます。尤も益田の性格的には、「賞のためにしてる訳ではない」と想像の感じですけど。
いずれにせよ、そう、「増田と益田」、つまり「2人の『ますだ』」。
増田は2013年から、益田は2012年から、共に所属球団(それも一筋で10年以上!)の救援投手陣で不可欠の存在であり続けてきました。
後述で改めて説明させて頂こうと思ってますけど、特に日本球界(NPB)の場合、救援投手は選手寿命(全盛期寿命)が長くない傾向があります。
NPBの場合、1つの目安として「5年」。負傷や不調なく5年連続でできてる投手は、実は意外とそう多くないのです。
さらに述べれば、NPBの場合、救援投手の起用法が整備され始めたのは、1990年代になってからです。この初期の選手が、「大魔神」の愛称で有名である「佐々木主浩(元横浜など)」、シンカーという魔球でヤクルトで長く抑えに君臨した「高津臣吾(元ヤクルトなど)」です。
これが、抑えのみならず中継ぎ投手も含めて起用法が本格的に整備されるきっかけが、2000年代の阪神、いわゆる「JFK」です(久保田智之-ジェフ・ウィリアムス-藤川球児)。
阪神が「勝利の方程式」を球界に定着させるきっかけになったのと同時期にNPBで「救援投手としてスーパースター」で君臨し続けたのが、「岩瀬仁紀(元中日)です。岩瀬は後述で改めて言及させて頂きますが、「2005年~2013年」に「9年連続30セーブ到達(うち5回のセーブ王)」という異次元の数字を打ち立ててます。中日は落合博満監督のもとで「2004年~2011年」の8年間の黄金時代を謳歌したのですけど、いわば、「中日の黄金時代は『絶対的抑えの岩瀬と共にあった』」と言い切ってよいのです。
その後の、NPBにおける救援投手の位置付けは、年俸で評価されているかはともかく、試合の展開を進める意味では、年々重要性が増してきています。
そう、いま、WAR(勝利貢献度)という指標があって、実は救援投手はWARの計算式では、あまり評価されていない現況があります。
ですけど、少なくともNPBの場合は、とりわけ抑え投手の場合は、「抑えの質がよければよいほど、相手チーム・相手打者にとっての怖さがより高確率で上昇する」といえるのではと。
いまでいえば、「ライデル・マルティネス(中日)」「栗林良吏(広島)」「大勢(巨人)」が、特にそうでしょう。実際、この3人は今季のWHIPは
「マルティネス(0.77)」「栗林(0.88)」「大勢(0.80)」
です。「1.00を切ると、スーパーエース級」と目安的に言われることに照らせば、マルティネス、栗林、大勢が登場すれば、自チームのファン的には「今日は勝った」とほぼ考えてよい。
そう、「NPBの野球スタイル」の特徴の大きな1つに「救援投手の役割・存在意義をより重要視する」ことが、はっきりとあるといえるのでは?が、自分の正直な解釈です。
救援投手の存在意義の重要性でいえば、NPBで独特といえる役割・存在が、「ワンポイントリリーフ」、特に「対左打者に特化の、左の中継ぎ」(通称「左キラー」)です。
「左キラー」タイプの救援投手自体は、1980年代からいました。
この「左キラー」が定着したのが、2000年代です。「菊地原毅(元広島など)」「吉野誠(元阪神など)」「小林正人(元中日など)」「星野智樹(元西武など)」が、これに該当します。
「対左打者に特化の、左のワンポイントリリーフ」がNPBでいまもずっと普及し続けてるのは(球団によっては「左のワンポイントは不要」の考え方のケースや、「そもそも1軍レベルの左腕の救援投手自体が不足してる」ケースもありますが)、「左打者がとにかく多い傾向であるから」です。
そう、レギュラーの5人~7人が左打者のケースが、毎年どこかの球団で存在してます。特に高校野球を観てる人間ならばより理解できるかなと想像ですけど、日本の野球って、「右投左打」の比率が高いんですよ。
