
あなたは何を盗んでいる?──無意識の欲望と“盗むな”の本当の意味
第1章:イントロダクション──「盗む」という行為の再定義
私たちは幼い頃から「盗んではいけない」と言われて育ちました。誰しもが当然のように、この道徳的戒めを常識として受け入れています。しかし、一度立ち止まって考えてみると、そもそも「盗む」とは何なのでしょうか? そして、それはいったいなぜ「いけない」のでしょうか? 現代社会のルールをかいま見ると、そこには民法や刑法などの法律的観点、社会的信用や個人間の関係性、さらには経済活動の円滑な維持といった複数の要素が複雑に絡み合っています。しかし、ここでスラヴォイ・ジジェク的な思考を導入すると、こうした常識的な前提が必ずしも「自然なもの」ではなく、ある種のイデオロギー装置によって支えられている可能性が浮かび上がってくるのです。
ジジェクがしばしば指摘するように、社会に広く共有されている「当たり前の価値観」や「常識」は、実は批判的に検証されることが少ないまま、私たちの思考や行動を縛ってしまう傾向があります。「盗むな」という言いつけも、その典型例かもしれません。たとえば、「盗む」という概念は「所有」という制度と切り離せません。もし世界に所有という制度が存在しなければ、理論上「盗む」という概念そのものが成り立たないからです。「盗んではいけない」という規範は、「何かを所有することは正当であり、それを侵害してはならない」という所有権の正統性を前提としています。しかし、歴史をさかのぼると、いわゆる「私有財産制」の成立過程には、暴力的な囲い込みや植民地支配、あるいは一方的な権利の主張など、現代の視点から見れば問題のある行為が多数含まれていたことも事実です。それでも、私たちはこうした事実を普段の生活ではあまり意識しません。「所有」そのものが当然だとされているからこそ、「盗むこと」もまた、当然のように悪だとみなされているのです。
では、「なぜ盗むことが悪なのか」という問いを突き詰めるとどうなるでしょうか? 法的には「他人の所有物を勝手に奪う行為」であり、国家はそれを処罰の対象としています。一方、道徳的には「他者を傷つけること」「他者の権利を侵害すること」として非難されます。多くの人は、「盗むと社会が混乱に陥る」「盗まれた人が困る」「信頼関係が損なわれる」といった理由を挙げるでしょう。それ自体は理にかなった意見です。しかし、ジジェクの視点を借りるなら、我々はこう自問してみる必要があります。「なぜ、混乱や損失が発生してはいけないのか? それは本当に普遍的な正義感によるものか? あるいは、社会が維持している秩序を崩さないための方便か?」と。
端的に言えば、「盗む」とは既存の所有権を前提としたルールに対する挑戦です。この挑戦が、単に道徳的に非難されるだけでなく、法律によって強く規制されている事実は、「盗みはいけない」という規範が、社会秩序を守るための重要な装置であることを示しています。しかし、ジジェク流に言えば、それは「本当に道徳的に正しいから」というよりも、「既存の支配関係や財産の分配構造を揺るがさないため」に強固に維持されているのではないか、という問いを発することができるわけです。たとえば、歴史上の植民地支配や資源略奪を公然と行った国家は、往々にしてそれを「正当化」するための法や理論を整備しました。強者が他者のものを奪うとき、それはしばしば「開拓」や「発展」の名の下に行われ、結果的には「盗み」ではなく「合法的な取り引き」とされてきた。ここに見られるのは、「何が盗みで、何が盗みでないのか」を決めるのは、最終的には権力構造だという冷徹な事実です。
さらに言えば、「盗む」という行為における心理学的側面も見逃せません。人間は、「禁止される」とかえって興味をそそられる生き物です。子どもが「お菓子を勝手に食べてはいけません」と言われると、どうしても手を伸ばしたくなるように、「盗み」という行為もまた、禁止されるからこそ倒錯的な魅力を放つ場合があります。ここで参考になるのが、ジジェクがたびたび言及するラカン派精神分析です。ラカンによれば、欲望は常に「禁じられたもの」に向かう性質があり、それが人間の情動や行動を複雑に揺さぶります。盗みが「いけないこと」であるほど、そこには特有のスリルや征服感が付与される。つまり、法律やモラルのレベルで強く抑圧される行為こそ、人々の無意識を刺激する潜在的な欲望の対象となり得るわけです。
こうした視点から考えると、「盗むな」というメッセージは単なる社会的・道徳的ルールというよりも、私たちの欲望を管理し、社会秩序を保つための強固な抑圧装置として機能している面があると言えます。もちろん、このことは「だから盗みを肯定せよ」と言っているわけではありません。ジジェクが繰り返し強調するのは、「われわれが当たり前だと思っている規範や常識を疑ってみるべきだ」という姿勢です。盗みを糾弾すること自体は正当でしょう。しかし、その背後にある「所有権」や「社会秩序」の正統性を一度は疑ってみることも、思考を深めるうえで重要なのです。それらがどうやって成立したのか、あるいは、どのように正当化されてきたのかを問い直すと、私たちが疑いなく信じている道徳や法的ルールが、実は歴史的・政治的・経済的な文脈に大きく左右されていることが浮かび上がってきます。
革命や社会運動の歴史をひもとけば、「略奪」という行為が「正義」として位置づけられた例は少なくありません。フランス革命の際、農民たちが貴族の土地や財産を奪い取ったのは当時の権力構造に対する抵抗であり、新たな社会契約を目指す大義名分のもとで正当化されました。ロシア革命でも、資本家層や貴族層の財産は「人民」によって接収され、これもまた一種の「盗み」と表現できなくもありません。ところが、革命という形で政権が切り替わると、今度は接収した側が新たな権力を確立し、そこで所有権を再編成するわけです。つまり、「盗む」という行為でさえ、特定の政治的文脈では「正義の実行」と言い換えられるし、体制が変わればそれが新たな法や秩序の基盤になることすらあるのです。要するに、「盗み」が絶対的に悪なのかどうかは、実は常に歴史的・政治的な観点から左右されてきたと言っても過言ではありません。
このように「盗む」行為について考え始めると、道徳の次元を超えて、法や経済、心理学、歴史といった領域が連鎖的に絡んでくるのがわかります。そして、ジジェク風の思考を続けるならば、「なぜ盗んではいけないのか?」という素朴な問いを突き詰めることで、我々が普段何気なく前提としている社会の仕組みそのものを根本から疑わなければならない、という結論に至るかもしれません。ジジェク流の語り口を真似るなら、「盗みは悪い」と誰もが口を揃えて言うが、その当たり前の背後には巨大な権力や歴史的暴力の痕跡が潜んでいる。そこを暴き出すことが、我々の思考を更新するための最初の一歩ではないでしょうか。
もちろん、こうした視点は非常に挑発的であり、場合によっては道徳や法体系そのものを否定するかのように聞こえるかもしれません。しかし、それがジジェクのような批評家の真骨頂でもあります。彼が提案するのは、「社会や法律が間違っているのだから、盗みを推奨しよう」という乱暴な結論では決してありません。むしろ、「なぜそれを『悪』と呼ぶのか」「なぜその行為が『社会の混乱を招く』とされているのか」を批判的に見つめ直すことで、新たな問いと可能性を開くことができるのです。本書では、こうした問題意識をさらに深めるべく、次章以降で「盗み」にまつわる具体的事例や歴史的経緯を取り上げながら、法的・社会的・心理学的なアプローチを多角的に試みたいと考えています。「盗むな」という強固なタブーを貫くことで守られているものは一体何なのか? そして、それを乗り越えた先に、私たちはどんな未来や社会像を描くことができるのか? これらの問いを手がかりに、今当たり前だと思っている規範や制度の根底を照らし出してみたいのです。
以上、第1章では「盗む」行為を取り巻く常識や道徳、法的規範をスラヴォイ・ジジェク的に再定義する試みとして、まずは問いを提示しました。次章以降では、社会構造の歴史的背景や、実際の盗みにまつわる多様なケーススタディ、さらには欲望と禁止が生み出す人間心理の動態などを探りながら、「なぜ盗んではいけないのか?」という素朴な疑問をさらに掘り下げていきます。単なる「規範の押しつけ」で終わらせず、この問いを入り口にすることで、私たちは社会の奥深くに存在する本質的な歪みや矛盾を照らし出すことができるかもしれません。ジジェクの挑発的な問題提起を意識しながら、あなた自身の思考を少しだけ逸脱させ、一度は疑う必要すら感じなかった「当たり前」に目を向けてみてほしい。そこには、おそらく思わぬ発見と、新しい思想的刺激が待ち受けているはずです。
