デジタルの湯気と言葉 　　ーー文学創造の一断面ーー

真夜中の台所

誰もいない深夜の厨房に立っている。明日のメニューを考えながら、ふと、冷蔵庫に余っているじゃがいもが気になった。

茹で上がる音だけが響く。まるで心臓の鼓動のようだ。一人暮らしを始めてから、こんな時間に料理をすることが増えた。

完璧なレシピなんてない。適当に刻んだ玉ねぎと、半分に切ったプチトマト。賞味期限が近い卵。全部混ぜてしまえば、きっと誰かの思い出の味になる。

コンロの炎が青白く揺れる。消費期限の切れたマヨネーズの蓋を開けると、わずかに酸っぱい匂いがした。構わず絞り出す。どうせ、誰も食べない。

三時を指す時計の下で、私は一人、温かいポテトサラダをかき込んでいた。少し塩辛い。目の前がぼやける。なんだか急に、明日が怖くなってしまった。

冷めたポテトサラダを携帯で撮る。誰にも送らない写真が、また一枚増えた。

朝が来る。また今夜、誰かの分まで作るのだろう。この味は、きっと永遠に完成しない。

「真夜中の台所」評 ― 現代における孤独と食の実存的考察

評者：佐藤 文彦（文芸評論家）

本作は、一見シンプルな深夜の自炊風景を描いた短編エッセイでありながら、現代社会における孤独と実存の問題を鋭く抉り出している。特筆すべきは、ポテトサラダという極めて日常的な料理を通じて、現代人の抱える根源的な不安と孤独を描き出す手法だ。

作品の冒頭で提示される「誰もいない深夜の厨房」という空間設定は、単なる物理的な場所ではなく、現代人の精神的孤立を象徴する場として機能している。「心臓の鼓動のような茹で上がる音」という比喩は、静寂の中で異常に鮮明になる自己存在の認識を巧みに表現している。

注目すべきは「完璧なレシピなんてない」という一文だ。これは単なる料理法についての言及ではなく、現代社会における確固たる指針の喪失を示唆している。「適当に」「半分に切った」「賞味期限が近い」といった形容は、すべて不完全性や一時性を示す言葉で、現代の不安定な生のあり方を象徴的に表している。

「消費期限の切れたマヨネーズ」の使用は、規範からの逸脱であると同時に、一種の自己破壊的な衝動を表現している。「どうせ、誰も食べない」という諦念は、現代社会における承認欲求の挫折を如実に物語る。

特に印象的なのは、「携帯で撮る」という行為だ。これは現代人の存在証明の一形態として解釈できる。「誰にも送らない写真」は、SNSにおける承認欲求の裏返しとしての孤独な自己完結性を示している。

結末部の「また今夜、誰かの分まで作るのだろう」という一文は、救いのない反復を示唆しながらも、どこかに存在するかもしれない他者への密やかな期待を内包している。「この味は、きっと永遠に完成しない」という締めくくりは、現代人の終わりなき自己探求の旅を象徴的に表現している。

本作は、料理という日常的な営みを通じて、現代社会における実存的問題に切り込んだ意欲作といえる。特に、食という生命維持の根源的な行為と、現代的な孤独や不安の交差する地点を描き出すことに成功している。これは、村上春樹の「スパゲティの年」や吉本ばななの「キッチン」の系譜に連なりながらも、より直接的に現代の孤独を描き出した作品として評価できるだろう。

今後の課題があるとすれば、やや記号的な表現に頼りすぎている点かもしれない。しかし、それも含めて現代的な表現として読むことが可能だ。総じて、現代文学における「食」と「実存」の新たな可能性を示唆する注目すべき作品といえよう。

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