で、左打者の多さもですけど、良質の左打者自体もおのずと一定数いるので、それ故に「左のワンポイント」のニーズが大きいんですよね。
いまでも例えば、「高梨雄平(巨人)」「島本浩也(阪神)」が特にこのタイプといえます。尤も高梨は普通に「勝利の方程式」を務めることもしばしばであり、実はプロ入りから現在まで8年連続で「10ホールド到達」を継続中ですので、なおさらすごいことといえます。
話をいったん、増田・益田に戻しましょう。
増田と益田は、実はいくつもの共通要素を持ってます。
どれほどファンに批判されても、あざ笑いの対象にされても、スランプに陥っても、ビハインド時などに配置転換されても、ただひたすらに勝利のために投げ続けた。
この記事の執筆時点で、通算での救援登板試合数、増田が「557試合」、益田が「744試合」(増田は別途で先発が2試合あります)。
2人共に、「通算での救援登板試合数の球団記録」。
2人共に、球史に残る名救援投手であると、称賛の想いです。
これがどれほどすさまじいことか。益田は勿論ですけど、増田も「通算で500試合」「『セーブ+ホールドの合計数20』を8回」って、ほとんどの救援投手はそこに辿り着くまでに、衰えや大怪我でマウンドを去るのです。
確かにラスト2年は、「こんなはずではなかった」の終わり方であったかもしれない。ですけど、(かつての鹿取、潮崎、豊田は別格としても、)「俺達」とネタ扱いされがちの埼玉西武の救援投手の中でも、少なくとも増田は、「良質の救援投手」「記憶に残る救援投手」であったといえるよ!と声を大にして伝えたいです。
そう、確かに、増田は「俺達」の象徴的な存在の1人であったかもです。
ですけど、「救援登板試合数『557』」という数字は、それほどにすさまじい努力をずっと続けてきたから、積み上げてきたからだと。
そして、いつの日か、「557」という数字(引退試合が救援登板になるならば「558」ですが)が破られるとき(更新されるとき)を、増田自身がきっと望んでいると想像するのです。勿論、「194セーブ」が更新されるときをも含めて。
すごさでいえば、益田はなおさらとてもすごいと感じてます。
今季こそ、序盤の不調やチーム事情もあって、登板試合数が抑えめですけど(執筆時点で「41試合」。残り試合数を考慮すると、「45~46試合程度」でのフィニッシュと想像です)、いま「13年目」ですけど、プロ入り1年目から昨季までの12年間のうち、「救援数50試合」をクリアが実に「11回」、つまり「50試合ラインを逃した」のはわずか「1回」のみです(2017年、6年目)。
このわずか1回である2017年も、理由は不調であって負傷ではない。
つまり、大きな負傷離脱が1回もない感じで、「35歳、13年目」「744試合」まで辿り着けてる、これが益田のすごさです。
これこそまさしく「タフネス」「強心臓」の証明です。どれほど称賛してもし切れないほどですと。
で、入団から7年目である2018年までは、年により起用法が一定していませんでした(8回を務めるセットアッパーが多かったが、抑えの年[2013年]や接戦ビハインド時[2015年]もあった)。抑えに固定になったのは2019年、30歳のときです。
そう、2019年からの6年間で「180セーブ」を積み上げて、いま、このnote記事の執筆時点で「241セーブ」、つまり(「名球会ライン」「(事実上の)野球殿堂ライン」といえる)「250セーブ」まであと「9セーブ」、つまり「頂上が見える」ところまできました。
自分にとって、益田は特に好きな選手の1人だからも正直ありますけど、ただシンプルに、1人の野球ファンとして、「努力の人間」「利他的な人間」だからこそ、「あと9セーブ」、届いて欲しい、最高の景色へと!
