鐘の音が聞こえた。
小学校卒業以来、会っていない同級生が、昨年度亡くなったらしい。
今年、ぼくは35歳になる。小学校時代の友人に、同窓会を開きたいから幹事の1人になってくれ、と言われたのが3ヶ月ほど前。
小学校6年生の時、3クラスで同級生は80人ほどいた。実は、20歳の時にも同窓会をしていて、その時は、60人ほど参加してくれた。ぼくは幹事の中心だった。
今回は、幹事の1人とはいっても中心ではなく、あくまで補佐役となっている。当時の担任の先生に電話する役回りだ。
今回の幹事の中心の人たちは、来れるかどうかは別にして、とにかく何が何でも全員とコンタクトを取りたいと考えているようだった。
このご時世、SNSやらLINEやらで、ある程度、友人たちを介せば、すぐに全員と「つながれる」と思っていたようだ。
しかし、残り3人ほどになり、なかなか連絡つかないようだった。幹事たちの「全員に声をかける」という執念は、すさまじく、実家に電話したり、手紙を書いたりもしていたようだ。
ある日、ぼくのような補佐的な幹事も含めたLINEグループに中心である幹事からメッセージが送られてきた。
「〇〇くんのお母さんとようやく電話で話すことができました。〇〇くんは、昨年度亡くなったそうです。お母さんが、みんなによろしくお伝えください、とのことでした。」といった内容だった。
幹事のグループラインでは、ショックすぎる、きつい、つらい、といった言葉が交わされた。その後は、今生きていることに感謝して、身体を気遣って、会えるうちに会って、、といった言葉でこの話は終わった。
このご時世、SNSやらLINEやらで、ある程度、友人たちを介せば、すぐに全員と「つながれる」と思っていたかどうかは分からないが、まさかもう「つながる」ことができない人がいるなんて想定外だったのだろう。
ぼくは、そこにメッセージを送ることはできなかった。ただただ、訃報を見て、メッセージを眺めるだけだった。何か一言送ろうと思い途中まで打ち込んだが、送るのをやめた。
「鐘の音が聞こえた。」
正直言うと、その亡くなった同級生とは、小学校卒業以来、会っていない。いや、たしか、ぼくが幹事の中心となって行った20歳の同窓会には来てくれていたっけ。その程度の記憶しかない。
当然、連絡先も知らないし、進学先の中学や高校も、どこで何をしていたかも何も知らない。おそらく、今後の人生で会うこともなかっただろう。自分の人生には関係のない人だった。
ただ、鐘の音が聞こえた。
「誰が為に鐘は鳴る」っていうのは、「誰の為に鐘は鳴っているの?」ということらしい。
ヘミングウェイのスペイン内乱を舞台にした恋の物語のタイトルとして知られるこの言葉だが、もともとは、イギリスの詩人・聖職者ジョン・ダンの詩らしい。
孤島のような人間はおらず、すべての人間は大陸の一部であるということ。たしかに、大陸の一部が欠けてしまうと、全体に影響を及ぼすこともあるかもしれない。ある一部が欠けるだけで、今まで吹かなかった風が吹くかもしれない。届かなかった波が届くかもしれない。少なからず、影響はある。
「人は島嶼にあらず」人は孤立する存在ではないのだ。
今後の人生、関わることのない同級生ではあったが、なぜだか、心にぽっかり穴が空いたようなそんな気持ちになった。
なぜだろう。思い浮かぶのは、当時の彼のじじくさい笑顔、年甲斐もなく胡座を組んで、一人称を「ワシ」と言っていたような気がする。その光景がありありと浮かんでくるのだ。
別に、涙を流すわけもなく、お墓参りに行こうと思うわけでもない。交わした言葉も、一つも覚えてはいない。
小学校卒業以来、会っていない同級生が、昨年度亡くなったらしい。
彼の死を知ったぼくは、きっとわずかではあるが、心が揺らいだ。そのほんの少しのゆらぎが、ぼくと生活を共にする家族にも、わずかにたゆたう。その程度かもしれないが、影響はある。
人は島嶼にあらず。孤立する人間などいないのだ。
人が亡くなったら、追悼の鐘が鳴る。それは、亡くなった人の為に鳴っている。その人の家族の為にも鳴っている。
「ゆえに問うなかれ、汝が為に鳴るなれば。」
あの鐘は誰の為に鳴っているの?他でもない、ぼくの為に鳴っている。確かに聞こえた鐘の音。