第2章:歴史と所有権──暴力が生み出す正当化のプロセス
前章では、「なぜ盗んではいけないのか?」という素朴な問いが、実は所有権の正当性や社会の支配的イデオロギーを揺さぶる問題であることを指摘しました。今回はこの問いをさらに深めるべく、歴史的観点から「所有」という制度がいかにして成立し、またいかにして「正当化」されてきたのかを見ていきたいと思います。スラヴォイ・ジジェク的な批評の手法を借りるなら、我々が当たり前に信じている「私有財産制」は必ずしも自然発生的ではなく、むしろ暴力と排除を内包したプロセスの産物かもしれません。そこにこそ、「盗む」ことを絶対悪とみなす現在の価値観を根底で支える、隠された力学が潜んでいるのです。
1. 暴力としての所有──囲い込みの歴史
イギリスの近代史を振り返ると、「エンクロージャー (囲い込み)」と呼ばれる動きが顕著に見られます。もともと中世ヨーロッパの農村には「共有地」という概念があり、村人たちが自由に家畜を放牧したり、薪を採取したり、農地を分かち合う形態を保っていました。しかし、17世紀から18世紀頃にかけて、有力な地主や貴族たちがこの共有地を囲い込み、私有化していく流れが加速します。彼らは新しい農業技術や効率的な生産様式を導入することを大義名分に掲げましたが、その実態は収益性向上のために従来の共同体的な土地利用を排除する「暴力的」な再編成でした。そして、このエンクロージャーこそが、「財産は個人が所有するのが当然である」という近代的な所有観を大きく後押ししたのです。
ジジェクの視点を導入するなら、この囲い込みには明白な「イデオロギー的隠蔽」が働いていると言えます。地主たちが行った行為は、広義には「他者が使っていた土地を一方的に取り上げる=盗む」ことと区別がつきません。しかし、それは当時の新たな法令や政治的権力によって支えられ、「正当な権利」として承認されたわけです。結果的に、土地を失った農民は都市部へ流入し、労働者階級として産業革命を支える存在となりました。ここで興味深いのは、囲い込みによる強奪が「進歩」や「効率化」といった名のもとに肯定され、それに抗う人々の暮らしや文化は「旧弊」として見なされた点です。つまり、当時の支配的イデオロギーが「私は土地を所有する」「あなたはそれを奪われるかもしれない」という関係を構造化し、それを道徳的・経済的に正しいものとして固めていったのです。
2. コロニアルな略奪と合法の境界
エンクロージャーによる国内の所有秩序の再編が進む一方、ヨーロッパ諸国は同時に海外へと手を伸ばし、植民地支配を拡大しました。スペインやイギリス、フランス、ポルトガルなどがアメリカ大陸やアジア、アフリカに進出し、そこに暮らす人々の土地や資源を奪取した歴史は、ある意味で「大規模な盗み」とすら言えるでしょう。しかし、これもまた現地住民を「未開の人々」と位置づけ、彼らの生活様式を否定したうえで「文明化の使命」を掲げて進められたのです。ここでも「盗む」という行為が、「文明」「キリスト教化」「商取引」「貢献」などの言説によって正当化され、国際法や外交条約によってお墨付きを与えられてきた点が見逃せません。
ジジェクがよく取り上げるのは、こうした行為の背後にあるイデオロギーの巧妙さです。植民地支配は現地の資源や人々を「略奪」する行為であるにもかかわらず、それを推進する側は「互いに利益をもたらす関係だ」と語り、現地住民が従わなければ「反逆者」「野蛮人」として処罰しました。つまり、何が「盗み」で何が「正統な取引」かは、常に権力を握る側が作り上げる物語の中で決まってきたわけです。後世から見れば明らかな略奪行為であっても、当時は立派に「合法」だった──ここに所有権と暴力の密接な関係が浮かび上がってきます。言い換えれば、「盗むな」という規範を声高に叫ぶ一方で、自分たちの都合の良い略奪は「進歩」や「発展」のレトリックによって隠蔽されてきたという構図があるのです。
3. 「国家」と「所有」の共犯関係
さらに、国家という仕組みそのものが、所有権の正当化と深く結びついています。国家は主権や領土をもとに自らの権力を行使しますが、そこには常に「公」と「私」の区分があり、その境界線を引くのもまた国家の役割です。たとえば「公共の福祉」や「公共事業」の名目で、国家は私有地の収用すら正当化できる法的仕組みを整えています。現代社会では、これを単に「公共性のための必要悪」として認識することも多いでしょう。しかし、ジジェク的に考えれば、そこには所有権をめぐる根源的な暴力が依然として潜んでいることになります。
なぜなら、国家がその権力を行使する際、往々にして暴力装置としての警察や軍事力が後ろ盾となっているからです。デモや抗議運動が激化した場合、国家は暴力によって治安を「回復」することも辞さない。これは裏を返せば、「法に違反する奪取行為=盗み」を取り締まるためには、それ以上に強大な力が常にスタンバイしているということでもあります。つまり、「所有権を守る」という名目のもとに、実は国家による暴力の潜在的行使を是認しているわけです。ジジェクの皮肉を借りれば、この構図は「盗むな」と言いながら、いざとなれば国家自身がより大きな「奪う権利」を発動することを暗黙に認めているとも言えます。
4. 宗教と道徳が果たした役割
ここまで所有権の歴史をざっと俯瞰してみると、その背景には常に暴力と排除があることが浮き彫りになってきました。しかし、それだけでは所有権は社会に広く浸透しません。そこにもう一つ欠かせない要素があるとすれば、それは宗教や道徳の果たした役割でしょう。たとえば、キリスト教圏では「隣人愛」や「博愛」の精神を説く一方で、「隣人の所有を欲してはならない」という戒めも非常に重視されてきました。これは一見すると、社会の善意や相互扶助を促進するための教えのように思えますが、ジジェク的に言えば、そこには「他者の所有を犯さないこと」を絶対視するイデオロギーが潜在的に埋め込まれています。
実際、「盗むな」というキリスト教的な戒律が、ヨーロッパ各地で人々を教育し、道徳的秩序を確立するうえで大きな役割を果たしました。それ自体は悪いことではないかもしれません。しかし、その一方で、植民地支配や囲い込みの正当化にもこの道徳観が巧みに援用される場面が少なくありませんでした。例えば、「彼ら(現地住民)が真に神を知っていないから、物の正しい所有観を理解できない」という理屈がまことしやかに流布され、結果的には「我々(侵略者)が所有権を教え、秩序をもたらすことが正義である」という論法へとつながったのです。ここに見られるのは、道徳や宗教を利用して「盗む」行為を一方的に悪と断罪しつつ、自分たちの所有を拡大するプロセスを正当化するイデオロギーのメカニズムです。
5. 歴史的暴力の上に築かれた「当然」の帰結
こうして振り返ってみると、「所有権」や「公と私の区別」、そして「盗む」ことの禁止が、どれほど多くの暴力と権力闘争の帰結として生まれてきたかが見えてきます。そして、現代の私たちはその長大な歴史を単に「当たり前のこと」として受け入れているわけです。ジジェクがしばしば言うように、「当たり前」や「自然なもの」と思い込んでいる背後には、必ずといっていいほど歴史的・社会的文脈が隠れている。そこを無視して道徳や法を絶対視するのは、イデオロギーの罠に嵌まり込む第一歩だと言えます。
もちろん、だからといって「所有権なんて廃止せよ」「盗みを推奨しろ」と言うのは、あまりに乱暴な議論でしょう。ジジェク自身も、現実の政治や社会構造を否定するだけでは意味がないと繰り返し主張しています。むしろ大切なのは、「所有」という制度をめぐって、歴史の過程でいかに多くの暴力と不正義が積み重なってきたかを認識することです。そうすることで、「盗むな」という規範が一見すると自明の真理に思える一方で、実際には社会が築き上げたきわめて人為的なルールであるという理解が深まります。
6. 結論──所有権のイデオロギーを自覚するために
