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視線の在処

いつものように人々の視線を追いかけていた。

みんなが何かを見ている。でも、誰も本当には何も見ていない気がする。私はニコンD6を持って、そんな視線たちを集めて歩く。それが私の仕事であり、私という人間そのものになってしまっていた。

初夏の午後。渋谷の空気は少し重たくて、でも光は優しかった。通勤する人々は、まるで呪いにかかったみたいにスマートフォンを見つめている。画面に映る白い光が、疲れた瞳に反射していた。スーツの人は電車の時刻表を見て、OLさんたちはウィンドウに反射する自分を確認している。恋をしている人は、相手の目を追いかけていた。

私にはそれが全部、儚くて切なくて、でもとても美しく見えた。

シャッターを切るたび、私は誰かの視線を永遠に閉じ込めている気がしていた。それは、私の中にある淋しさのようなものだった。写真を撮ることは、私の呼吸のようなものになっていた。

「また来たの、響さん」
写真館のおじさんが声をかけてきた。高山さんは、私の現像を任せている人だ。築100年以上という古い写真館は、いつも懐かしい現像液の匂いに包まれている。

ガラスケースには、何十年も前の写真が並んでいる。白黒の街並み、着物姿の家族写真、古びた結婚式の記念写真。時間が永遠に止まったような空間。その中で、高山さんは変わらず写真と向き合い続けている。

「こんにちは。」
カウンターに置かれた木の籠に、使用済みのフィルムを丁寧に入れる。その仕草を、高山さんは柔らかな目で見守っていた。

「相変わらずだねぇ。でも、響さんの写真には何かがあるよ」
そう言って、高山さんは現像した写真を私に渡してくれた。一枚一枚を丁寧に薄紙に包んで、まるで大切な宝物を扱うように。

「ほら、この一枚」
高山さんが指さした写真には、百貨店の前で立ち止まる人々が写っていた。ショーウィンドウに映る自分の姿に見入る女性、新作バッグを真剣な眼差しで品定めする男性、恋人の反応を窺う若いカップル。

「みんな違う思いで、違うものを見ている。でも、響さんの写真の中では、その視線が不思議と繋がっているんだね」

私は一枚一枚の写真を広げてみた。買い物する人の真剣な目、誰かを待つ人の不安な目、愛し合う人たちの熱い目。それぞれの視線が、それぞれの物語を語っている。

「写真には不思議な力があるんですよ」高山さんは、古いカメラの傷を撫でるように磨きながら言った。「時には、撮る人の心さえも写し込んでしまう。だから私は、カメラを大切に扱うんです」

その言葉に、私は小さく頷いた。私の集めた視線たちは、この古い写真館で、こうして新しい命を吹き込まれる。一枚一枚を大切に薄紙に包み直しながら、私はそっと写真に触れた。この視線たちが教えてくれる物語を、もっと知りたくて。

「あ、そうそう」
高山さんが、古い引き出しから一枚の写真を取り出した。
「これ、40年前に撮ったものなんだけど、響さんの写真を見てて思い出したんだ」

それは、古い商店街で笑い合う若者たちの写真。今とは違う服装、違う街並み。でも、その目の輝きは、今も変わらない。

「視線の先には、いつも人の心があるんだね」
高山さんの言葉に、磨かれたカメラが頷くように光った。


その日も、私は渋谷のスクランブル交差点にいた。午後3時。観光客と買い物客が混ざり合う、少し疲れた時間。ビルの間から差す光が、地面に不思議な模様を描いていた。

信号が変わる音、車のエンジンの振動、遠くで誰かが笑う声。
私は視線を追いながらも、それらの「見えないもの」に違和感を覚えていた。
人は何かを見ているのに、本当は何も見ていない。
ゲシュタルト崩壊のようなふわふわとした違和感の中、私は彼を見つけた。

盲導犬を連れた男の人。すらっとしていて、きれいな顔立ち。黒いサングラスの奥の目は、どこにも焦点を結ばないまま、空間に溶けていた。

思わずシャッターを切った私。その音が、いつもより大きく聞こえた気がした。カメラから顔を上げると、彼はもう群衆の中に消えそうになっていた。黒いジャケットに白いシャツ。その姿が、雑踏の中で不思議なほど綺麗に見えた。