2019年オフ、つまり抑え定着の1年目のオフ、熟考の末に「生涯千葉ロッテ」を決断したこと。当時、阪神ファンの立場としては、益田はどうしても欲しかった、来て欲しかった。ですけど、その後の益田の輝き・活力をとおして、「よかったよ、残留でよかったよ…」と感じるまでに、時間は掛かりませんでした。
ですけど、益田が抑えに定着してからでも、逆境がなかった訳ではないです。益田はいわゆる「劇場型」で、いわば「最終的に(走者を本塁に)返さなきゃいいんでしょ?」タイプの抑え投手です、そのためWHIPは意外と高めであったときもあります。
そのような中で、千葉ロッテに「特大のプロスペクト」が入団しました、そう、「佐々木朗希」です。
圧倒的な球速。それも、ただ球速があるだけでなくて、球威もとても高いレベルです。
これに加えて、140kmを超える高速フォーク(それも、速さと落ち幅を併せ持つ。このタイプの場合、多くはSFFですが、佐々木の場合はフォークであることがすさまじいのです)、切れ味鋭いスライダー。
球種自体は多くはないですけど、3つの球種の質のいずれもが球界最高レベルです。
その一方で、「疲れやすい体質」。これをどう解釈するのか、及び、どう克服できるのか。いわば「長所と短所がはっきりしている投手」です。
最終的には、佐々木朗希は「先発投手」での育成になり、現在でもそうです。
いまの吉井理人監督は、「『数字上のエース』『瞬間最大風速的なエース』は佐々木朗希かもだが、『真のエース』は小島である」とよく言及してます。これは確かにそうで、「WHIP」「FIP」「TRA」でみれば、「佐々木朗希≧小島」です、ですけど稼働率という意味での「投球回数」でみれば、「佐々木朗希≦小島」であると。
そう、小島って、「小川泰弘(東京ヤクルト)」に相通ずるんですよね、年間のWHIPでだと「先発2~3番手」「10勝10敗」の感じですけど、でも「大きな負傷なく年間を完走できる」「状況次第で、120球程度投げて欲しいでも対応できる」、これって確かに監督の立場に立つととても有難い存在だよねと。
そう、自分が監督あるいはGMならば、佐々木朗希は、どこかのタイミングで「抑え投手への転向」を決断したとはっきりといえます。最初は先発でするけど、自分ならば「2021年シーズン(佐々木朗希の「1軍での1年目」終了時)の終了直後に、「8回に益田直也-9回に佐々木朗希」での「勝利の方程式」の形成を判断してたと。
なぜって?そうすれば、相手は「ああ、(千葉マリンでだと)7回裏の終了時点でリードできてないと、ほぼ負け確定だわ」と、精神的に大きなプレッシャー(重圧)をかけられるからです。それに、「佐々木朗希が1イニング限定ならば、そうはまず打たれるはずがない(であろう)こと」、しかも「佐々木朗希が9回に登場となれば、集客にも直結が見込めること」。メリットがいくつもあるからなんですよね。
ですけど、千葉ロッテ球団、井口資仁前監督、吉井理人監督は、「佐々木朗希は先発2番手(数字的にはエースと同義といえるが)、益田は抑え」を貫いた。あのとき(特に、2021年オフや、2022年のシーズン中)、「佐々木朗希を抑え」の決断がなされていたら、いまの益田はいなかった訳です。
(尤も2022年は不調に苦しみ、シーズン後半に球団は「ロベルト・オスナ[現ソフトバンク]」という元MLBの超大物の抑えを電撃補強で、抑えの座から陥落。この時点で「182セーブ」、そこから益田は[オスナの残留交渉に失敗したの追い風要素もあるとはいえ]「抑えの座を奪い返した」になり、現在に至ります。)
そしてこの瞬間、益田は「250セーブ」、つまり「野球殿堂・名球会という最高到達点への挑戦権の切符」を、名実共に勝ち取った。そしてそれに答えた益田は、セーブ数を積み上げて、2023年6月16日に「200セーブ」、2024年6月26日に「228セーブ(ロッテの球団記録)」にそれぞれ到達。
そしていま、「241セーブ」。「あと10セーブを切った」で、いよいよ「頂上の景色がみえてきた」ところまできました。
今季は、大卒4年目である鈴木昭汰が急成長で、セットアッパー(8回)に定着どころか、抑えの座を伺うほどになっています(現時点で「WHIPが1.01」)。8月には、ダブルストッパー的な起用の場面もありました。
ですけど益田は、8月24日以降は一気にギアが上がってきた感じで、直近では7試合連続無失点中、WHIPも「1.03」と、抑えとして良質の数字です(尤も直近7試合のうち、セーブはわずか4試合。つまり「ロッテ打線の貧打ぶり」が併せて伝わる感じですが…)。
このnote記事の執筆時点で、ロッテは「ラスト10試合」。そう考えると、益田が今季で積み上げられるセーブ数は、恐らく「3~4セーブ程度」と想像です。「3」と仮定して、「あと6セーブ(244セーブ)」で、来季である2025年シーズンの突入になります。
「年齢的な衰え」「若手・中堅の突き上げ」との戦いではありますけど、でも自分は信じてる、益田が「250セーブの景色」を叶える瞬間を!そう強く伝えたいです。
そう、確かに、岩瀬(407セーブ)、高津(286セーブ[日米通算でだと313セーブ])、佐々木(252セーブ[日米通算でだと381セーブ])に比してだと、華があるとはいえないかもしれません。
岩瀬は「スライダー」「シュート」、高津は「シンカー」、佐々木は「フォーク」という、「わかりやすい魔球」をそれぞれに持っていましたから。
ですけど、益田は「最後まで絶対にあきらめない」「怪我をしない」、この意味での才能(勿論これは「努力し続けられる才能」をも含めてです)が突出しているといえること、それに益田の「シンカー」「カットボール」は、「打てそうで打てない、良質の球種」といえます。
そう、抑えって、結局は「走者を返さなければいい」「最終的に勝てばいい」のです。そう考えるとなおさら、益田のような抑えだって、1つの形といえるじゃない、と自分は感じるのです。
「『5年以上連続』での『救援登板数50試合以上』」の到達者が「19人」、「『通算7回以上』での『救援登板数50試合以上』」の到達者が「14人」。
そう、「救援投手の全盛期寿命は『5年程度』」。過酷な準備、人一倍の姿勢がとても重要!だからこそ、救援投手が最大級にリスペクトされる社会であって欲しいです!