第1章でも触れたように、本書が目指しているのは「盗みを容認する」ことではなく、むしろ「なぜ盗むといけないのか」という問いを突き詰めることで、所有と暴力の背後にあるイデオロギー的仕組みを浮き彫りにすることです。エンクロージャーや植民地支配をはじめとする歴史的暴力の系譜を眺めると、「盗む」ことが一貫して否定される一方で、「合法的な奪取」は積極的に推進されてきた事実が見えてきます。このパラドックスこそ、ジジェク流の批判の要となる部分です。
私たちが現在の社会秩序を当たり前だと思うのは、「盗みを禁止する」という規範が、単なる道徳や法律を超えて深く内面化されているからにほかなりません。けれども、こうした「内面化」を疑い、歴史と政治の文脈を読み解いていくと、そこには「盗むな」という言葉が常に支配者側に都合の良い形で使われてきた構図が存在する。それを知ったうえでなお、私たちはそれでも「盗まない社会」を望むのか? もしそうであるなら、なぜそれを望むのか? その答えを得るためには、一度は自分たちの道徳心や法的規範が暴力的に形成されてきた歴史を直視しなければならないのではないでしょうか。
こうした問題意識は、次章以降で扱う「心理学的アプローチ」や「現代社会における情報盗難」の問題へと接続します。所有とは何か? それを侵害することがなぜいけないのか? そして、それを守ろうとする仕組みにいかなる暴力や権力構造が隠されているのか? ジジェク風にまとめるなら、我々は「盗むな」という常識を免罪符にしながら、実は社会に深く根を下ろす不平等や暴力を見過ごしているのかもしれないのです。道徳や法の根源を疑うことは、しばしば不快で危険な行為です。しかし、その不快感や危険こそが、新しい問いと発想を生み出す可能性を秘めている──まさにジジェクが強調する「イデオロギー批判」の意義が、そこにあるのではないでしょうか。
第3章:心理学的アプローチ──欲望をかき立てる「禁止」のメカニズム
前章では歴史的観点から所有権の正当化プロセスを考察し、その裏に潜む暴力やイデオロギーを浮き彫りにしました。しかし、「盗む」という行為を理解するうえで見逃せないもう一つの側面があります。それは、私たちが抱く「欲望」の働きと、「禁止」がもたらす倒錯的な魅力です。社会や法が「盗むな」と強く訴えれば訴えるほど、なぜか人々の内面には「してはいけないこと」をしたい衝動がくすぶり続ける。ここには、人間の深層心理を扱う精神分析の視点が欠かせません。ジジェクはたびたびジャック・ラカンの理論を引用し、禁止されることで却って高まる欲望の構造を鋭く解説してきました。本章では、そんな精神分析的アプローチを手がかりに、「なぜ盗みはいけないのか」を問う私たちの欲望がいかに複雑なメカニズムで作動しているのかを探ってみましょう。
1. ラカン派精神分析と「禁止」のパラドックス
フロイト以降の精神分析学では、人間の欲望は「抑圧」と「禁止」という装置と常に表裏一体であると考えられています。ラカンにおいては「象徴界」「想像界」「現実界」という三つの次元がしばしば語られますが、とりわけ我々の欲望は「言語や社会的ルールによって規定される象徴界」から逃れられないと言われています。ここで言う社会的ルールこそ、まさに「盗むな」「人を傷つけるな」「秩序を乱すな」というような禁止命令の数々を含んでいるわけです。そして、ラカン的な視点に立つと、こうした「禁止」は単に外部からの強制というだけでなく、私たちの欲望構造を形成する不可欠な要素と見なされるのです。
たとえば、幼児が「それを取ってはいけない」と親から言われた瞬間、その対象物が突然魅力的に思えた経験は誰しもあるでしょう。まるで「禁止されるからこそ余計に欲しくなる」かのように、欲望が高まってしまうあの現象です。ラカン派の言葉を借りれば、これは「欲望は他者の欲望を媒介にして成立する」からこそ起きることです。禁止という形で示される「それは特別なものだ」というメッセージが、私たちの無意識を刺激し、対象に対する執着を増幅させるのです。ジジェクはこうした構造を、「法や道徳が示す禁止こそが、欲望を一層強くする倒錯を生む」としばしば挑発的に語ります。つまり、盗みが禁じられれば禁じられるほど、その行為に対するスリルや快感は潜在的に膨らんでいくというわけです。
2. 「盗む快感」と罪悪感の相互作用
では、実際に「盗む」という行為がどのように欲望を充足させるのか、もう少し掘り下げてみましょう。まず、盗みには「手に入れる」という行為と同時に、「やってはいけないことをやる」という禁止破りの快感が伴います。この快感は、ラカンが指摘する「享楽(ジュイサンス)」の一形態に近いかもしれません。たとえば、子どもの頃にこっそりお菓子を盗み食いした体験を思い起こすと、その背後には「叱られるかもしれない」という恐怖と、「誰にも見つからないでやってやった!」という高揚感が混在していたはずです。
大人になってからの盗みであっても、構造的には大差ありません。むしろ、モラルや法による禁止が強まるほど、盗みに伴うリスクとスリルは増大します。その結果、行為が成功した際の達成感は一種の倒錯的なエクスタシーすらもたらします。一方で、失敗や発覚の可能性に対する不安も同時に肥大化するため、盗みには常に罪悪感や恐怖がつきまといます。この「罪悪感」と「快感」が拮抗する状態は、人間の欲望を一層複雑に駆り立てる要因となるのです。ジジェク流に言えば、「盗む」ことによって味わえるスリルは、社会が定める秩序を違反する行為としての強烈な魅力を内包しているからこそ、ある種の中毒性を帯びる。これこそ、禁止が欲望を生み出す構図の典型例だといえるでしょう。
3. 欲望の対象aと「盗み」の矛盾
ラカンは、人間が求める究極の充足を「対象a(オブジェ・プチ・ア)」と呼びました。これは永遠に手に入らない欠損の象徴のようなものであり、人間はそれを求め続けることで欲望を維持すると考えられています。興味深いのは、「盗み」という行為が、一時的に対象aを手に入れられるかのような錯覚を与える点です。禁止されている物を自分の手にすることで、まるで社会的秩序や他者を超越したかのような「全能感」を味わえる瞬間がある。しかし、それはあくまでも一時的なものでしかありません。実際には、盗んだ瞬間に生じる高揚感はすぐに消え失せ、罪悪感や不安が襲ってきます。そして再び、人は「盗まない状態」へ戻るか、あるいはスリルを求めてさらなる盗みを繰り返すかのどちらかを選ばざるを得ない。どちらにしても、対象aが完全に満たされることはありません。
ジジェク風に言えば、この矛盾こそが「欲望の生成と失敗」の典型パターンであり、人は決して「完璧な所有」を得ることができない存在なのです。だからこそ、盗みという行為は永遠に社会から消え去ることがないとも言えるでしょう。どれだけ法整備が進み、道徳教育が行き渡ろうとも、禁止が欲望を煽る構造自体は変わらないからです。この視点に立つと、「なぜ盗んではいけないのか?」という問いに対する明確な答えは、実は人間の内面における欲望や欠損のメカニズムと表裏一体になっていることがわかります。言い換えれば、盗みの抑制は単に外部からの道徳的圧力や法的罰則だけでは達成されない。私たち自身の欲望構造をどう扱うかという内的な問題を常に抱えているのです。
4. 社会的スケープゴートとしての「盗み」
さらにジジェクは、社会が「盗み」を強く否定する一方で、それをスケープゴート(生け贄)のように扱うというパラドックスにも注目します。メディアや大衆が犯罪報道に飛びつくとき、「盗みを働いた者は道徳的に劣悪である」という断罪が一気に行き渡る光景をよく目にするでしょう。しかし、その裏には、「盗み」という行為を極端に悪とみなすことで、社会全体が持っている歪みや不平等、あるいは自分自身の抑圧された欲望を誰か特定の「犯罪者」に投影する心的メカニズムが見え隠れします。
たとえば、日常的にサービス残業や脱税まがいの行為が見過ごされている社会で、それらと比べればずっと小規模な窃盗事件が大々的に報じられることがあります。ここには、「自分や自分が属する集団が行っているグレーな行為」から目をそらし、「明確な盗み」に走った他者を糾弾することで「われわれは正しい側だ」と確認する心理的過程があるのです。ジジェクが好む言い回しを借りれば、これはイデオロギーの典型的な「自己洗浄」でもあります。禁じられた行為を犯した者を見つけることで、社会は自分たちの既存の秩序や所有権に潜む暴力性から意図的に目を背けられるわけです。結果的に、盗みそのものが社会のモラルを再確認するための「儀式」になっている面があるというのは、実に皮肉な現象と言わざるを得ません。
5. 盗みと快楽を超える可能性──「所有しない」生き方?