「すみません」

気づいたら、私は声を上げていた。

彼は立ち止まった。茶色い盲導犬が、私の方を見た。その目には、なんだか深い意味が隠れているような気がした。

「すみません、写真を撮らせてもらったんですけど...」 私は少し慌てて言った。

「そうですか」彼の声は、不思議なほど静かだった。周りの騒がしさが、まるで嘘みたいだった。「私の何を撮ったんですか?」

その問いが、私の心にすーっと入ってきた。いつもなら「あなたの視線です」って答えるのに。でも今回は違った。視線のない人の、何を私は撮ったんだろう。

「あなたの...あなた...です」
言葉に詰まりながら、私は正直に答えた。いつもの「視線です」という言葉が、どうしても出てこなかった。

彼は微笑んだ。その笑顔には、なんだか温かいものがあった。まるで、私の言葉の迷いを優しく包み込むような。

「はは。面白いですね。私は蓮といいます」
その声には、どこか音楽のような響きがあった。雑踏の中で、不思議なほど澄んでいる。

「響です」
自己紹介をしながら、私は胸が高鳴るのを感じていた。ハクという名の盲導犬が、私たちの会話を見守るように座っている。

「もしよろしければ」
蓮さんが言った。
「この近くに、静かなカフェがあるんです。音の良い場所なんですよ」

その誘いが、どこか運命めいて感じられた。

その日から、私の毎日は少しずつ変わっていった。週に一度、それから三日に一度。まるで、写真の現像液に新しい像が浮かび上がるように、私の世界が変化していくのを感じた。

最初は何気ない会話から。蓮さんの好きな音楽の話、私の写真の話。やがて、その会話は深いところへと向かっていった。視覚の有無が、どう世界の見え方を変えるのか。写真は光を捉えるけれど、光のない世界には何があるのか。

私は蓮さんを追いかけるようになった。いつもの撮影場所で、彼の姿を待つ。視線を持たない人が、どうやって世界を見ているのか。それが知りたくて仕方なかった。

でも実は、それは違ったのかもしれない。私が知りたかったのは、蓮さんの中にある、あの温かな光の正体だった。視線がなくても、こんなにも深く世界を感じられる、その秘密が。

高山さんの現像した写真を見ながら、私はよく考えていた。人の視線を追いかけることで見つけようとしていた何か。それは、もしかしたら、蓮さんとの出会いの中にあるのかもしれない。