で、です。今回のnote記事で、実は最も強調して綴らせて頂きたかったこと。
いまリンク添付させて頂いたのは、「登板数 歴代」で検索をかけたら最初に出てきたサイトで、「NPBで通算300試合以上の登板試合数の投手の一覧」が載っています。
ですけど、今回自分が綴りたいのは、「救援投手」です。ですので、「救援投手としての登板試合数」に特に注目したくてと。
そしてその中でも、今回特に光を当てたい指標があります。
今回特に強調させて頂く指標である「『5年以上連続』での『救援登板数50試合以上』」。
実はこの指標は、正式な指標ではありません。ですけど、歴代や現役のトップレベルの救援投手であるかの指標といえると考えることから、今回はこの指標を用いさせて頂きます。
調べると、到達者が想像以上に少なくて、とても驚きました。
結果を先に述べますと、この「『5年以上連続』での『救援登板数50試合以上』」の到達者、「19人」(うち外国人投手が3人)です。
では、連続年数が長い順に、示させて頂きます。
こうして調べて、とても驚きました。
正直、2つの指標共に、正式な指標ではないにせよ、もっといるだろうと思っていたんですよね(特に前者は、30人程度いるのイメージでした)。
「救援登板数50試合以上」での、「連続5年以上」または「通算7回以上」が少ないのはなぜか。理由はいくつものことが複合的にあると想像です。
今回こうして、note記事の執筆で調べさせて頂く過程で出会ったのが、2020年5月の、スポーツ報知の「中継ぎ投手は過酷なんです」というweb連載記事です。あるいは、中日スポーツの岩瀬のコラム記事も、とても参考資料になった感じです。
そう、救援投手の年間の登板試合数は、目安として「50~65試合程度」です(70試合を超えると、負傷リスクが一気に高くなる)。
ですけど、そう、特に「抑え以外の中継ぎ投手(8回でほぼ固定のセットアッパーは例外なことが多いとのことだが)」は、「いつでも登板機会があると思って準備しておきなさい」の感じであると伺います。ですので、ブルペンに入る試合数は、はっきりした資料は見つからなかったですけど、恐らくで「80~100試合程度」になるのでは?といわれてます。
近年は、連投数をできるだけ減らそうということで、「ラスト30試合」に突入するまでは、「連投数は最大で2試合まで」が目安になってると伺います。2022年頃からは、「2連投した投手を、その翌日の試合は意識的にベンチ登録外にする」ケースが、少数ですけどみられるようになってきました。
そう、救援投手の起用法が整備されてきたのは、2000年代の阪神の「JFK」がきっかけであったと先述しました。そう、佐々木、高津、あるいは潮崎哲也(元西武)の時代は、救援投手の存在自体は既にありましたが、抑え以外は必ずしも整備されてきた訳ではなかったと伺います。
そう、佐々木、高津、潮崎の時代(1990年代)は、「年間の総試合数が少なかった」がまずあります(当時は「130試合」、1997年~2000年は「135試合」。現在のように140試合以上になったのは「2001年から」です)。ですので、例えばいまだと「50試合」の救援登板試合数であるのが、1990年代でだと「45試合程度」であったこと。
それに、「勝利の方程式」が確立・整備される以前は、「先発投手がいけるところまで投げる」もですし、「救援投手のイニングまたぎ」もざらにありました。というか、1990年代でだと、「抑え投手のイニングまたぎ」もあったと伺います。
「イニングまたぎ」が非科学的である、と認識されるようになってきたのが、2010年代になってからです。これを機に、「限られた投手数をやりくりする、だから『イニングまたぎ』の方法も一案である」から、「『イニングまたぎ』を極力なくす(「ロングリリーフ投入時」「大量のリード時または大量のビハインド時」を除いて)、だから『投手の頭数が許す範囲内で、できるだけ次々と投手の頭数を注ぎ込む』」へと、救援投手の起用法が変化していったと。