では、こうした「盗みをめぐる欲望の構造」はどうすれば克服できるのか? ジジェク的な言葉を使うなら、「そもそも所有しないこと」が一つの方向性として考えられるかもしれません。ラカン派理論では、人間は欠損を前提として生きる存在であり、それを無理に埋め合わせようとするほど欲望のループにはまり込むとされます。つまり、「盗む」ことで一時的に何かを手に入れたとしても、その欠損は決して完全には満たされないのです。逆に言えば、最初から「自分は何も所有しなくていい」という態度を徹底すると、盗む対象そのものが消失する、という極端な論理も成り立ちます。
もちろん、それは現実社会においては理想論でしかないでしょう。私たちは衣食住をはじめ、何らかの形で所有を必要として生きています。また、先に見たように「所有権」の考え方は長い歴史の中で固く制度化されています。それでも、近年のシェアリングエコノミーやミニマリズムの流行は、従来の「所有」への執着を相対化する動きとして注目に値します。ジジェク的に言えば、これらの動きは「資本主義システムの拡張に取り込まれた一形態」として批判もできますが、一方で「本当に必要なものだけあればいい」「あえて所有しないで豊かさを享受する」という生き方が広がれば、盗む必要性すら低下する余地があるのも事実でしょう。
6. 結論──禁止と欲望のはざまで考える「いけない理由」
こうして心理学的アプローチから「盗む」行為を見直すと、「盗みはいけない」という規範が単に社会秩序や所有権を守るための外的ルールではなく、私たち自身の欲望構造を映し出す鏡であることが浮き彫りになります。法や道徳が「してはならない」と強調することで、却ってその行為が欲望の対象になり、倒錯的な魅力を帯びてしまうというパラドックス。それは、ラカンの言う「禁止を破る快感」と「永遠に埋まらない欠損」の組み合わせによって駆動されているのです。
同時に、社会レベルでは「盗みを厳しく断罪する」行為が、むしろ社会が抱える矛盾を覆い隠す役割を果たしているケースも珍しくありません。自分自身や自分の所属するコミュニティの小さな不正や矛盾には目をつぶり、より明確にルールを破った他者にすべての責任を押し付けることで、あたかも「われわれは正しい側である」という幻想を維持するのです。ジジェクがイデオロギー批判の中で指摘してきたのは、まさにこうした「スケープゴート化のメカニズム」が社会の安定を表面的に保つ一方で、根本的な不平等や不正義を見逃す構造です。
結果的に、「盗む」という行為を真に克服するには、単に厳罰化や道徳教育を繰り返すだけでは不十分だと言えるでしょう。そこには、私たちが当たり前に信じ込んでいる「所有」の価値観や、禁止されるほどに高まる欲望の仕組みを根底から問い直す必要があります。そして、その問いは、「なぜ盗んではいけないのか?」というシンプルな疑問にこそ宿るのです。ジジェク流に言うならば、われわれは「盗むな」という禁忌をただ無思考に受け入れるのではなく、その禁忌が欲望を作り出す構造を暴露し、社会がその禁忌を利用して何を隠蔽しているのかを批判的に検証すべきだということになります。
本書の次の章では、こうした心理的側面と歴史的・社会的文脈をさらに結びつけながら、具体的な事例――たとえば現代における企業スパイ、ハッキング、情報盗難など――に照らして「盗むこと」の是非や危険性を考察していきたいと思います。単に「盗みはいけない」と繰り返すだけでは見えてこない、多角的な問題の所在に目を向けることで、私たちが本当に守るべきものは何なのかを改めて見直す契機にしたいのです。ジジェク的に総括すれば、「禁止」は人間を縛る鎖であると同時に、そこから生まれる欲望の燃料でもある。この危うい両義性を踏まえてこそ、われわれはようやく「なぜ盗んではいけないのか」の問いに真正面から向き合うことができるのではないでしょうか。
第4章:情報社会における「盗み」──見えない略奪と潜むパラドックス
これまでの章で私たちは、「盗む」という行為が単なる道徳や法律の問題ではなく、歴史的・社会的・心理学的文脈の中で多層的に成立していることを見てきました。特に前章では、人間の欲望構造や禁止のメカニズムに焦点を当てて、「盗むな」という規範が逆説的に「盗みたい」という衝動を助長する可能性について言及しました。しかし、本当に厄介なのは、この複雑な構造が情報化社会によってさらに見えにくく、かつ広範囲に拡散しつつある点にあります。具体的には、企業スパイやハッキング、情報盗難、さらにはサイバー空間を介した詐欺行為など、従来の「物理的な窃盗」とは異なる形態の「盗み」がますます増え、人々の生活や企業活動に深刻な影響を与えているのです。
スラヴォイ・ジジェク的に言えば、こうした現象は「社会が所有権を固く守りたいほど、そこを突破する行為が倒錯的な魅力を放つ」パラドックスの最新形態と捉えられます。情報社会は、まさに「所有」や「価値」の定義が劇的に変容した場であり、それに伴って「盗む」という行為の輪郭も大きく変わりつつあるのです。本章では、この現代的な「盗み」の諸相に焦点を当て、その背後にあるイデオロギー的要因や欲望のメカニズムを再度批判的に検討してみましょう。
1. データの価値と「盗み」の進化
21世紀の情報社会において、データ――顧客情報、技術ノウハウ、マーケティング戦略、個人の行動履歴など――は、新たな「資源」としての地位を確立しています。従来の農地や工場が富の源泉だった時代とは異なり、いまや巨大IT企業を筆頭に、いかに膨大なデータを収集・分析・活用できるかがビジネス優位を決定づけるとも言われます。ここで「盗む」という行為がどう進化するかは想像に難くありません。企業スパイやハッキングによる情報盗難は、「物」を物理的に奪う必要がないため、被害者が気づきにくいという特徴があります。しかも、データはデジタルコピーが容易で、一度流出すれば取り戻すことが非常に困難です。
ジジェク的視点を持ち込むと、この「見えにくい盗み」こそ、現代社会が抱える「所有権」の不安定さを如実に表していると言えます。歴史的に見れば、囲い込みや植民地支配といった「目に見える暴力」を伴う略奪行為が主流でしたが、現在では仮想空間で行われる無形の資産略奪が主戦場となりつつある。皮肉なのは、情報技術の進歩やネットワークの拡大が「自由なコミュニケーション」を促進する一方で、「盗み」をより巧妙かつ大規模に行える土壌を生んでいる点でしょう。言い換えれば、テクノロジーが所有やアクセスの枠組みを変えていくにつれ、「盗む」という行為の境界線もますます曖昧になっているのです。
2. 企業スパイとイノベーションのジレンマ
特に大企業同士の競争が激しくなるにつれ、技術情報やマーケティング手法を「盗む」行為が日常化していることは、公然の秘密に近いかもしれません。もちろん、多くの国では企業スパイや産業スパイ行為を刑法や不正競争防止法などで取り締まっています。しかし、取締りが厳しくなるほど、スパイ行為の手口は洗練され、表向きは「盗み」ではなく「正当なリサーチ」や「合法的なデータ収集」に見せかけて行われることも珍しくありません。
ここでジジェク流の批判を展開するならば、「革新的な技術やアイデアは、そもそも既存の知識や成果を『借用』あるいは『盗用』することなしに生まれるのか?」という根源的な問いに行き着きます。歴史上、多くの発明やブレークスルーは、それ以前の研究成果や情報をある種「盗む」形で飛躍した例も少なくない。もちろん、それらは「学問的引用」や「オープンなコラボレーション」として認識される場合もありますが、境界線はきわめてあやふやです。要は、どこからが「盗み」で、どこまでが「正当な利用」なのかという問題は、既存の法律やモラルだけでは明確に線引きできず、常に権力や社会的合意によって後付けで決まる面があるのです。
結果として、「盗むな」と言いながら、自分たちにとって有益な情報は積極的に吸収し、ライバル企業の動向を入手できるならそれに越したことはない、というダブルバインド(両義的な姿勢)が生まれます。イノベーションの推進と企業秘密の保護という矛盾した要求の狭間で、「盗み」を肯定するわけにもいかず、かといって徹底的に排除するわけにもいかない──そうした現代企業のジレンマを、ジジェクは「イデオロギー的な偽善」と呼び、そこに潜む権力関係や欲望の構造を鋭くあぶり出すのです。
3. ハッキングとサイバー犯罪──「所有」をめぐる錯視
企業スパイが主に「産業情報」を狙うのに対し、サイバースペースではあらゆるデータや金銭的価値を持つ情報が標的となり得ます。クレジットカード情報や口座情報の窃取はもちろん、個人情報やパスワード、さらにはSNSのアカウント乗っ取りまで、多様な形態の「盗み」が横行しています。こうした犯罪は明確に違法行為として認定されるものの、被害者が世界のどこにいるか、加害者がどの国のサーバーを経由しているかによって捜査の難易度は跳ね上がり、しばしば解決に至らないまま放置されてしまう。
ジジェクが注目するのは、これらの犯罪が「見えない暴力」として機能している点です。物理的な強制力を行使することなく、相手のデジタル資産を奪い去る。まるで誰もいないところで「窃盗」が進行し、被害者は気づいたときには手遅れになっている、というわけです。しかも、データを盗んだとしても、それがコピーであれば相手の手元には原本が残るという特殊な状況も生まれます。この「複製可能性」がもたらす曖昧さは、従来の「物を奪う」行為とは全く異なる問題を提示します。たとえば、「情報をコピーするだけであれば、盗んだことになるのか?」という、われわれがまだ法的・道徳的に十分整理できていない領域が広がっているのです。
こうした「錯視」は、「相手から何かを奪う」という感覚を希薄化させる一方で、実は個人情報や機密情報が売買される黒市場が巨大化している現実を覆い隠します。ジジェクのイデオロギー批判を当てはめれば、社会は「サイバー盗み」の危険性を声高に叫ぶ一方で、利便性やスピード、グローバルな経済競争力を優先して、十分なセキュリティ対策や倫理観の醸成を後回しにしている。つまり、「盗むな」と言いながら、その基盤となる情報インフラには次々と「盗み」の余地が増殖しているという構造的矛盾があるのです。
4. 情報盗難と欲望──「禁止」が誘うスリル
前章で触れたように、盗みには「禁止されるほどスリルが高まる」という倒錯的な魅力があり、それが人間の欲望を駆り立てる要因でもあるとしました。情報盗難の場合、このスリルがさらに異質な次元をもつことがあります。というのも、ハッキング行為には技術的挑戦という要素が加わり、「どれだけセキュリティが堅牢なシステムを突破できるか」というゲーム的な快感が伴うからです。
いわゆる「ホワイトハッカー」のように、システムの脆弱性を指摘して改善につなげることを目的とする場合もありますが、そこに明確な悪意(個人情報の売買や金銭的詐欺など)が加わると、あっという間に犯罪へと転じてしまう。しかも、現代のIT教育やプログラミング学習の普及によって、そのスキルを身につけるハードルは下がっています。社会としては「技術人材を育成する」ことを推奨する一方で、「盗みにつながるリスク」をどう抑制するのかという問題に直面するわけです。ジジェクが批判するのは、こうした「推奨と禁止の同居」がしばしばイデオロギー的に矛盾を内包している点です。技術的技能を高めろと言いつつ、それが持つ破壊力や悪用の潜在性については、「各自がモラルを守るべき」という曖昧な呼びかけに留まってしまうというわけです。
5. 見えない線引き──「フェアユース」と「パブリックドメイン」
情報社会がもたらすもう一つの大きな論点は、「フェアユース(公正な利用)」や「パブリックドメイン(公共財産)」の範囲をどう設定するか、という問題です。たとえば、著作権法の観点から見れば、他人が作った文章や画像、音楽を無断で複製・配布するのは「盗み」に近い行為とみなされます。しかし、一方で「引用の自由」や「教育・研究目的の利用」を完全に制限してしまうと、社会全体の知的進歩が阻害される可能性が高い。
これはある意味、「公」と「私」の境界線をどこに引くのか、という所有権の原点にかかわる問いでもあります。ジジェク的な観点からすれば、過度に著作権を保護しすぎると、文化や知識の共有が滞り、結果的にイノベーションが生まれにくくなるという逆説が起きる。同時に、まったく規制しない場合は創作者や発明者の権利が守られず、正当な報酬を得る機会が奪われる。つまり、ここでも「盗むな」という規範と「共有しよう」という要請が交錯し、社会はどちらも諦めきれないために曖昧なラインを引かざるを得なくなるわけです。ジジェクが言うところの「イデオロギー的ファンタジー」として、「みんなが円滑に情報をシェアしながら、誰も被害を受けない」完璧な世界を夢想する一方で、現実には絶えず権利侵害や不正コピーが起きている。その矛盾を認めずに何となくやり過ごしているのが、今の情報社会なのかもしれません。
6. 結論──「盗むな」とは何を守るのか?