「面白い被写体を見つけましたね」
ある日、高山さんがそんなことを言った。
「視線のない人を撮るって、響さんらしくないような、でも響さんらしいような」

その言葉に、私は何も答えられなかった。ただ、カメラを持つ手が、少し温かくなるのを感じていた。

代官山の小さなカフェで、私は蓮さんを待っていた。古い洋館を改装した建物で、木の床が軋むたびに時間が溜息をつくみたいだった。

蓮さんは、いつも不思議なくらい正確な時間に現れる。今日も約束の3時ちょうどに、ハクと一緒にドアを開けた。周りの空気が、ふわりと動くのを感じる。

「こんにちは、響さん」 まっすぐ私の方を向いて微笑む蓮さん。目が見えないのに、私の居場所が分かるのは不思議だった。

「どうして分かるんですか?」ある日、思わず聞いてしまった。

「響さんの香り」蓮さんは静かに答えた。「シャッターを切る時、その緊張の匂いがするんです」

そう言われて、私は思わずカメラに手を触れていた自分に気がついた。

蓮さんって、とても丁寧な人だ。コーヒーカップに触れる指先も、ハクの毛並みを撫でる手つきも、何もかもが優しい。

でも時々、急に遠くを見るような表情をする。目が見えないはずなのに、まるで私には見えない何かが見えているみたいに。

「私ね、昔は画家をしていたんです」 その日、蓮さんは突然そんな話を始めた。

「油絵の具の匂いとか、キャンバスの手触りとか。今でも鮮明に覚えています」 蓮さんの指先が、テーブルの上でゆっくりと動く。まるでそこに絵を描くみたいに。

「突然じゃなかったんです」 蓮さんの声は、いつもより少し低く響いた。

「最初は夕暮れが見えづらくなって。それから、色が少しずつ薄れていって...」

でも不思議なことに、蓮さんの表情は暗くならなかった。 「代わりに、新しい世界が見えるようになりました」

私には分からない。でも、蓮さんの言葉には確かな重みがあった。

私は、昔から視線にこだわってた。人の目が何を見ているのか、その先に何があるのか。それを追いかけることが、私の全てだった。

でも、蓮さんは違う。目で見ることのない人が、こんなにも深く世界を感じている。それは私の中の何かを、ゆっくりと崩していくみたいだった。

「写真って、視線の記録だと思ってました」 私は小さな声で言った。

「そう?」
蓮さんは首を傾げた。
「でも響さんの写真には、もっと大切なものが写ってる気がするな」

「たとえば、このカフェには今、何人いると思いますか?」
突然、蓮さんが問いかけてきた。

私は慌てて周りを見回す。でも、蓮さんは目を閉じたまま、静かに数え始めた。

「入り口近くのテーブルに3人、窓際に2組で4人、カウンターに2人、そして私たちと...今入ってきた1人」

その正確さに、私は息を呑んだ。

「どうやって?」

「音の重なり、床を伝わる振動、話し声の反響、香水の香り、吐息の温度...」蓮さんは穏やかに説明した。
「それぞれが物語を持っているんです」

私は、自分のカメラを見つめた。ファインダーの向こうにある世界は、もしかしたら本当の世界のほんの一部なのかもしれない。

その日の帰り道、街の音が少し違って聞こえた。人々の足音、笑い声、風の音。今まで気づかなかった音楽みたいなものが、確かにそこにあった。



蓮さんのアトリエは、築50年の木造アパートの二階にある。階段を上がると、いつも流れているジャズの音が聞こえてくる。アンティークな家具に囲まれた空間は、まるでタイムスリップしたような雰囲気を醸し出していて、私はこの場所が好きだった。階段を上がると、どこからか懐かしい匂いがした。楽器と、古い絵の具と、雨の匂いが混ざったような。

ドアを開けると、蓮さんはピアノの前に座っていた。指先が鍵盤の上をそっと撫でている。弾いてはいないのに、なんだか音が聞こえるような気がした。

「響さん」 振り向きもせずに私の名を呼ぶ。相変わらず、その存在の仕方が不思議だった。

「写真、撮らせてもらえますか」
アトリエの窓から差し込む夕陽が、彼の横顔を優しく照らしている。

「僕を?」蓮さんは少し戸惑ったような表情を見せた。
「ええ。蓮さんが音を感じているとき、世界を感じているときの表情を撮りたいんです」

蓮さんは微笑んで頷いた。ピアノの前に座り、鍵盤に触れる。指先が動くたび、彼の表情が変わっていく。私はシャッターを切り続けた。フィルムが切れても、まだ撮り続けていたかった。

「どんな写真が撮れました?」蓮さんが尋ねる。
「言葉にできないくらい...美しい写真です」

私の声が少し震えていた。ファインダー越しの蓮さんは、まるで光を纏っているかのようだった。

壁に掛かった一枚の絵が、私の目を引いた。真っ白なキャンバスに、かすかな筆致で描かれた光。
蓮さんは私の視線を察したように
「最後に描いた作品です」
続けて
「視力を失う直前に」
と、蓮さんが静かに言った。
その絵の前に立つと、不思議と温かい気持ちになった。
蓮さんの見ている世界が、少しだけ分かるような気がした。