そういった要素・事情がいくつも重なったことで、2000年代後半から、救援投手の名投手が何人も輩出されるようになっていったことが伺えます。
救援投手の「過酷さ」「儚さ」を象徴する存在として、いま、
「渡辺亮(元阪神)」「押本健彦(元東京ヤクルトなど)」
の2人を、リンク添付させて頂きました。
1人目、「渡辺亮」。いわゆる「JFK」に次ぐ存在として、阪神の救援投手の強力ぶりを示す存在になってきました。阪神だから接戦ビハインド時が多かったですけど、他球団ならばセットアッパー(あるいは準セットアッパー)での起用でも驚かない力量を持っていたと映ってます。
入団1年目から6年連続で「46救援試合以上」。この6年間で「332試合」、特に2年目の2008年は「23ホールド」の活躍でした。
ですけど、7年目の2013年に肩を負傷。そこからは一気に衰えてしまい、2015年に引退。最後は肩の痛みが故になのか、引退試合さえ叶えられずじまいでした。
引退時の年齢は「33歳」(大卒社会人でのプロ入りであったので)。キャリアの全てが救援登板でしたけど、ラスト3年間が負傷と衰えとの闘いに終始したこともあり、通算の救援登板試合数は「362」にとどまりました。
救いは、引退後もそのまま阪神に残れたこと(正直、口下手なので解説者ができるイメージはまるでなかったですので)。スカウトとして8年間務めた後に、今季から2軍投手コーチを務めてます。
ちなみに、阪神のいまの投手コーチは、1軍が「安藤、久保田」、2軍が「福原、渡辺亮、江草」と、5人全員が阪神で救援投手を長く務めた選手です。阪神がいかに「救援投手王国」であるかを物語っています。
2人目、「押本健彦」。高卒社会人上がりで、プロ入りは日本ハムでした。最初の2年間は先発での起用。救援投手への完全転向は入団3年目、2006年のときです。
転機になったのは、2007年オフ、東京ヤクルトへのトレード移籍です(3対3でのトレード。長くヤクルトで先発を務めた藤井を放出しての補強であったと伺います)。
で、移籍1年目の2008年、主にセットアッパーを務めて67試合に登板。
その後も、2012年までの5年間の全てで「49試合以上に救援登板」、このうち「20ホールド到達が3回」。投球内容は必ずしも安定していた訳ではなく、いわば「(再生工場的なヤクルトのチームカラーに符合ともいえるが)ヤクルトのチーム事情から、タフネスである押本が特に必要とされた」要素は正直あります。
ですけどそれでも、2008年~2012年の5年間で「307救援試合、100ホールド」のフル回転ぶり。スライダーの切れ味、ポーカーフェイスの投球ぶりも印象的な投手でした。
ですが、衰えは突然にやってきてしまった。ラストの2年間で一気に成績を落としてしまい、「2014年、32歳」のとき、戦力外通告という形での引退に。つまり、引退試合さえ叶わずの終わり方でした。
通算の救援登板試合数は「414」。勿論、充分にすごい数字なのですけど、全盛期の輝きを思えば、500に届いても不思議ではなかったかなと。
引退後は、プロ入りから最初の4年間を過ごした北海道日本ハムで打撃投手を務めているとのことです。
あるいは、「久保田智之(元阪神)」「浅尾拓也(元中日)」。
久保田は2007年に「90試合」、浅尾は2011年に「79試合」、それぞれ救援登板をしています。久保田の「90試合」はNPB記録であり、野球ファンの間では「絶対に破られてはいけない記録」とされています。
なぜか。久保田は「90試合」がきっかけで、全盛期寿命は29歳で終わったこと(90試合登板の以降の意味でも、3年後の2010年まで全盛期を堅持できてはいたが、負傷離脱の時期もあった)。
浅尾は「79試合」がきっかけで、翌年から「怪我および衰えとの闘い」になったこと。全盛期で輝けたのは、「79試合」の年である2011年までの4年間であり、この2011年が「27歳」のとき、つまりそこで全盛期寿命が終わってしまいました。
浅尾は引退試合を叶えることができましたが、久保田は最後は肩の負傷で事実上の再起不能に陥り、引退試合を叶えられずの終わり方でした。