こうした現代社会における「盗み」の様相を総括してみると、私たちが声高に叫ぶ「盗むな」というメッセージが、本当に何を守ろうとしているのかが一層曖昧になってきたように思えます。かつてのように「土地や財産を物理的に奪う」行為が主流だった時代と違い、情報やデータ、著作物などの無形の資産が中心となる世界では、「奪った瞬間に被害者の手元から完全になくなる」というわけではありません。にもかかわらず、社会的・法的には依然として「盗んではいけない」という規範を全面的に維持しようとしています。
ジジェク風に言えば、このズレこそが「イデオロギーが裂け目を起こしている瞬間」を示しているとも考えられます。なぜなら、「所有」と「共有」が同時に奨励される一方で、「盗み」をめぐる規範は厳格に保たれているからです。しかも、その規範を維持するために、国家や企業は膨大なコストをセキュリティ対策や法執行に注ぎ込んでいます。そこには、「データこそが新たな富の源泉である」という時代の通念があり、「これを奪われては困る」という切実な危機感がある。結果的に、「盗むな」という言葉はますます大きな声で叫ばれざるを得なくなるわけです。
他方で、この規範を強化すればするほど、人間の内面には「スリルや快感を伴う盗み」への欲望がくすぶり続ける可能性がある。企業スパイやハッカーは、いわば現代の「アウトロー」としてスリリングな物語を背負い込んでいるとも言えます。社会は彼らを厳しく罰する一方で、その破壊的スキルや行動力に密かな興味や羨望を抱いている節もある。これこそ、禁止が欲望を生成する構造の典型例でしょう。
結局、「なぜ盗んではいけないのか?」という問いに対して、情報社会は従来以上に曖昧な答えをせざるを得なくなっているのかもしれません。「奪う」行為の定義や被害の範囲が一層複雑化し、盗みそのものが大量かつグローバルなスケールで行われ、誰が加害者か被害者かすら見えにくくなっている。それでもなお、私たちは「盗むな」と言い続ける。その理由は、所有権や秩序を守るためだけではなく、「盗みは悪だ」という規範を維持しなければならないという社会的合意と、そもそも自分たちが生きる世界の基盤が危ういかもしれないという不安感が入り混じっているからではないでしょうか。
次章以降では、こうした情報社会の問題をさらに掘り下げながら、「盗む」ことの社会的コストと、それを防ぐための試みが抱える矛盾をより具体的に検討していきたいと思います。そこでは、国家の監視システムや企業の管理体制に対する批判的視点も欠かせないでしょう。スラヴォイ・ジジェク的に言えば、「われわれは盗みを防ぐためにどこまで自由を手放す覚悟があるのか?」という根本的な問いを突きつけられているのです。いずれにせよ、「なぜ盗んではいけないのか」を考える作業は、現代社会の成り立ちや未来の方向性を探るうえで、ますます避けては通れないものとなっているのは間違いありません。
第5章:監視社会と「盗むな」のジレンマ──自由を手放す代償
前章では、企業スパイやハッキングなど、現代社会における「見えない盗み」の広がりと、その背後にある矛盾を論じました。情報技術の進歩は、データや知的財産という新たな富を生み出すと同時に、「盗み」の形態をいっそう巧妙かつグローバルにしている。その結果、「盗むな」という声が高まれば高まるほど、社会全体は一層強固な規制やセキュリティ対策を求めるようになります。ここで浮かび上がってくるのが「監視社会」というテーマです。国家や企業が、あらゆる手段を用いて不正や犯罪を未然に防ごうとするとき、果たして私たちが「自由」だと思っている日常はどこまで守られているのか? あるいは、どこかで取り返しのつかない代償を払ってはいないのか?
スラヴォイ・ジジェクは、社会が矛盾に満ちた構造を抱えているほど、それを隠すためのイデオロギー装置が強化されていくプロセスを繰り返し指摘してきました。監視社会もまた、このイデオロギー装置の一形態として捉えられるかもしれません。つまり、「盗み」を徹底的に抑えこむためにこそ、あらゆる人間の行動がモニタリングされ、個々のプライバシーが徐々に侵食されていく。皮肉なことに、そうした監視の強化によって得られる「安全」は、私たちが持つはずの自由や権利とのトレードオフで成り立っているのです。本章では、その構造をより具体的に見ていきながら、「なぜ盗んではいけないのか?」の問いが監視社会の問題とどう絡み合うのかを考察してみましょう。
1. 監視社会の台頭──デジタル技術とセキュリティ
21世紀に入り、多くの国や企業はセキュリティ強化と称して膨大な監視システムを導入してきました。街頭の防犯カメラはもちろん、インターネット通信やスマートフォンの位置情報、SNSの投稿など、私たちのデジタル活動が常に記録・分析されている時代です。一部の国では、政府が個人のオンライン行動を事実上リアルタイムで追跡し、市民の信用度をスコア化するといった政策が進んでいます。こうした政策には「犯罪を未然に防ぐ」「テロリズムを阻止する」「社会秩序を維持する」といった名目が掲げられ、表向きは善なる目的であるかのように見えます。
しかしジジェク流の視点を導入すると、監視社会の拡大には「盗みが起きるかもしれない」という恐怖心が巧みに利用されている面があると指摘できるでしょう。どの国や企業も、「盗む」潜在的な犯人をあらかじめ見つけ出し、被害を最小限に抑えたいと思っています。特に情報が資源化した時代においては、一度流出したデータを取り戻すのは困難ですから、事前に「怪しい動き」を察知して防ぎたいという論理が強まるのは自然な流れです。しかし、その「怪しい動き」を判定するためには、より広範な監視とデータ収集が必要になります。結果として、監視の網は犯罪者や犯罪予備軍だけでなく、一般市民の日常生活まで覆い尽くすほどに拡大していくわけです。
2. 「盗むな」の名の下に犠牲になるプライバシー
では、こうした監視体制の強化によって何が犠牲になるのか。最もわかりやすいのは「プライバシーの喪失」でしょう。デジタル空間でのやりとりがログとして残され、企業や政府によって分析されることで、私たちの趣味嗜好や交友関係、ひいては政治的な立場や思考パターンまでもが可視化されてしまう。こうした状況は、一部の人々にとっては単なる便利さやサービス向上と結びついているかもしれません。たとえば、広告が自分の興味にピッタリ合ったものになっていくのは、監視やデータ分析が進んだ結果でもあります。しかし、その陰で「自分の行動が常にモニタリングされている」という不快感や不安を覚える人も少なくないはずです。
ここでジジェク的な問題提起をするならば、そもそも「盗むな」という絶対的な命令が、本当に私たちの幸福を増大させるのか、あるいは「監視に服従する」ことを納得させるための装置として機能しているのかを疑う必要があります。もちろん、誰もが盗まれることを望まないのは当然ですし、盗み自体を容認するわけにはいきません。しかし、その防止策として「監視を強化せよ」という主張がエスカレートすれば、結果的に社会全体の自由や個人の尊厳が大幅に削がれてしまう。要するに、「盗ませないために、われわれはどこまで自分たちを監視に委ねるのか?」という根本的な葛藤があるのです。ジジェクならば、これを「自由と安全の二重の幻想」あるいは「イデオロギー的な対価交換」と呼ぶかもしれません。
3. 監視のもたらすパラドックス──越境する権力
さらに、監視社会にはもう一つのパラドックスがあります。それは、監視の拡大が必ずしも「盗み」を根絶するわけではない、という点です。むしろ、権力機構が強大化するほど、そこで働く内部者や特権的な立場の人間による「合法的な略奪」が横行するケースも考えられます。たとえば、国家が機密情報を「国家安全保障」という名目で収集し、それを一部の政治家や企業が私的に利用する可能性。あるいは、企業が顧客データをこっそり流用して利益を上げる行為。これらは一見すると「合法」あるいは「グレーゾーン」として扱われるかもしれませんが、被害者側からすれば立派な「盗み」に等しいでしょう。
ジジェクがよく引用する逆説的な論法を使えば、「盗みを防ぐための権力が、盗む行為を独占する」という構図が生まれても不思議ではありません。つまり、一般市民が盗みを働けば即座に処罰されるが、国家や巨大企業が行うデータの集約や流用は黙認される、という二重基準です。これは歴史的に見ても、植民地支配や囲い込みによる「合法的な奪取」が繰り返されてきた事例とパラレルな構造を持っています。監視社会が強化されればされるほど、通常の市民の盗みは減るかもしれませんが、その裏で権力層が大規模な盗みに手を染める土壌が形成される危険性を、私たちはどこまで意識しているでしょうか?