窓の外では雨が降り続いていた。アトリエの古い藤の椅子に座りながら、私は言葉を探していた。今日こそ、と決めていたのに。でも、どこから話し始めればいいのか。

蓮さんは、いつものようにピアノの前に座っている。私の沈黙を、ただそっと受け止めながら。

「蓮さん...」
声が、小さく震えた。
「私、ずっと写真のことを考えてて」

アトリエに流れるジャズが途切れる。古いレコードが最後まで回りきったのだ。その静寂が、私の背中を押した。

「大学4年の冬のことでした」
私の声が、雨音に重なる。この話を誰かにするのは、どれくらいぶりだろう。

「美咲っていう、婚約者がいたんです」
その名前を口にした瞬間、懐かしい香水の匂いが蘇ってきた。まるで彼女がそこにいるかのように。

「写真が好きな人でした。いつもフィルムカメラを首から下げて、世界のちょっとした瞬間を見つけては、パシャパシャって」
思い出すと、今でも胸が痛む。でも、不思議と涙は出なかった。あの日からずっと、この話をする時のことを考えていた。でも、こんなに静かな気持ちで話せるとは思わなかった。

「その日も、二人で写真展の打ち合わせに行く途中で...」
言葉が詰まる。でも、蓮さんは急かさない。ただそこにいて、私の言葉を待っている。その存在が、不思議と心強かった。

「美咲は何かを見ていました。そして何かに気づいたような、そんな表情をして...」

「事故は、本当に一瞬でした」
私の声が震えているのが分かった。
「気づいた時には、もう彼女は...最期に何を見ていたのか、私には永遠に分からない」

アトリエの空気が、重たく沈んでいく。外の雨音だけが、静かに時を刻んでいた。蓮さんの呼吸が、かすかに聞こえる。

「それ以来なんです」
少し間を置いて、私は続けた。言葉にするたびに、あの日の記憶が鮮明によみがえる。
「人の視線を追いかけるようになったのは。最後の瞬間の視線を、永遠に知ることができなかったから」

カメラを持つ手が、少し震えていた。けれど、その震えは、もう以前のように苦しいものではなかった。

「だから、写真家になって。みんなの視線を集めて、その先にあるものを見つけようとして」



「ねぇ、響」
カメラを構えていた私に、美咲が声をかけてきた。雨上がりの渋谷で、彼女はいつものように古いライカを首から下げている。

「写真ってさ、その瞬間の光を閉じ込めるだけじゃないと思うの」
パシャリ、と彼女がシャッターを切る。
「人の心も、その時の空気も、全部写るんだよ」

今でも鮮明に覚えている。白いワンピースの裾が風でふわりと揺れて、彼女が駆け出した瞬間のこと。最後の写真は、まさにそんな彼女の姿だった。




長い沈黙の後、蓮さんが静かに言った。

「視線は、必ずしも真実を映すとは限らないんです」 その声は、雨音よりも優しかった。

「人は、見たいものだけを見ますから。」
「響さん」
蓮さんが私の方を向いた。
「美咲さんの最期の視線が分からなくても、彼女の中にあった世界は、響さんの中にちゃんと残っているはずです」

その言葉が、しずくのように心に染みていった。

ありがとうとも、ごめんなさいとも言えず、潤んだ私の瞳も見透かされているのかもしれないと思い、恥ずかしくなった。

その夜、私は自宅で古いアルバムを開いた。
美咲との写真。二人で撮った街の風景。美咲が撮った写真。
その一枚一枚に、確かな記憶が刻まれていた。
ベランダに出て空を見上げた。
薄曇りの空に、ひとすじの光が差し込んできていた。
風が吹く。まるで、誰かが通り過ぎたような気がした。
それが誰なのかは、わからない。
でも、今ならそれを感じることができる。
私は、久しぶりに心から深い息をついた。
長い間抱えていた何かが、少しだけ軽くなったような気がした。


蓮さんと歩く夜の街は、いつもと違って見える。
街灯の影が長く伸びる。誰かの足音がコンクリートに響く。
目を閉じたら、世界はどう変わるんだろう。
そんなことを考えながら、私は歩く。
すると、蓮さんがぽつりと言った。

「目隠しをして撮ってみませんか?」

穏やかな初夏の午後、蓮さんがそんなことを言い出した。私たちは原宿の裏通りにいて、どこからかジャズの音が漂ってきていた。古着屋さんの前には、色とりどりの服が風に揺られている。