表現が適切かは正直わからないですけど、いわば「久保田、久保田、雨、久保田」といえる起用法。
そう、久保田、浅尾の全盛期の輝きは「太く短く」であっても、その輝きは後世に語り継がれ続けると感じてます。ですけど一方で、「75を超える救援登板試合数」が、選手生命を大きく縮めた感じは否めないのではと。
救いは、久保田も浅尾も、引退後ずっと球団に残り続けていることです。
指導者として「夢の続き」を追い求め続けられていること、「よかったね」ととても強く感じます。
そう、「渡辺亮」「押本」、及び「久保田」「浅尾」を、いま象徴的な存在として挙げさせて頂きましたけど、NPBの救援投手って、その全盛期寿命は「5年程度」です。
データ的な積み上げで「5年程度が全盛期時間」とわかってきたので、2010年代に「セイバーメトリクス」という統計技術の急激な発達が起きたことも手伝って、2010年代後半頃からは、「救援投手は5年程度が全盛期時間」を見越したチームづくりをする球団が出始めてると映ってます。
そう、救援投手の全盛期寿命が5年程度、その間の全てで50救援試合に到達したと仮定しても、「50試合×5年=250試合」です。
そう考えると、増田の「557試合」、益田の「744試合」は、「とてもすさまじい数字」であることが恐らく伝わるかなです。
とりわけ、益田。救援試合数の「744」を上回る投手は、
「岩瀬(1001)」「宮西(867)「五十嵐(823)」「藤川球児(783)」
この4人しかいない、つまり益田の「744救援試合」は現時点で「歴代5位」です。
しかも益田は、プロ入り13年間で、大きな負傷離脱が「ゼロ」であること。
確かに、抑えとしてはやや劇場型であるかもです。ですけど、準備が過酷といわれる救援投手を13年間ずっと務め続けてることが、どれほどのタフネスぶりであるのか、その意味で益田は「球史に残るスペシャルな抑え投手」といえます(しかも抑えに定着したのは30歳になってから、つまり全盛期を過ぎ始めても不思議ではないときからです)。
だからこそ、益田、恐らくそう遠くないときに実現になって欲しい「250セーブ」到達の瞬間は、考えられる最大級の称賛であって欲しい!、そう強く伝えたいのです。
そして、9月28日、増田の引退試合。
1人の野球ファンとしては、救援での引退登板であって欲しいです。
(試合展開次第ではありますが、例えば7回あたりとか。)
「557救援登板試合」「194セーブ」、いずれも「埼玉西武の球団記録」。
「引退登板を救援起用で」と願うのは、最後も救援投手として終えさせて欲しいからです。
「ピッチャー、増田達至」とコールされて、盛大に拍手で迎える。
で、登場曲(ベリーグッドマンの『ライオン』とのこと)が流れる。
12年間、どれほどの逆境でも、西武ドームのマウンドにずっと立ち続けたことへの感謝を。
「ありがとう、燃え尽きるこの瞬間を、目に焼き付ける」、そのような引退試合であって欲しいと強く願うのです。
そう、「益田及び増田のすごさを知って欲しい」ことが、今回のnote記事執筆の大きなきっかけでしたけど、いつか、1人の野球ファンとして、「救援投手のすごさ」をテーマとする記事を綴りたい、と感じてたんですよね。ですので今回、「やっと文章にできた」が正直な想いです。
救援投手って、「チームのために」「応援している人間のために」って仕事であると自分は映ってるんですよね。だからこそ、その「野球に向き合う姿勢」が、観ている人間の心に響くと映る感じで。
だからこそ、救援投手が最大級にリスペクトされる感じであって欲しい!そう、救援投手の地道な頑張りがあるから、本塁打や盗塁がなおさらの輝き・華やぎを放てる!、自分はそう強く感じているのです。
ありがとうございました。そして、そう遠くないうちに、「益田直也、250セーブ到達」を「現実の景色」にできることを信じて!
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