4. 禁止と欲望──「監視される」快感?
監視社会の問題を語る際、しばしば見落とされがちなのが「人々が監視をどのように受容しているか」という心理的側面です。前章で述べたように、人間の欲望と「盗みを禁じるルール」は深く絡み合っています。ところが、監視されることに対しても、ある種の倒錯的快感を覚える人々が存在するのも事実です。たとえば、SNSで自らのプライベートな情報を積極的に公開し、「監視されている」という状況を逆手にとって承認欲求を満たす人々。さらには、ルールを破るスリルを楽しみながら、いつしか国家や企業の監視の目に捕捉されることにさえ、潜在的な刺激を感じるケースも考えられます。
ジジェクならば、これを「監視を利用する主体の欲望の転倒」と呼ぶかもしれません。つまり、本来は自由を脅かすはずの監視装置を、あえて快感の源泉として活用する人間の矛盾した心理です。盗みが禁止されればされるほど人間が盗みに惹かれるように、監視されればされるほど、人間は「監視の目線」という特殊な舞台装置を使って自己演出を行う可能性がある。それは一見すると「盗む」行為とは対極にあるように思えますが、実はどちらも「禁止や制約があるからこそ燃え上がる欲望」に支えられているという点で同じ構図を共有しているのです。
5. 防犯・監視技術と「イデオロギーの温床」
監視社会化が進むにつれ、防犯カメラやAI技術を活用した顔認証システムがますます普及しています。企業や街中で見かけるカメラはもちろん、最近ではスマートフォン自体が生体認証機能を備え、人々の指紋や顔データを日常的に処理しているのが当たり前になりました。これらの技術は「盗難や犯罪を防ぐ」「セキュリティ向上」という大義名分のもとに推進され、多くの人が多少の不安を抱えつつも利便性には抗えず、事実上「受け入れざるを得ない」状況に追い込まれています。
ジジェク的に見ると、こうした防犯・監視技術の普及過程こそ、イデオロギーが巧みに機能している場面だと言えます。人々は「安全」「秩序」「安心」というスローガンを前にすると、個人の自由やプライバシーを制限されることへの疑問を後回しにしてしまう。さらには、技術がもたらす便利さやスムーズさに酔いしれ、そこに潜む潜在的危険を深く考えなくなるのです。ジジェク的な批評では、こうした「無思考の受容」がこそイデオロギーによる支配であり、そこには「自由意志で同意している」という幻想があるだけかもしれないと警鐘を鳴らします。「盗むな」という合意を前提にした安全重視の空気が、人々の批判精神を麻痺させている可能性は否定できないのです。
6. 結論──自由と安全の間で「なぜ盗んではいけないのか」を再考する
監視社会が進むほど、「盗むな」という命令は強く徹底され、実際に犯罪率が下がるかもしれません。しかし、その代償として私たちの生活は、見えざる場所でより厳格な管理と監視にさらされるようになります。自由と安全のせめぎ合いは、実はこれまでの歴史を通じて何度も繰り返されてきたテーマです。囲い込みや植民地支配が「進歩」や「安全保障」の名の下に暴力を正当化したように、現代の監視社会もまた「安全や秩序の確保」を錦の御旗として、誰かの自由やプライバシーを切り捨てている可能性がある。
ここで再び「なぜ盗んではいけないのか?」という問いに立ち返るとき、私たちは単に「被害者がかわいそうだから」「社会が混乱するから」といった理由以上に、もっと根本的な葛藤を意識する必要があるのではないでしょうか。つまり、「盗むな」と声高に叫ぶ一方で、その禁止を守るための監視や管理システムが、私たちの自由や人権、さらには社会の多様性や創造性をどこまで抑圧し得るのかという問題です。ジジェクの皮肉を借りれば、「盗むことのない完全監視の世界」は、逆説的に言えば「誰もが常に疑われ、すべてが制御されるディストピア」かもしれない。そもそも、そんな社会は果たして人間が生きていくに値する場所なのか?
もちろん、これだけ監視の技術が進展した以上、私たちは完全にその流れを後戻りさせることは難しいでしょう。安全と自由のどこで線を引くかという問題は、絶えず変化する社会情勢や技術革新とともにアップデートされなければなりません。ただ、ジジェク的なイデオロギー批判を踏まえるなら、一つだけ確かなことがあります。それは、「盗むな」という規範の裏には常に力関係や欲望構造が潜み、社会がそれを理由に監視を強化するたびに、私たちの生の在り方が大きく変貌させられているという事実です。私たち一人ひとりが、そうした構造的矛盾を理解し、批判的な目線を持つことなしに、安易に「監視強化こそ正義」と受け入れてしまうと、気づけば取り返しのつかない地点に達してしまうかもしれないのです。
本章では、「盗むな」という命令が生み出す監視社会的な側面と、その裏に潜むパラドックスを概観しました。次章では、ここまでの歴史的・心理学的・社会的な考察を踏まえ、さらに「盗むことを超える社会的ビジョン」へと話題を展開したいと思います。ジジェク流に言えば、「盗みを根絶する」ことは本当に可能なのか? あるいは、人間の欲望や社会構造が変わらない限り、盗みは永遠に反復される宿命なのか? その問いを突き詰めるとき、私たちははたしてどのような未来像を描き、どんな行動を選択できるのでしょうか。
第6章:未来への問い──「盗み」を超える社会は可能か?
ここまで私たちは、「なぜ盗んではいけないのか?」という問いを入口に、歴史・所有権・社会構造・欲望のメカニズム、さらには監視社会といった多面的な視点から議論を展開してきました。スラヴォイ・ジジェク的な問題提起に倣うなら、盗みは単に道徳や法を破る行為ではなく、社会の支配的イデオロギーや人間の欲望構造が生み出す必然的な産物である――そこにあるのは単純な善悪の図式などではなく、根深いパラドックスと矛盾です。
では、その矛盾を乗り越え、「盗み」が存在しない社会など果たして作れるのでしょうか? あるいは、そうした理想はもとから不可能な幻想にすぎないのか? もしそれを追求する意義があるとすれば、私たちが直面している所有や欲望の問題をどう再定義すればよいのか? 本章では、これらの問いをさらに掘り下げながら、「盗むな」という規範を超えた先の社会像を大胆に想像してみたいと思います。ジジェク的に言えば、そこには常に「理想への誘惑」と「現実への回帰」が拮抗し、未来を描こうとする意志そのものがイデオロギーとどう向き合うかを試される場でもあるのです。
1. ユートピアとしての「盗みのない社会」
歴史を振り返ると、「盗み」を含むあらゆる悪や不正を克服した理想社会――いわゆるユートピア像――がさまざまに構想されてきました。トマス・モアの『ユートピア』は言うまでもなく、プラトンの『国家』や、マルクス主義的共産社会の理論など、どれもが「所有」のあり方を問い直すことで、盗みが起こる前提を取り払おうと試みています。なかでもマルクスの共産主義的未来像は、有名な「私有財産の廃止」という命題を掲げ、「生産手段の社会的所有化によって搾取や貧富の差が消滅すれば、そもそも盗み自体が不要になる」と唱えたわけです。
しかし、ジジェクがたびたび指摘するように、こうしたユートピア思想は「所有」という概念を一挙にクリアしさえすれば、盗みという問題も解決すると考えがちです。もちろん、私有財産制の極端な不平等が、さまざまな形の盗みや暴力を誘発してきたのは事実でしょう。とはいえ、実際に社会主義や共産主義を標榜した国々が、所有を集中的に管理しようと試みた結果、腐敗や特権的支配層の誕生を防ぎきれなかった事例もたくさんあります。むしろ、「すべては国(党)のもの」という発想が、巨大な権力装置を正当化し、その内部で蔓延する「合法的な略奪」を見えにくくしてしまったケースもあったのです。
ここから浮かび上がるのは、「私有財産をなくせば盗みは消える」という単純な楽観論が成立しない現実です。盗みは所有権の有無だけでなく、人間の欲望や権力構造そのものからも発生し得る。言い換えれば、所有をめぐる不平等を解消したとしても、別の形で「奪い合い」が起きるリスクは常に残るのです。では、そうしたユートピア的な希望はすべて無駄だったのか? ジジェク風に言えば、答えは「いいえ、ただし危険を孕む」というところでしょう。ユートピアを描くことは、現実を批判的に見る眼差しを養い、別の可能性を思考する契機になる一方、それが現実を隠蔽する装置になる危険性を常にはらんでいるのです。
2. シェアリングエコノミーと「盗む必要のない」社会?