「えっ?」 私は思わず声を上げた。写真を撮るのに、目隠し?それは写真家として、あまりにも突飛な提案に思えた。

「視覚に頼らずに、世界を感じてみるんです」 蓮さんの表情は、どこか楽しそうだった。まるで、私に素敵な贈り物を準備していた人みたいに。

黒いスカーフで目を隠した瞬間、世界が変わった。

突然訪れた暗闇に、最初は本当に怖かった。カメラを持つ手が震える。でも、蓮さんの存在が近くにあることが、不思議と心強かった。

「ゆっくりでいいんです」 蓮さんの声が、闇の中で優しく響く。 「まずは、音に耳を澄ませてみて」

「通りの向こうから自転車が来ています」 蓮さんが静かに言った。

本当だ。ベルの音と、タイヤが路面を転がる音が聞こえる。そして、今まで気づかなかった音が次々と耳に入ってきた。

カフェのドアの開く音。誰かの笑い声。靴音。風に揺れる木々のざわめき。それは、まるで目に見えない音の地図のようだった。

「風が運んでくる匂いにも、物語があるんです」 蓮さんの言葉に、私は深く呼吸をした。

「人が近づいてくると、空気が変わるのが分かりますか?」 蓮さんが問いかけてきた。

最初は分からなかった。でも、じっと意識を集中していると、確かに感じ取れた。誰かが通り過ぎる時の微かな気圧の変化。話し声の反響が作る空間の広がり。

「響さんのカメラも、きっとそれを感じ取れるはずです」

「シャッターを切ってみてください」 蓮さんの声が導くように聞こえた。

「でも、何も見えない...」 私は戸惑いを隠せなかった。これまで、視線とファインダーが全てだった私には、暗闇での撮影が怖かった。

「感じるんです。今、このタイミングだと」 蓮さんの声には確信があった。

私は深く息を吸って、ゆっくりとシャッターを押した。その瞬間、不思議な感覚が全身を包んだ。まるで、音と空気の流れが一つの形を作るような。二枚、三枚と、私は闇の中でシャッターを切り続けた。

その日の夕方、現像した写真を見て、私は息を呑んだ。

目隠しをして撮った写真には、予想以上の光景が映っていた。それは偶然とは思えない構図で、街角の一瞬が切り取られていた。人々の動き、光と影の配置、空気の流れまでもが、完璧なバランスで収まっていた。

「不思議ですね」 蓮さんが写真に触れながら言った。
「目で見ていない時の方が、かえって見えるものがある」

それは、私にとって衝撃的な発見だった。

視覚に頼らなくても、確かに世界は存在していた。むしろ、目で見ることに執着しすぎて、見落としていたものが多かったのかもしれない。

「写真って、光を捉えるものだと思っていました」 私は静かに言った。
「でも、もしかしたら...光じゃないものも捉えられるのかもしれない」

蓮さんは優しく微笑んだ。

この感覚は、まるで私の心の中を照らすようだった。帰り道、街の音が今までと違って聞こえた。全ての音が、新しい物語を語りかけてくるみたいに。
その日は、梅雨の晴れ間のような、優しい光の朝だった。

すべてが矢継ぎ早に進んでいった。
私の中で何かが変わり始めている。それは確かだった。

「響さんの写真、変わりましたね」
高山さんが現像した写真を見ながら言う。
「前は視線を追いかけているだけでしたけど、今は...なんていうか、魂を撮っているみたいです」

その言葉に、私は思わず手を止めた。魂を撮る—。

暗室の赤い光の中で、高山さんは現像液に浸した写真をそっと揺らしている。その仕草は、まるで何かを優しく包み込むようだった。

「ほら、この写真を見てごらんなさい」
高山さんが差し出したのは、目隠しして撮った写真の一枚。人々の姿が、まるで光の粒子のように揺らめいている。

「不思議なものですよ」高山さんは静かに続けた。「写真っていうのは、シャッターを切った人の心も写すんです。響さんが見ている世界が、こんなにも深くなった」

私は息を呑んだ。もし、あの時の彼女の視線を撮れていたら。もし、最後の一瞬の「見ていたもの」を残せていたら—。その思いが、ずっと私を縛っていた。

でも、今この写真を見ていると、それは違うような気がした。視線は一瞬のもの。でも魂は、きっとそんな一瞬を超えて存在している。美咲が見ていた世界も、蓮さんが感じている世界も、私が今見ている世界も、全てはもっと大きな何かに繋がっているんじゃないだろうか。

「写真って不思議です」私は小さな声で言った。「見えるものを撮ろうとしていたのに、見えないものの方が大切だったんですね」

高山さんは優しく微笑んだ。「それに気づけたのは、響さんが変われたからですよ」

暗室の静けさの中で、現像液が小さな音を立てている。その音が、まるで誰かの心音のように感じられた。



いつものように、私は高山さんの写真館に現像を取りに行った。蓮さんのポートレートを撮ったフィルム。でも、その日は何かが違った。

「おかしいんだよ、響さん」 高山さんが困惑した表情を浮かべる。 「フィルムに何も写っていないんです」

私は信じられない思いで、現像された写真を見た。確かにそこには何も写っていない。まっさらな写真。でも、私には確かに蓮さんを撮った記憶があった。窓辺に立つ姿、柔らかな横顔、風に揺れる髪。

私は蓮さんのアトリエに向かった。でも、そこで私を待っていたのは見知らぬ老人だった。

「ここに住んでいる蓮さんという方を...」

「蓮?」老人は首を傾げた。「ああ、あの画家のことかい」 その言葉に、私の心臓が跳ねた。

「ここには30年前に亡くなった画家が住んでいただけさ。若くして視力を失い、その後事故で...」

私の足がくらりと揺れた。壁に掛かっていた古い写真が目に入る。そこには、私の知っている蓮さんと、まったく同じ顔が写っていた。

図書館で見つけた30年前の新聞。黄ばんだページには、確かにその記事があった。

『新進気鋭の画家、交通事故で死亡』 『視力を失いながらも新しい芸術を模索していた矢先の悲劇』

私は震える手で、携帯電話の写真フォルダを開いた。蓮さんと一緒に撮ったはずの写真。でも、そこにあったのは、私が一人で立っている写真ばかり。

カフェで、公園で、アトリエで。 私がいて、でも、蓮さんの姿は、どこにもない。

その時、不思議な感覚が私を包んだ。 美咲が最後に見ていた先。もしかしたら、それは...

私は急いで事故現場の記録を調べ始めた。そして、見つけた。 30年前、同じ場所で起きた、もう一つの事故の記録を。

蓮さんが命を落とした場所。それは、美咲が最期に目を向けた場所と、まったく同じだった。

私は、あの交差点に立っていた。 初めて蓮さんに出会った場所。 美咲を失った場所。 そして、30年前に蓮さんが命を落とした場所。

ふと気がついた。美咲が最後に見ていたのは、この場所で、きっと蓮さんの姿だった。時を超えて、三つの視線が交差する場所。

風が吹いた。どこからか、懐かしい声が聞こえる気がした。

私はカメラを構えた。でも今回は、ファインダーを覗かなかった。蓮さんに教わったように、目を閉じ、空気の流れを感じる。

シャッターを切る。 その瞬間、不思議な温かさが私を包んだ。

後で現像された写真には、スクランブル交差点を渡る人々の姿。そして、薄く、でもはっきりと、蓮さんと美咲が寄り添って歩く姿が写っていた。

今でも、私は人々の視線を追いかける。
それは執着ではなく、祈りに近いものになった。

目に見えるものと、見えないもの。 記憶と現実。 過去と現在。

それらが全て交差する瞬間を、私は今も撮り続けている。たまに、現像した写真に、思いがけない「誰か」が写ることがある。でも、それはもう私を驚かせない。

だって、視線は永遠で、写真は魂を映す鏡なのだから。

最近、私は新しい写真展の準備をしている。テーマは「視線の在処」。

きっと、蓮さんも美咲も、どこかでそれを見ているんだろう。今度は、私の視線の先にある世界を。





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