現代のユートピア的な試みとしてしばしば言及されるのが、「シェアリングエコノミー」や「ミニマリズム」といった潮流です。例えば、カーシェアや民泊、サブスクリプション・サービスの拡大など、物や空間を個人が所有せずに、必要なときだけアクセスできる仕組みが普及しつつあります。これによって「みんなで共有するから、わざわざ盗む必要がない」という論理が描かれることもあるでしょう。実際、モノを所有するハードルが下がるほど、盗みの誘因は減る可能性があります。
しかし、ジジェク的に見ると、シェアリングエコノミーの裏側には「所有の代わりに、グローバルなプラットフォーム企業がインフラを牛耳る」という別種の権力構造が生まれるリスクがあると指摘できます。言い換えれば、物理的なモノをユーザー同士が共有しているように見えても、実際にはデータとアルゴリズムを集中管理する企業が莫大な利益を得ており、そこに巨大な「新たな所有」が成立しているというわけです。したがって、単純に「共有しているから盗みはいらない」というロジックは、プラットフォーム企業による私有化を見落としかねない危険があります。
ミニマリズムに関しても、個人の生き方としてはモノを減らし、欲望をコントロールしやすくするという利点があるでしょう。しかし、それが社会全体の財産関係を変革するわけではありません。極論すれば、一部の人々がミニマリストとして「盗まずに済む」生き方を選択できるのも、他方で莫大な資源やサービスを提供する側の存在があるからこそ成り立っている面は否めません。ジジェクが批判するのは、こうした個人的なライフスタイルの変化が、あたかも社会全体の構造的矛盾を解消するかのような幻想を振りまくことです。「盗む必要のない社会」は、個々のモラルや消費行動の変化だけで実現されるほど単純ではないということです。
3. 欲望の変革は可能か──ラカン的視点から
前章までで論じたように、盗みの問題は人間の欲望構造と深く結びついています。禁止されるほどに魅力を増す倒錯的な欲望。所有をめぐる不安や欠損感。これらがある限り、どれだけ法や制度を変えても、盗みは形を変えて続いていくようにも思えます。では、欲望そのものを変革することはできるのでしょうか? ラカン派の理論を踏まえるジジェクの議論によれば、人間の欲望は「象徴界」によって構成されるため、単なる個人の意思や道徳教育でどうにかなるものではない側面が強いと考えられます。
しかし、だからといって「欲望は永久に不変だから、盗みは消えない」と諦めてしまうのも早計でしょう。ジジェクが提案するのは、むしろ欲望と禁止のダイナミクスを徹底的に意識化し、その構造を開示することによって、私たちが「盗む」ことや「所有する」ことに対して過剰に振り回されない態度を模索するという道です。たとえば、私たちが自分の欲望がどのように社会的・歴史的に形成されてきたのかを理解すれば、「これを手に入れなければ人生が無意味だ」という衝動に無批判に屈する必要は少しだけ減るかもしれません。
ここで求められるのは、「欲望の解放」よりもむしろ「欲望を自覚的に飼い慣らす」アプローチかもしれません。ジジェクはしばしば「ユーモア」や「パロディ」を駆使して、社会の規範や欲望を相対化してみせますが、そこにあるのは「すべてを投げ捨てる」ことではなく、「我々が置かれている状況を知ることで、より意識的に生きる」姿勢です。盗みが完全になくなるかは別としても、欲望の構造を知らずに巻き込まれるよりは、知ったうえで対処を試みるほうが、まだましな未来を探れるのではないかという希望が、ジジェクの思想の底に流れているのではないでしょうか。
4. コモンズ再生──新たな公共性と共生
ところで、歴史的なエンクロージャー(囲い込み)によって失われた「共有地(コモンズ)」を再生する動きが世界各地で注目されています。環境保全やコミュニティ再建、オープンソースのソフトウェア開発など、利益追求よりも共同体や公益を重視するプロジェクトが増えつつあるのです。これらは「財やサービスの私的独占」を解体し、「みんなで適切に管理・利用する」仕組みを目指す点で、ある種のユートピア的性格をもっています。しかし同時に、特定の大権力が一方的に管理するのではなく、参加者全員が責任を分担するという分散型モデルを採用することで、「権力の集中による腐敗」や「外部からの略奪」などを防ごうとする実践も見られます。
ジジェクの視点を当てはめれば、「コモンズを再興しようとする動き」は、イデオロギー的に見ても非常に興味深い実験といえるでしょう。なぜなら、そこには「私有財産制の弊害」だけでなく、「国家による一元管理の問題点」も意識されているからです。両者の極端さを回避しながら、「盗む」ことなく資源や財を共有する仕組みを模索しているわけです。この試みが普遍的に成功するかどうかは未知数ですが、少なくとも「所有」や「盗み」の問題に対して第三の視座を開きうる可能性があるのは確かでしょう。
もちろん、コモンズ運営にもフリーライダー問題や、管理ルールの複雑化など、乗り越えなければならない課題は山積しています。しかし、ここで重要なのは、「盗むな」という規範をただ押し付けるのではなく、「盗む必要がない環境」をどう作り出すかという発想の転換です。ジジェクが好むようにパラドックスを指摘するなら、「盗むな」を徹底的に強制する社会は監視社会に陥りがちだが、「盗む必要のない社会」を創ろうとする試みは、共有やコミュニティによる相互扶助に光を当てる方向へ開かれているのです。
5. 結論──「盗むな」の先にある批判的想像力
ここまで見てきたように、「盗み」をなくすことは決して容易ではありません。私有財産制の廃止や、シェアリングエコノミー、コモンズ再生など、さまざまなアプローチが提案されてきましたが、それらが直面する困難や矛盾も大きい。さらに言えば、人間の欲望の構造そのものが変わらない限り、どのような制度設計を行っても「盗む」行為を完全に排除するのは不可能に思えます。これが厳然たる現実でしょう。
しかし、ジジェク的な思考が促すのは、「だから諦めて現状を受け入れろ」という態度ではありません。むしろ、そこから先に生まれる「批判的想像力」をこそ重視するのです。「盗むな」という道徳的命令を単なる絶対規範として受け入れるのではなく、その規範が支えている所有や欲望のパラドックスに気づき、そこから脱却するオルタナティブな道を探り続けること――それ自体が、社会のあり方を豊かに更新する可能性を秘めているのです。
たとえば、監視社会への警鐘を鳴らしつつも、安全を求める人々の切実な願いをどう尊重するか。シェアリングエコノミーやコモンズを推進する際に、巨大プラットフォームの独占をどう防ぐか。個人の欲望と共同体の利益をバランスする仕組みをどう作るか。これらの問いに対して、即座に最善の回答を出せる人はいないでしょう。むしろ、こうした問いを絶えず保持し、「盗むな」という規範の裏側を徹底的に点検し続ける行為そのものが、社会を変化させる原動力となるはずです。
結局、私たちは「なぜ盗んではいけないのか?」という問いを突き詰めることで、単に法や道徳に従うだけの存在ではなく、欲望や権力構造の流れを批判的に見据え、それを超えていくための想像力を養うことができるのだろうと考えられます。ジジェクが度々強調するように、「問題をすでに解決されたものとして扱うのではなく、そこに潜む隠された矛盾をあぶり出し、突きつけること」こそが哲学や批評の重要な役割なのです。もし私たちが、いまこの瞬間にも頻繁に発生している「盗み」の問題を、どこか他人事のように受け流すのではなく、その奥底にある欲望やイデオロギーと真摯に向き合うならば、そこにこそ新しい社会や人間関係をつくり出すヒントが見いだせるかもしれません。
以上、本章では、「盗みのない未来社会」や欲望変革の可能性を検討しつつ、その困難さや潜む矛盾にも目を向けました。いよいよ次章では、ここまでの議論を総括し、「なぜ盗んではいけないのか?」という問いが私たちにもたらす最終的なインパクトや、ジジェク的な結論のあり方を再度整理していきます。結論に至るまでには、まだいくつものパラドックスが浮上するでしょう。しかし、そのパラドックスこそが、私たちを単なる道徳説教から解放し、より深いレベルで「盗む」という行為の本質に迫る手がかりとなるのです。
第7章:結論──「なぜ盗んではいけないのか?」を超える思考
ここまで私たちは、「なぜ盗んではいけないのか?」という極めてシンプルな問いを糸口に、歴史的背景から所有権の問題、社会構造とイデオロギー、監視社会におけるパラドックス、そして欲望の深層に至るまで、多方面にわたる考察を試みてきました。スラヴォイ・ジジェク的な視点に沿って浮かび上がってきたのは、単純な善悪の区別を超えた複雑さです。「盗む」という行為は道徳的に非難されるべきだとしながらも、その背後には「所有」や「規範」の問題をはじめ、人間の欲望や社会の権力関係が絡み合っている。これらをすべて整理し、「だから盗みは断固として禁止すべき」と結論づけるのは、もはや不可能に近いように思えます。一方で、「盗みを認めよう」という極論もまた、現実の秩序や被害者の苦痛を無視しては成り立たない。まさに両立しがたいパラドックスが最後まで私たちを悩ませるのです。
1. 盗みの根源にある不平等と欲望
改めて振り返ってみると、歴史上の大規模な「盗み」は、囲い込みや植民地支配のように、合法の名を借りた暴力と表裏一体でした。つまり、支配者側が定めたルールによって正当化されていた「奪取行為」が、実質的には被支配側からすれば「盗み」に等しかったわけです。しかも、それは現在のグローバル資本主義や監視社会に形を変えて継承されている可能性が高い。こうした構造において、「盗むな」と強調されるのは往々にして「権力をもたない側」に対してであり、「本当に大きな盗み」をしているのは体制側である――というジジェク流の批判は、歴史を通じて一貫して確認されるテーマでした。
同時に、人間の欲望の問題も無視できません。ラカン派精神分析を参照すると、私たちの欲望は常に欠損を抱えており、それを埋めるために何かを「手に入れよう」とする衝動が尽きることはない。法的・道徳的に「盗むな」と禁止すればするほど、その対象が魅力的に感じられる倒錯的現象まで起こりうる。すなわち、「盗む」という行為は社会的規範への挑戦でもあり、同時に個人的な快感の源泉にもなるかもしれないのです。ここで私たちは、盗みを減らすためにはモラルの強化だけでなく、人間の欲望そのものにどんなアプローチが可能なのかを検討せざるを得ない局面に立たされます。
2. 監視社会の強化がもたらす矛盾
こうした欲望や社会構造の問題に直面したとき、現代社会は「監視を強化する」という方向で対処しようとします。情報社会においては、企業スパイやハッキングなど目に見えない盗みが蔓延しているため、国家や企業が防犯カメラやデータ解析、AIによるモニタリングを拡充していく流れです。確かに、これによって犯罪の抑止力は向上するかもしれません。しかし同時に、すべての市民が潜在的な「盗人予備軍」とみなされることで、私たちの自由やプライバシーが大幅に制限されるという負の側面が明確化しました。
ジジェク的に見れば、この矛盾は「盗むな」という規範がイデオロギーとして絶対視されることで、一部の権力層にとって都合の良い監視システムが社会に浸透する結果を生み出します。最終的に、それは「盗み」を完全になくすどころか、巨大な権力による「合法的略奪」を容易にする土壌になる可能性すらある。つまり、私たちが安心や安全を求めるあまり、自由と人権を少しずつ手放していき、取り返しのつかない事態を招くかもしれないわけです。ここに、盗みを禁止すること自体が抱える最大のジレンマがあると言えるでしょう。
3. 「盗む必要がない」環境づくりの模索
では、こんなにも矛盾やパラドックスに満ちた「盗む」という問題に対して、私たちに何かできることはあるのでしょうか? 前章でも触れたように、シェアリングエコノミーやコモンズの再興など、「モノや情報を共有することで盗む必要を減らす」取り組みは注目に値します。ユーザー同士でリソースを融通し合う仕組みが普及すれば、不要な所有や過剰な欲望が和らぎ、結果として盗みが減る可能性もあるでしょう。
しかし、ジジェク流の批判的視線を忘れないなら、これらの新潮流にも大きな落とし穴が潜んでいます。たとえば、シェアリングエコノミーの主要プラットフォームは巨大資本や多国籍企業によって運営されており、実質的には「新しい形の所有独占」が進んでいるとも解釈できる。コモンズ再生にしても、フリーライダー対策や管理の複雑さが大きな課題です。つまり、「盗む必要のない社会」を夢見るユートピア主義に陥らないためにも、それがどのように所有と権力の再編を引き起こすのかを常に警戒すべきなのです。
4. ジェスチャーとしての「盗むな」──絶えざる批判の回路
それでも私たちは、「盗む」という行為が他者を傷つけ、社会の混乱を招くケースが多いことを知っています。個人同士の関係や信頼を維持するためにも、「盗むな」という規範は機能し続けざるを得ない。ジジェクがしばしば言及するように、「盗むな」という道徳的命令はある種の「ジェスチャー(身振り)」として捉えられるのかもしれません。すなわち、「私たちは一緒に暮らしている以上、互いの所有と安全を尊重する必要がある」という合図。これ自体を否定するのは容易ではありません。
しかし、問題なのは、その規範に安住してしまうことです。「盗むな」という言葉を額面どおりに受け取り、そこに含まれる歴史的暴力やイデオロギー、心理的倒錯を見ないようにするとき、私たちは無意識のうちに支配的秩序の再生産に加担してしまう。ジジェクならば、「盗むな」に潜む不気味な裏面――それが監視社会を強化し、権力の正当化に利用されうるという事実――を暴露し続ける姿勢こそが批評家の責務だと言うでしょう。
5. 矛盾を抱えたままの結論──あるいは結論の不在
では、結局のところ、本書で我々は何を「結論」と呼ぶことができるのか? スラヴォイ・ジジェク的なスタイルを最後まで貫くなら、ここで安易な処方箋や道徳的説教を提示するわけにはいきません。むしろ、ジジェクの真骨頂は「矛盾を明るみに出し、問いを投げ続ける」態度にあります。「盗むな」という規範を無条件に受け入れるのではなく、その裏にある欲望と権力関係を暴き、われわれが生きる社会の構造的歪みを顕在化させる。その行為自体こそ、私たちが逃れようのないパラドックスに向き合う第一歩だというわけです。
もちろん、本書を読んで「盗みを肯定する気にはなれない」と感じる人も多いことでしょう。それは当然です。しかし、その「盗むことへの嫌悪感」すらも社会的・文化的に形成されてきた歴史と結びついていることを思い出してほしい。私たちは「盗んではいけない」という規範に育まれながら、その規範を支える強力な装置に気づかず生きてきた。だからこそ、一度立ち止まって「なぜそれがいけないのか?」を問う試みが、今もなお意義を持つのです。たとえその答えが、パラドックスまみれの曖昧なものであっても。
6. 思索の継続──問い続けることの意味
ジジェクは、問題の解決よりも問題提起を重んじる思想家として知られています。本書における「なぜ盗んではいけないのか?」という問いもまた、私たちが普段は疑わずに信じ込んでいる前提――所有、道徳、法、欲望、権力――を批判的に捉え直すための装置にほかなりません。誰もがその問いを「幼稚」と感じながらも避けて通れない、非常に根源的なテーマとして、あらためて思考を喚起されるのではないでしょうか。
ここまでの議論を総合すると、「盗む」行為を単純にゼロにする完全な解決策は存在しないように思われます。私たちは歴史的にも心理的にも、そのようなユートピアに到達できるほど単純な存在ではないからです。しかし、それでも「盗むな」という規範に潜む矛盾や暴力性に目を向け、その背後にあるイデオロギーを批判する行為は、社会を少しでも変化させる原動力となりえます。「盗みをやめよう」というモラルだけでなく、「そもそもなぜ盗みたくなるのか」「なぜそれを抑圧するのか」を絶えず問うことによって、私たちは欲望や秩序のあり方を刷新する道を探り続けることができるのです。
まさにジジェク流にまとめるなら、「答えはない」というのが最良の答えかもしれません。「盗むな」という絶対的命令を押し付けられることで、われわれは潜在的な欲望や権力のゲームを見落としてしまう。かといって、「盗んでよい」という結論もまた、現実の被害者や社会の混乱を顧みない危険な発想です。ゆえに私たちができることは、この問いを常に開き続けること――「盗むな」の両義的な意味を見据え、その背後にある欲望と暴力を暴き、社会の仕組みや歴史を再検討することではないでしょうか。
最後に
本書を通じて描かれた諸問題は、いずれも簡単に解消できる類のものではありません。かつてのエンクロージャーや植民地支配に端を発した「大きな盗み」の系譜は、グローバル資本主義下の産業スパイや情報窃盗、監視社会の台頭に至るまで、なおも変幻自在に姿を変えて続いています。人間の欲望や心理構造も、禁止と倒錯のメカニズムの中で複雑に絡み合っており、ただ「道徳を強化すればよい」という解決策では到底対応しきれない。「盗むな」という規範は欠かせない一方で、その規範が含む二面性を直視し、批判的思考を絶やさないことが、いま求められているのではないでしょうか。
スラヴォイ・ジジェクの思考法を手がかりに、ここまで展開してきた数々のパラドックスこそが、私たちの社会に深く横たわる現実の矛盾を照らし出すものであると信じます。最後に残るのは、「なぜ盗んではいけないのか?」という問いそのもの。これに対して明快な一言の答えはありません。しかし、それゆえにこそ、この問いは私たちの思考を一歩先へ導く入り口として永遠に開かれているのです。モラルや法を盲信するのではなく、また欲望の赴くままに盗みを正当化するのでもなく、真摯に問い続けること。それこそが、ジジェク的な「結論の不在」を乗り越えるための最良の指針なのかもしれません。